第3話 玄氏の装束

「な、なるほど……お気遣いいただきありがとうございます、俺の浅慮でした。……では、新婚早々、俺が浮気して、水遥可さまの信頼を失ったことにするとか」

 輝更義は、二人が別れるための案を考える。水遥可は首を振った。

「それでは輝更義の印象が悪くなってしまうではありませんか」

「俺は別に」

「ただでさえ輝更義に迷惑をかけているのに、その上さらにだなんて、わたくしが自分を許せません。あなたさまは、いずれは玄氏の頭領となる御身でしょう。なるべく傷をつけたくないのです。その点、わたくしにはもう、あの力以外に失うものはないのですから。……そうだわ」

 水遥可はふと、両手を合わせた。

「先ほど、お義父さまにはあのように申し上げましたけれど……。やはりわたくしが、輝更義が他の女人と子を成すことが辛くて、そばにいることすら辛くて離縁……というのはどうかしら?」


(それはつまり、水遥可さまが俺のことで嫉妬を!?)

 輝更義は額を抑えながらのけぞった。

「くっはぁ」

「あの、いけませんか?」

 水遥可の困り顔もまた、輝更義を惑わせる。

「ああああ。そ、それでいいです。くぅ。殺す気か」

「あ、ごめんなさい、まだ具合が悪いのですね?」

 はっとして、水遥可は立ち上がった。

「横にならなくては。さ、寝間に行きましょう、わたくしにつかまって」

「あっ違う、いや違わないけど、ええと」

 水遥可がしなやかな手を差し出す。

「今は、わたくしは妻なのですから……手を貸すくらいのことは、させてください」


(このお方は本当に俺を殺す気だ。しかし! 水遥可さまに殺されるなら本望!)

 とっさに覚悟を決めた輝更義は、ぎくしゃくと水遥可に手を伸ばす。

 慣れない水遥可は、その手を取った。


 しかし彼女は、こういうときの力加減がわからない。自分より大柄な輝更義に手を貸すには大きな力が必要だと考え、強く、引いた。


「あ」

 メロメロよぼよぼの輝更義は、小卓の足につまづいてよろける。

「わっ」

「あっ」

 水遥可の方へと倒れかかった輝更義は、とっさに彼女の腰を抱きながら踏みとどまった。


 輝更義の胸に、すっぽりと、水遥可が収まる。

(密・着……!)

 狐の頭の中が、真っ白になった。


 まるで時が止まったかのように、二人はそのまま動きを止めた。

 窓からは穏やかな風が入り、鳥の声を運んでくる。


 水遥可がささやいた。

「……輝更義の衣、いい香りがしますね」

 水遥可の髪に頬を押しつけている輝更義も、呆然と答える。

「……水遥可さまも……いい匂いで、柔らかいです……」

 顔を上げた水遥可は、ささやいた。

「今ちょっと、わたくしたち、夫婦らしい雰囲気だったように思います」

 そのみずみずしい頬が、ほんのり紅色に染まっていた。


(果実みたいだ……すすりながら味わいたい)

 輝更義は無意識に顔をすーっと近づけ――

 ――後ろからスコンッとやられて我に返った。


「そっ、そうですね! 夫婦とは、きっとこういう雰囲気なのでしょう!」

 色々な意味でそろそろ限界の輝更義は、水遥可をパッと離す。そして、ごまかすように外に向かって声を上げた。

「誰か、茶をもて!」

 はい、と侍女の返事が聞こえる。水遥可は、あ、と息を呑んでから、うつむいた。

「夫にお茶を、なんて、わたくしが気づくべきことなのに。……どうしましょう、わたくし、どなたかに弟子入りしないと妻らしくなれないかもしれません」

「いいです、いいですから! 少しの間なのですから!」

 輝更義は水遥可をなだめ、そして考えた。


(そう……水遥可さまが俺の妻でいるのは、少しの間だけ。いずれは、俺が玄氏からもう一人の妻を娶り、水遥可さまは嫉妬を……あれ?)


「あの、水遥可さま。俺はいずれ、玄氏の女子と見合いをしなくてはならないということになりますが、それはいつ……」

「もちろん、早い方が良いです」

 水遥可は不思議そうに首を傾げ、続ける。

「落ち着いたらすぐにでも」


(水遥可さまを妻にしてすぐ、一族の女子とも本気ガチの見合い……。恐れ多すぎて、俺、ろくな死に方をしないかもしれない)

 椅子に座ったまま、白目になる輝更義であった。


 やがて、茶が運ばれてくる。

 机の上に二人分の茶を置いた侍女は、少し下がると、胸の前で両手を重ねて頭を下げた。

「るうな、と申します! 至りませんが、お世話させていただきます!」

 まだ十四、五歳のようで、丸顔にはきはきとした声が好ましい。

 水遥可は微笑んでうなずいた。

「よろしく頼みます。るうなは、茶色の髪をしているのね……茶色の狐なのですか?」

「はいっ。あ、胸と手足は白いんですよー」

 るうなはにっこりと笑った。

玄氏なら毛は黒だが、狐ヶ杜には他にもいくつかの狐の一族が暮らしている。るうなの一族は、神代の時代には狐神のために働く使者であったと伝えられている。

 水遥可は隣の間に顔を向けた。

「レイリ」

「はい」

 控えていたレイリが入ってきて、頭を下げた。るうなは目を見張る。

「わっ、子どもだ!」

 レイリがぎろりと、るうなを睨んだ。

(るうなは何でも口にしてしまう侍女のようだな)

 少し呆れた輝更義だったが、成り行きを水遥可に任せることにして黙っていた。

 水遥可が手をさしのべる。

「ええ、五歳の時からもう四年、私に仕えてくれている、レイリです。私についてとても詳しいので、色々と聞いて下さい。レイリ、るうなが玄氏のしきたりを教えてくれるでしょう。二人とも、よろしくお願いしますね」

「かしこまりました」

 二人はそろって頭を下げた。


 るうなはにこにこと、レイリに「よろしく!」と声をかけたが、気が急いているのかレイリの反応も待たずに水遥可に向き直った。

「奥方さまのお部屋に、お召しものをご用意してございます!」

「助かります」

 水遥可は表情を明るくする。

「昨日の今日で、玄氏に嫁入りするにあたって必要なものを何も揃えられなくて……。早く玄氏らしく身なりを整えたかったのです」

「わあ、よかった!」

 るうなは両手を打ち合わせた。

「水遥可さまは皇女さまでいらしたから、玄氏の装束などお召しになりたくないかもって心配してたんです!」

「おい、るうな」

 あまりにあけすけなるうなに、輝更義は思わず口を挟んでしまった。レイリなど、げっそりした顔をしている。

 しかし、水遥可は輝更義にうなずきかけてから、るうなに答えた。

「いいえ、むしろ楽しみにしていました。用意してくれていたなんて、ありがたいことです」

「利舜儀さまが、結海木ゆうなぎさまのお着物でよければと仰せでした」

 るうなの言葉に、水遥可は片手で胸を押さえた。

「お義母さまの形見を、わたくしにと? なんと誉れなことでしょう。すぐに着替えたいと思います、手伝ってください。輝更義さま、失礼しますね」

 嬉しそうに立ち上がった水遥可は、茶も飲まずにるうなとレイリと共に別室に移っていった。


(そ、そうか。色々と、手配せねばな)

 陽永を始め、皇族たちや貴族たち、そして水遥可の亡き母である小雪野こゆきのの生家からも、そろそろ祝いの品が届き始めるだろう。

 しかし実際には、水遥可はいずれ玄氏を離れる身である。その時になってから必要なものもあるだろうから、何もかも玄氏のために使ってしまうことはない、と、輝更義は考えを巡らせた。

(玄氏として必要なものは、なるべく俺が手配しよう。……母上がご存命であれば、お任せできたのにな)

 机に片肘をつき、輝更義は母の結海木のことをちらりと考える。


 結海木は、利舜儀の第一妃だ。玄氏では男も女も武官として働くため、輝更義が生まれてしばらく経った頃、結海木も仕事を再会したのだが……

 果雫国の西には、高天コウテン国という小さな国があるが、そのさらに西の大陸にはケンという巨大な帝国がある。その絹への使者の守護司を任された結海木は、大陸から絹の首都へ向かう途中で崖崩れに巻き込まれ、行方不明になってそれきりだった。

 生きているならとっくに知らせがあるはずなので、そういうことなのだろう。乳母に育てられた輝更義は、母の顔すら覚えていない。

利舜儀のそばにはその後、女人がいたりいなかったりだったが、結局新しく妻を娶ることはなかった。


 とにかく、女手が必要なことは色々とある。親族の女性に頼むべきことを輝更義があれこれ考えているうちに、いつの間にか半刻ほどの時間が過ぎ――


 ――廊下から、衣擦れの音がした。

 水遥可の声。

「輝更義さま」

「はいっ」

 ハッとして顔を上げた輝更義は、振り返った。

 廊下から、レイリとるうなを従え、水遥可が入ってくる。

「……み、はる、か」

 輝更義は思わず、立ち上がった。


 玄氏の装束姿の水遥可が、立っている。

 ふんわりと透ける白い上着は、祈乙女の装束と同じだったが、淡い紅色の上衣と若草色の袴が美しい。胸のすぐ下を細い帯で結んで前に垂らし、帯の先と袴の裾に玄氏独特の文様が入っていた。

 今まで結い上げていた髪は玄氏風に下ろし、幅広の飾り紐で一部だけを後ろで結い、背中に垂らしている。玄氏は金属の飾りを身につけず、衣服も薄く軽いものを重ねるため、今までよりもずいぶん身軽に見えた。

 長い前髪を眉のあたりで切り落とした水遥可は、まるで少女のようだ。


 輝更義は、初めて出会った頃の水遥可を思い出しながら、思わず手を伸ばしていた。

 目を見開く水遥可の手を取る。

「……言葉になりません」

「輝更義……」

 いつの間にか、レイリとるうなはいなくなっている。

 輝更義は、すぐには、水遥可から手を離すことができなかった。

(これから二年……たった二年、か)


 困ったような声が、彼の耳に届いた。

「あの……お義母さまを、思い出しますか? 結海木さまのお召し物、とても嬉しいのですけれど、お義母さまのように振る舞えるようにしなくては、お召し物が泣きますね」

(そーじゃない! 母上と比べたりとかしてない!)

 輝更義はあわてて手を離した。

「いえあの、水遥可さまは美しいです! お似合いです! 尊いです!」

「本当ですか? よかった」

 水遥可は嬉しそうに微笑み、自分の身なりを見下ろした。 

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