第二章 狐ヶ杜の新婚夫婦
第1話 儀式の翌朝
兄・
元々、狐神の血を引く
しかし、輝更義は血走った目で、荒い息をついていた。
床の敷布の上、彼のすぐ横で、
彼が目を覚ましたら、うつ伏せで眠っていた黒狐の身体のすぐ横で、眠っていたのである。
水遥可の陶器のような頬に、細く長いまつげがけぶるように影を落とし、瑞々しい唇は何かを誘っているかのように少しだけ開いている。敷布の上に置かれた手の爪は薄紅色で、口に含んだら砂糖菓子のように甘いに違いないと思わせた。横になって身体を縮めているせいか、寝間着の胸元の合わせが少し浮いて、柔らかそうな肌が覗いている。
(……死ぬ……)
硬直していた輝更義は、必死で水遥可の寝姿から意識を逸らし、彼女の手のそばにある自分の前脚を凝視した。
(ここで色々と妄想した時点で俺は死ぬ。たぶん結構幸せに死ぬ。しかし、水遥可さまを置いて死ぬわけにはいかないっ。何も考えるな! 見たいけど見るな! 見たいけど! 見っ……!)
こんな時にこそ
(は、離れなくては)
輝更義は理性を総動員して、桃色の世界に飛んでいきそうな意識を引き戻した。水遥可に届きそうだった前脚を自分の方へ、ズズッ、と引き寄せる。
その動きで、敷布が軽く引っ張られた。
水遥可の手がわずかに輝更義の方へと――
「……ん」
ふっ、と、水遥可の瞼が浮かぶように開き、青みがかった黒い瞳が輝更義を捉えた。
黒狐の方は、再度、硬直中である。
「あ……輝更義」
はっ、と水遥可は手をついて起き上がった。顔を縁取る黒髪が少し乱れ、なまめかしい。
「みっ、水遥可さまっ、おはようございあぁあぁ」
ようやく硬直が解けた輝更義は、パッと立ち上がろうとして何もないところでつまづき、転がってしまった。
「輝更義! 傷がっ」
心配して身を乗り出した水遥可の目の前で、輝更義はすぐに二本足でパッと立ち上がる。すでに寝間着をまとった人間の姿に変わっていた。
「あらためましておはようございます!」
「ぐ、具合は? 輝更義、身体は大丈夫なのですか?」
「はい、ご心配をおかけしました! この通りです!」
くるり、と、輝更義は
「水遥可さまこそ、おやすみになれましたかっ?」
「ええ」
輝更義の元気っぷりに目を丸くしてから、水遥可は微笑む。
「今日も、忙しくなりそうですね。輝更義、無理をしないで、何かあったら我慢せずに言ってくださいね」
「ありがとうございます! それでは、のちほど!」
輝更義はぎくしゃくと、寝間から廊下へと出て行った。
(危なかった)
額の汗を拭い、彼は表情を引き締める。
(この契約結婚に、まさか命の危険があったとは。気を引き締めてかからねば、二年も保たずに死んでしまう。まあ、それはそれで、水遥可さまにとっては都合がいいかもしれないが)
スコンッ、と、後頭部に衝撃。
「痛っ!」
振り向くと、矢立が懐紙にサラサラと『尾』の字を書いたところだった。
「遅いわ! 起きたらすぐに殴れよ!」
輝更義は尾を引っ込めながらも理不尽な文句を言い、矢立は不思議そうに身体を傾けたのだった。
その日、太陽が中天高く昇る頃、水遥可は無事に祈乙女の任を
絵鳥羽はつたない仕草ながらも、新皇帝・陽永と対の存在となる儀式を行い、『佳月』の名乗りを上げた。続いて、皇宮内の水盤を用いて、自らが祈宮へと出立する吉日を占う。
「絵鳥羽……いえ、佳月さま。ご立派です」
出立までの間も行事が続く。気軽には会えなくなる絵鳥羽に、水遥可は挨拶をした。
「道中、ご無事で。わからないことは
「ありがとうございます、おねえさま……。どうか、玄氏でお幸せに。祈宮でいつも、お祈りしています。輝更義殿、おねえさまをよろしく頼みます」
「はい。俺が命を賭してお守りします!」
守護司の装いの輝更義は、片膝をついて頭を下げた。
「お身の回りの警護は、祈宮守護司に安心してお任せください。現在、人選中かと思われますが、我が一族選りすぐりの武官たちがお守りしますから」
「輝更義がそう言うのなら、本当に安心です。……行って参ります」
絵鳥羽は涙をこらえるように、微笑んだ。
輝更義と水遥可は、一連の儀式を取り仕切る祭司たちに見送られ、宮を退出する。レイリもひっそりと、後ろをついてきていた。
内庭を出る門の向こうで、輝更義の部下が数人、輿を用意して待っているのが見える。水遥可が乗るためのものだ。
玄氏は輿を使わない習わしで、水遥可もそれに倣うつもりだった。山中の祈宮で、岩肌にへばりつくような階段を上り下りして暮らした彼女は、足腰にはそれなりに自信がある。
しかし、輿を使わないのは玄氏が狐の姿で走ることができるからであり、水遥可はそれに該当しない。そして、玄氏本家は皇宮からかなりの距離がある。人通りの多い
門の手前で足を止めた輝更義は、じっと水遥可を見つめた。
水遥可も足を止め、彼を見上げてわずかに首を傾げる。
「……どうかなさいましたか?」
「いえっ、あの……なんだか実感が湧かなくて。これから水遥可さまを、玄氏本家にお連れして、ともに暮らすなんて」
水遥可は表情を引き締める。
「さま、は、もういりません」
「は……」
「白い結婚でも、結婚は結婚です。契約以外の部分では、わたくしがあなたの妻としての役目を果たすのは当然のこと」
「俺の、つま」
「はい。水遥可、とお呼びください。輝更義さま」
輝更義はへなへなと膝をつく。
「ふおおお……俺は一体、前世でどれだけぶっちぎりの徳を積んだんだ……」
「しっかりしてください、傷が痛むのですか?」
水遥可が心配そうに隣にしゃがみ込む。
門の向こうにいる部下たちは色々と察しているのか、手を貸しに来ることもなくニヤニヤと二人を見ていた。
輝更義は真顔で思う。
(部下たちは、俺と水遥可さまが昨夜……したと思ってるんだろうな。でも、普通に考えてそんなわけないだろ、と
「輝更義さま?」
「ハイ」
しゃきん、と輝更義はようやくまっすぐに立つ。水遥可はまだ心配そうだ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ま、参りましょう」
二人はようやく、連れだって門を出た。
輿の横で足を止め、輝更義は一つ深呼吸してからビシッと手を差し出す。水遥可はハッとしたようにその手を眺め、そして頬を染めて恥じらいながら自分の手を委ねた。そして靴を脱ぎ、輝更義がもう片方の手で上げた御簾をくぐる。
周りの者たちは知らないが、手をつないだのさえようやく二度目の二人である。今までは、主にレイリが水遥可に手を貸していた。
輝更義はともかくとして、水遥可は相手が男でも女でも、誰かと直接触れ合うことが少ない生活を送ってきている。そのため、こうして手が触れるだけでかなり緊張するのだった。
輝更義もまた、不思議な気分になっていた。
(祈宮で、女官の次に水遥可さまのおそばにいると思っていたが……まさか、もっと近い場所が俺に許されるなんて)
輿は、都路へと出て行く。往来の人々が気づいて、次々と笑顔で頭を下げた。すでに伴侶選びの儀の結果は、民にも知れ渡っているようである。
上げたままの御簾の下から外を眺めていた水遥可が、すぐ横を歩く輝更義を見上げ、小声で尋ねる。
「……本当に、よかったのですか?」
その上目遣いにクラクラしつつ、輝更義は何とか正気を保ちながら聞き返した。
「何が、でしょう?」
「わたくしと結婚してしまったから、輝更義さまを想う玄氏の女人がいらしたら、悲しみます」
「あの、水遥可さま」
えへん、と咳払いをする輝更義。
「俺には想い合う女人はおりませんし、心当たりもございませんので、ご心配なく。それと、輝更義さま、はご勘弁ください。尻尾が逆立ってしまう。今まで通り、輝更義と」
「そうですか……? あなたがそう言うなら、二人の時はそうします。でも、人前では輝更義さまと呼ばなくてはおかしいです」
「わかりました。では、それで」
「輝更義もですよ。人前では、水遥可、と」
「はっ、ハイ。……み……みはルか」
裏返ったその声を聞いて、部下がゴフッとおかしな咳をした。
水遥可はようやく、再び前を向いて続ける。
「昨日は何もかも大急ぎでしたから、本家に着いて二人になったら、これからのことをお話しましょうね」
「はい! 二人で、相談いたしましょう!」
全て水遥可の望むとおりにするつもりではあったが、輝更義はうなずく。そんな二人の会話を、何も知らない部下たちは微笑ましく思うのであった。
やがて一行は都大路を途中で折れ、
通称、狐ヶ杜。深い森の中にある、玄氏の本家である。
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