第二章 狐ヶ杜の新婚夫婦

第1話 儀式の翌朝

 輝更義きさらぎは、瀕死の床にあった。


 兄・刃凪茂はなぐもとの闘いの傷が悪化したわけではない。

 元々、狐神の血を引く玄氏げんし一族は強靱な身体を持っており、ちょっとやそっとでは致命傷にはならないのだ。玄氏同士の闘いで深手を負い、狐の姿になってしまったとはいえ、身のうちの力を全て回復に回して一晩経てば、翌日には人間の姿をとることができる。


 しかし、輝更義は血走った目で、荒い息をついていた。


 床の敷布の上、彼のすぐ横で、水遥可みはるかが眠っている。

 彼が目を覚ましたら、うつ伏せで眠っていた黒狐の身体のすぐ横で、眠っていたのである。

 水遥可の陶器のような頬に、細く長いまつげがけぶるように影を落とし、瑞々しい唇は何かを誘っているかのように少しだけ開いている。敷布の上に置かれた手の爪は薄紅色で、口に含んだら砂糖菓子のように甘いに違いないと思わせた。横になって身体を縮めているせいか、寝間着の胸元の合わせが少し浮いて、柔らかそうな肌が覗いている。


(……死ぬ……)

 硬直していた輝更義は、必死で水遥可の寝姿から意識を逸らし、彼女の手のそばにある自分の前脚を凝視した。

(ここで色々と妄想した時点で俺は死ぬ。たぶん結構幸せに死ぬ。しかし、水遥可さまを置いて死ぬわけにはいかないっ。何も考えるな! 見たいけど見るな! 見たいけど! 見っ……!)

 こんな時にこそ矢立やたてのツッコミが欲しかったが、矢立は昨夜、気を使って寝間から出て行ってしまっている。気遣いのできる付喪神、矢立である。

(は、離れなくては)

 輝更義は理性を総動員して、桃色の世界に飛んでいきそうな意識を引き戻した。水遥可に届きそうだった前脚を自分の方へ、ズズッ、と引き寄せる。


 その動きで、敷布が軽く引っ張られた。

 水遥可の手がわずかに輝更義の方へと――


「……ん」

 ふっ、と、水遥可の瞼が浮かぶように開き、青みがかった黒い瞳が輝更義を捉えた。

 黒狐の方は、再度、硬直中である。


「あ……輝更義」

 はっ、と水遥可は手をついて起き上がった。顔を縁取る黒髪が少し乱れ、なまめかしい。

「みっ、水遥可さまっ、おはようございあぁあぁ」

 ようやく硬直が解けた輝更義は、パッと立ち上がろうとして何もないところでつまづき、転がってしまった。

「輝更義! 傷がっ」

 心配して身を乗り出した水遥可の目の前で、輝更義はすぐに二本足でパッと立ち上がる。すでに寝間着をまとった人間の姿に変わっていた。

「あらためましておはようございます!」

「ぐ、具合は? 輝更義、身体は大丈夫なのですか?」

「はい、ご心配をおかけしました! この通りです!」

 くるり、と、輝更義は側方倒立回転跳び四分の一ひねり後向きロンダートで寝間の隅の方へ着地した。距離をとるためにさりげなさを演出したつもりである。

「水遥可さまこそ、おやすみになれましたかっ?」

「ええ」

 輝更義の元気っぷりに目を丸くしてから、水遥可は微笑む。

「今日も、忙しくなりそうですね。輝更義、無理をしないで、何かあったら我慢せずに言ってくださいね」

「ありがとうございます! それでは、のちほど!」

 輝更義はぎくしゃくと、寝間から廊下へと出て行った。


(危なかった)

 額の汗を拭い、彼は表情を引き締める。

(この契約結婚に、まさか命の危険があったとは。気を引き締めてかからねば、二年も保たずに死んでしまう。まあ、それはそれで、水遥可さまにとっては都合がいいかもしれないが)


 スコンッ、と、後頭部に衝撃。

「痛っ!」

 振り向くと、矢立が懐紙にサラサラと『尾』の字を書いたところだった。

「遅いわ! 起きたらすぐに殴れよ!」

 輝更義は尾を引っ込めながらも理不尽な文句を言い、矢立は不思議そうに身体を傾けたのだった。



 その日、太陽が中天高く昇る頃、水遥可は無事に祈乙女の任を絵鳥羽えとりはに引き継いだ。

 絵鳥羽はつたない仕草ながらも、新皇帝・陽永と対の存在となる儀式を行い、『佳月』の名乗りを上げた。続いて、皇宮内の水盤を用いて、自らが祈宮へと出立する吉日を占う。


「絵鳥羽……いえ、佳月さま。ご立派です」

 出立までの間も行事が続く。気軽には会えなくなる絵鳥羽に、水遥可は挨拶をした。

「道中、ご無事で。わからないことは祈宮いのりのみやの女官にお聞きください。皆、心を尽くしてくれます」

 祈乙女いのりおとめの装束をつけた絵鳥羽は、頭挿花かざしをしゃらりと揺らして涙ぐむ。

「ありがとうございます、おねえさま……。どうか、玄氏でお幸せに。祈宮でいつも、お祈りしています。輝更義殿、おねえさまをよろしく頼みます」

「はい。俺が命を賭してお守りします!」

 守護司の装いの輝更義は、片膝をついて頭を下げた。

「お身の回りの警護は、祈宮守護司に安心してお任せください。現在、人選中かと思われますが、我が一族選りすぐりの武官たちがお守りしますから」

「輝更義がそう言うのなら、本当に安心です。……行って参ります」

 絵鳥羽は涙をこらえるように、微笑んだ。  


 輝更義と水遥可は、一連の儀式を取り仕切る祭司たちに見送られ、宮を退出する。レイリもひっそりと、後ろをついてきていた。

 内庭を出る門の向こうで、輝更義の部下が数人、輿を用意して待っているのが見える。水遥可が乗るためのものだ。


 玄氏は輿を使わない習わしで、水遥可もそれに倣うつもりだった。山中の祈宮で、岩肌にへばりつくような階段を上り下りして暮らした彼女は、足腰にはそれなりに自信がある。

 しかし、輿を使わないのは玄氏が狐の姿で走ることができるからであり、水遥可はそれに該当しない。そして、玄氏本家は皇宮からかなりの距離がある。人通りの多い都路みやこじを通るとあって、元・祈乙女を歩かせるところを人目にさらすのは……という内外からの意見もあった。そのため、今回に限り輿を使うことになったのだ。


 門の手前で足を止めた輝更義は、じっと水遥可を見つめた。

 水遥可も足を止め、彼を見上げてわずかに首を傾げる。

「……どうかなさいましたか?」

「いえっ、あの……なんだか実感が湧かなくて。これから水遥可さまを、玄氏本家にお連れして、ともに暮らすなんて」

 水遥可は表情を引き締める。

「さま、は、もういりません」

「は……」

「白い結婚でも、結婚は結婚です。契約以外の部分では、わたくしがあなたの妻としての役目を果たすのは当然のこと」

「俺の、つま」

「はい。水遥可、とお呼びください。輝更義さま」

 輝更義はへなへなと膝をつく。

「ふおおお……俺は一体、前世でどれだけぶっちぎりの徳を積んだんだ……」

「しっかりしてください、傷が痛むのですか?」

 水遥可が心配そうに隣にしゃがみ込む。

 門の向こうにいる部下たちは色々と察しているのか、手を貸しに来ることもなくニヤニヤと二人を見ていた。

 輝更義は真顔で思う。

(部下たちは、俺と水遥可さまが昨夜……したと思ってるんだろうな。でも、普通に考えてそんなわけないだろ、と小半刻こいちじかん説教したい。水遥可さまだぞ? 最高の中の最高、尊い水遥可さまだぞ?)

「輝更義さま?」

「ハイ」

 しゃきん、と輝更義はようやくまっすぐに立つ。水遥可はまだ心配そうだ。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です。ま、参りましょう」


 二人はようやく、連れだって門を出た。

 輿の横で足を止め、輝更義は一つ深呼吸してからビシッと手を差し出す。水遥可はハッとしたようにその手を眺め、そして頬を染めて恥じらいながら自分の手を委ねた。そして靴を脱ぎ、輝更義がもう片方の手で上げた御簾をくぐる。


 周りの者たちは知らないが、手をつないだのさえようやく二度目の二人である。今までは、主にレイリが水遥可に手を貸していた。

 輝更義はともかくとして、水遥可は相手が男でも女でも、誰かと直接触れ合うことが少ない生活を送ってきている。そのため、こうして手が触れるだけでかなり緊張するのだった。

 輝更義もまた、不思議な気分になっていた。

(祈宮で、女官の次に水遥可さまのおそばにいると思っていたが……まさか、もっと近い場所が俺に許されるなんて)


 輿は、都路へと出て行く。往来の人々が気づいて、次々と笑顔で頭を下げた。すでに伴侶選びの儀の結果は、民にも知れ渡っているようである。


 上げたままの御簾の下から外を眺めていた水遥可が、すぐ横を歩く輝更義を見上げ、小声で尋ねる。

「……本当に、よかったのですか?」

 その上目遣いにクラクラしつつ、輝更義は何とか正気を保ちながら聞き返した。

「何が、でしょう?」

「わたくしと結婚してしまったから、輝更義さまを想う玄氏の女人がいらしたら、悲しみます」

「あの、水遥可さま」

 えへん、と咳払いをする輝更義。

「俺には想い合う女人はおりませんし、心当たりもございませんので、ご心配なく。それと、輝更義さま、はご勘弁ください。尻尾が逆立ってしまう。今まで通り、輝更義と」

「そうですか……? あなたがそう言うなら、二人の時はそうします。でも、人前では輝更義さまと呼ばなくてはおかしいです」

「わかりました。では、それで」

「輝更義もですよ。人前では、水遥可、と」

「はっ、ハイ。……み……みはルか」

 裏返ったその声を聞いて、部下がゴフッとおかしな咳をした。

 水遥可はようやく、再び前を向いて続ける。

「昨日は何もかも大急ぎでしたから、本家に着いて二人になったら、これからのことをお話しましょうね」

「はい! 二人で、相談いたしましょう!」

 全て水遥可の望むとおりにするつもりではあったが、輝更義はうなずく。そんな二人の会話を、何も知らない部下たちは微笑ましく思うのであった。


 やがて一行は都大路を途中で折れ、瑞青ズイセイの西へと向かった。

 通称、狐ヶ杜。深い森の中にある、玄氏の本家である。

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