第7話 今は共にいても
狐ヶ杜の奥、森の木々の切れたその場所は、月明かりに明るく照らされていた。
一面の薄紅色。占い花の花畑だ。
薄紅の花弁を持った、八重咲きの可憐な花が、斜面に咲き誇っている。
輝更義はゆっくりと、その花畑に足を踏み入れた。どんどん分け入っていくと、散った花びらが踊るように風に巻かれながら、風下へと去っていく。
斜面を少し降りたあたり、花に埋もれるようにして、巨体がうずくまっていた。膝に顔を伏せた白装束、笠はどこかになくなっていて、剃り上げた頭は青い。そして、その背中は震えている。
「阿幕佐」
輝更義が話しかけると、その巨体はびくっと跳ね、それから顔を上げた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにした、阿幕佐だった。輝更義を見た瞬間、顔をゆがめる。
「……なぜ、ここに」
輝更義はゆっくりと、阿幕佐から二歩分ほど離れた隣に、腰を下ろした。
「水遥可さまに、押し花をお渡ししたそうだな」
「…………」
阿幕佐は黙っている。輝更義は足元の花に、手ですくうように触れた。
「この、占い花だろう。祈宮で、水鏡壇から流れてきたのを拾ったのか」
阿幕左はうつむき、小さくうなずいた。
そして、ようやく口を開く。
「少しでも……霽月さまを、おそばに感じたかった」
「わかる」
うむ、と輝更義は深くうなずいた。
阿幕佐は彼をちらりと見てから、またうつむいて続ける。
「祈宮にいつも、霽月さまがいることが、当たり前だった」
「うん」
「神事の時、目が合ったような気がしただけで幸せで」
「それな」
「離れているときは、押し花とか絵姿とかの
「お前は俺か」
輝更義は深く、ため息を付いた。
(矢立の言った通りだな。俺と阿幕佐は「同じ」だ)
警護の仕事があるため、占い花を拾うことこそできなかったものの、拾っていれば押し花にして持っていたであろう自信が、輝更義にはある。実際何度も、占いをする水遥花を見ながら、むしろあの花を浮かべる水になりたい! と願ったものだ。
つい先日まで、輝更義と阿幕佐は、同じ立ち位置にいたのだ。
「それなのに」
阿幕佐は声を震わせる。
「久しぶりに俗世に戻ってみれば、陽廉陛下が崩御なされており……もはや祈宮に霽月さまはいらっしゃらず、急ぎに急いで瑞青までたどりついてみれば、伴侶選びの儀まで終わって……霽月さまは、一人の男のものに」
「……うう……」
もし自分だったら、と思いながら彼の言葉を聞いている輝更義は、胸が引き絞られるようだった。
阿幕佐は、つぶやくように続ける。
「それでも、元々、霽月さまは雲の上のお方だ。霽月さまを娶ったお方も、きっと雲の上のお方だろう。そう思っていたのに……」
ぎろり、と、阿幕佐の血走った目が輝更義を見る。
「
(もし、もう少し早く、阿幕佐が修行から戻っていれば)
輝更義は思う。
(俺は、阿幕佐を水遥可さまに勧めていたかもしれない。由緒ある宮司の家系という申し分ない身分、水遥可さまのためなら何でもやるし何でも我慢するであろう人柄、そして……他の女と見合いなどせず、水遥可さまだけに捧げることのできる身)
「……すまぬ」
阿幕佐はまた、うなだれた。
「狐神を、玄氏を蔑むつもりはないのだ。ただ、霽月さまが玄氏の頭領のご生母になれないことが、どうしても……」
ざっ、と、輝更義は立ち上がった。阿幕佐がハッとして、彼を見上げる。
輝更義は阿幕佐から少し離れ、すっ、と腰を落として身構えた。
「久しぶりに、やろう」
「え」
「組み手。祈宮の、玄氏の寮で、たまにやったじゃないか。やろう」
輝更義は、思い出していた。阿幕佐は時々、自分の修行の合間に祈宮に姿を見せていたのだが、その時には守護司の訓練にも混ざっていた。玄氏の者たちと共に食事することもあった。
彼は確かに、玄氏を下に見てはいなかったのだ。
「……」
阿幕佐はしばらくだまっていたが、やがてゆらりと立ち上がった。
そして、
「うおおおお!」
と雄叫びを上げるなり、輝更義につかみかかってきた。
その手をかわしざま、輝更義は低い蹴りを放つ。飛び離れた阿幕佐は、すぐに大きく踏み込んで回し蹴りを放った。がっ、と片腕でそれを止めた輝更義は、もう片方の拳で阿幕佐を狙う。
しばらくの間、ビシュッ、ビシュッという空を切り裂く音と、短い気合いの声が、美しい花畑に交錯した。
(……水遥可さまは、俺と別れた後はどうなさるんだろう)
ほとんど本能で阿幕佐と闘いながら、輝更義は頭の隅で考える。
(漠然と、小雪野さまのご生家に行かれるものと思っていたが……この、腕の立つ阿幕佐に守られながら送る一生も、あり得るのかもしれない。この男なら、『邪魔者』だと思われてきた水遥可さまから、そんな寂しい思いをぬぐい去るだろう。水遥可さまと、慈しみ合いながら……)
相手の突きが当たった訳でもないのに、輝更義は鳩尾のあたりが苦しくなるのを感じる。
共に暮らし始めてからの、食事が美味しいと微笑む水遥可、輝更義と二人きりの状況に恥じらう水遥可、玄氏のしきたりを守る凛とした水遥可の顔が、輝更義の脳裏に次々と浮かんだ。
(白い結婚ではあっても、あんな水遥可さまもこんな水遥可さまも、俺と別れたら、阿幕佐のものに……?)
ふっ、と──
輝更義と阿幕佐はその気配に同時に気づき、動きを止めて振り向く。
月明かりの作る木々の陰から、水遥可のほっそりした姿が現れたところだった。
すぐそばに、小さなレイリと、狐姿のるうなを従えている。おそらく、るうなが匂いを追ってここに気づいたのだろう。
「水遥可さま」
「霽月さま」
男二人は構えを解き、片膝をついた。
「お怪我は、ありませんか」
水遥可は花をそっと押して避けるように歩きながら、近づいてくる。
困ったような、しかし優しげな声が、男たちの耳に届いた。
「立ってください。あなた方がいつまでもそのようでは、困ってしまいます。わたくしはもう、玄氏の女なのに」
「水遥可さま、しかし」
輝更義は立ち上がりながらも、思わず言いかけて唇を噛んだ。
(しかし、それはほんの一時のこと……その後は……)
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