第4話 遅れてきた男

 輝更義や利舜儀は、玄氏の暮らしに慣れない水遥可のために、別邸を建てることを考えていた。

 しかし、水遥可が「祈宮に似ている」と言ってずいぶんと狐ヶ杜を気に入った様子で、別邸は必要ないと言ったため、二人はそのまま離れで暮らすことになった。


 利舜儀は、輝更義が二年経ったら一族の中から第二妃をとるつもりでいることは知っている。しかし、水遥可が輝更義と別れるつもりでいることは知らない。

水遥可としては、狐ヶ杜を気に入っているのも本当だったが、ここを出て行く身で別邸まで建ててもらうわけにはいかない、というのが本音だった。


 離れでは、二人の寝間は別である。

 皇族は元々、妃の元へ皇帝が訪れるという形の夫婦関係になっており、寝間が別であることは水遥可にとって自然なことだった。そして輝更義にとっても、毎日同じ寝台で眠るなどしては命の危険がある(!)ため、寝間は別である方がよいといえた。

 輝更義には守護司としての仕事もあり、勤務時間が不規則である。水遥可は彼のいない間、玄氏の人間からしきたりを学んだり、祝いの文に返事を書いたり、来客の相手をしたりして過ごした。

 同じ離れで暮らしているとはいえ、しばらくの間、ゆっくり会話する機会もなかなか持てず──

 

 一旬(十日)が過ぎた。 


「お帰りなさい、輝更義!」

 珍しく、離れの居間に水遥可がいる時に輝更義が戻ってきたため、水遥可は笑顔で迎えた。

 輝更義はデレッ、と表情を緩める。

「ただいま戻りました!」

「なんだか、とても久しぶりにお会いした気がします」

「本当ですね! 変わったことはありませんでしたか?」

「はい。今日はほとんど、文を書いて終わってしまいました。身体が固まってしまいそう」

 微笑みつつも小さくため息をつく水遥可。輝更義は心配になって言う。

「休みながらにして、身体をいたわって下さい。……あの、水遥可さま、佳月さまのことですが」

「はい」

 新しい祈乙女の話題に、水遥可はうなずく。

「もうあと数日で、祈宮に出立ですね」

 輝更義は微妙な表情になった。

「その、祈宮守護司の隊長が、決まりました。刃凪茂です」


「え」

 水遥可は、少し驚いた顔を上げた。

 かつて輝更義が就いていた職に、彼の兄の刃凪茂が就くというのだ。

「刃凪茂さまが、祈宮に」

「はい。……今日、佳月さまにお目通りをお許しいただく機会があったのですが、輝更義の兄なら安心だと、お言葉を賜りました」

「そう……」

 水遥可は、やや困ったような笑みを浮かべる。

「もしかして、利舜儀さまがお計らいに……?」

「かも、しれません」

 輝更義も苦笑する。


 刃凪茂が玄氏の後継者の座を狙っており、輝更義を目の敵にしていることは、利舜儀も知っていた。

(父上は、俺たち兄弟を近くに置くのは危険だと判断して、なぐ兄を祈宮にやることにしたのかもしれない)

 思いを巡らせる輝更義に、水遥可は話しかける。

「もし……輝更義がわたくしと結婚していなかったら、輝更義が佳月さまについて、再び祈宮に戻っていたかもしれませんね」

「そうですね。もしかしたらいつか、またあの場所で働くことになるかもしれませんが」

 元・祈乙女である水遥可は、交代した以上は神域の中で暮らすことが許されていないため、夫婦で赴任することはない。利舜儀は刃凪茂を送ることにしたようだ。


 輝更義は改めて、水遥可に向き直る。

「そんなわけで、今まで刃凪茂が預かっていた皇宮守護司の一部隊を、俺が引き継ぐことになりました。やはり、しばらくは忙しい日々が続きそうです」


「そう……」

 水遥可はうつむく。

「寂しいです」


(ごふっ)

 まるで弓に射抜かれたかのように輝更義はよろめき、ごまかすようにヨロリと椅子に座った。

「み、水遥可さま、俺がいなくても、自由にお過ごしになって下さいね。ここに引きこもっていては気が滅入るでしょう。徐々に外に出られては」

 水遥可はためらいがちに微笑んだ。

「ずっと祈宮にこもっておりましたし、それを楽しんでもいたのですけれど、これからもずっとそうするわけには行かないと思っています。ですから、外には出たいのですけれど……わたくし本当に世間知らずなので、なんだか心配で」

「レイリや、るうなをお連れになっては?」

「そうですね。まずはこの離れから出て、狐ヶ杜を散策してみるところから始めようかしら」

「そうですね、そうして下さい。街に出るときは、俺がお供します」

 勢い込む輝更義に、水遥可は困った顔をした。

「もう……夫が妻に『お供』だなんて。二人で、出かけましょうね」

「はい! 喜んでー!」

 全力で、早いうちにその日を作ろうと思う、輝更義だった。



 翌日、水遥可はレイリとるうなと共に、輝更義に言ったとおり狐ヶ杜の散策に出かけた。

「利舜儀さまがお住まいの館や、輝更義さまと水遥可さまの離れの他にも、玄氏の方々がお住まいになっている館がいくつも、森のあちこちにあります」

 るうなが歩きながら説明してくれる。

「奥へ進むと、小さいながらも山になっていて、狐神を祀るお堂や、一族の宝物を納めた宝物殿、希少な植物を集めた薬草園、書物倉、小庭園や池、武運長久を祈念する塔などがございます。一日で全部回るのは難しいので、今日はどちらに参りましょうか?」

「あちこち回る前に、まずは何を置いても、狐神さまにご挨拶に伺わなくては」

「かしこまりました!」


 森はそれほど鬱蒼としておらず、光が入って緑を鮮やかに浮かび上がらせている。時折、茂みの向こうから狐が顔を出し、水遥可に向かってペコリと頭を下げた。水遥可は嬉しくなり、そのたびに笑みを返す。

 やがて道は登りになり、目の前が開けたかと思うと、眼下に小さな池が見えた。そんな景色を楽しみながら、三人はさらに進んでいく。


 道は石段に変わり、ついに目の前に堂が現れた。木々に囲まれた堂の扉は開かれており、その黒い扉の奥には赤い敷物。そこに、狐の像が鎮座している。


 水遥可は息を整えてから進み出ると、段を上り、掃き清められた回廊に膝をついた。

(輝更義のご先祖さま。輝更義をわたくしの元に遣わして下さり、心から感謝申し上げます)

 重ねた両手を胸に当てたまま、水遥可は狐神の像を見上げた。

 細くつり上がった目の狐の像は、頭の後ろに炎のような意匠を背負い、足下に九本の尾を大蛇のように巻き付けて、静かにそこにいる。

 千里を駆けるといわれる狐神は、果雫国以外にもこの世のあらゆる場所に行くことができ、あらゆる神々と交流があるといわれていた。

 水遥可は目を閉じた。

(輝更義の存在に、本当に、助けられています。どうか、逆にわたくしの存在があの方の妨げにならぬよう、お力をお貸しください。そして、わたくしの力が、よからぬことに使われぬよう、お守りくださいませ……)

 レイリとるうなも、水遥可の背後で膝をつき、祈りを捧げる。そして後ろに下がり、主人が長い祈りを終えるのを待っていた。


「……終わりました。行きましょう」

 水遥可は立ち上がり、次の行き先を希望する。

「先ほどの、美しい池の回りを歩いてみたいわ」

 そこで、三人は来た道を戻り始めたのだが──


 ──道の途中に、大柄な人影が立っている。

 笠をかぶった頭、高い下駄。白装束に、赤い紐。


 先頭を歩いていたるうなが足を止め、水遥可の後ろにいたレイリは前に出てるうなと並んだ。レイリが声を張る。

「そこにいるのは、何者です」 

 人影は大きく一歩、二歩と前に出ると、さっと膝をついて頭を下げた。

「祈乙女、霽月さまとお見受けする。それがしは阿幕佐あまくさと申す者でござる!」


 顔を上げたその人物は、太い眉にいかつい顔立ちの、三十代ほどに見える男だった。よく日に焼けた肌に、剃り上げたばかりらしい青青とした顎、身体つきはがっちりしている。笠の下は、頭を剃り上げているようだ。


 レイリは振り返って水遥可を見た。水遥可は目を見張る。

「まあ」

 るうなはレイリに「どなた?」と首を傾げた。レイリは袖の陰でささやく。

「祈宮によくお参りに来ていた男で、宮司の親族です。あちらこちらの宮や山で、修行を積んでいると」

「そう、それで、しばらく会っていなかったのです」

 水遥可は付け加えると、レイリたちの前に出た。

「わたくしはもう祈乙女ではありません。そう畏まらずにお立ちなさい、阿幕佐。お元気そうで何よりです。よもや狐ヶ杜で会うなんて」

「修行で俗世を離れており、半年ぶりに祈宮に詣でてようやく、何が起こったか知ったのでござる。陽廉陛下のことも、霽月さまが祈宮を離れたことも、そして……こ、降嫁なさったことも」

 膝を着いたままの阿幕佐の声が、震える。レイリはふと気遣わしげに、水遥可を見た。


 水遥可は、立ち上がらない阿幕佐の顔をのぞき込むように、軽く膝を曲げた。

「あなたが俗世を離れてご自分を高めている間に、わたくしの方は気忙しくしているばかりで……。でも、夫や玄氏一族が助けて下さっています」

「夫」

 ぐっ、と、阿幕佐の拳に力が入った。

「輝更義殿、か」


 水遥可はようやく、彼の様子が彼女の知っているものと違うことに気づく。

「阿幕佐……?」

「霽月さま。いや、み、水遥可さま!」

 阿幕佐はガバッと顔を上げた。目が血走っている。

「存じ上げていれば、私は伴侶選びの儀に名乗りを上げており申した!」

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