第10話 おとめときつね

 祝宴は、落ち着いた和やかなものとなった。

 鳥や瑞雲が壁一面に描かれた広間で、しっとりとした琴の音が流れ、工夫の凝らされた料理に酒が並ぶ。二人の席には、皇族や貴族たちが次々と祝いに訪れた。

 皇女の嫁入りなので、羽目を外して騒ぐようなものでもない。怪我を負っている輝更義にとっては救いだったと、水遥可は密かに胸をなで下ろしていた。


 やがて宴もたけなわとなり、水遥可と輝更義は座を辞した。

 提げ灯籠を持ったレイリが先導し、同じ邸の中の、用意された寝間に向かう。

 祈乙女とその夫にとって、この一夜は儀式の一部である。明日にはこれからを暮らす場所へと移動することになるが、今夜だけは伴侶選びの儀の一部として、この邸で過ごすことになっていた。  


 水遥可は控えの間で、レイリに手伝わせて装束を脱ぎ、かんざしを外した。白い寝間着に着替える。

「水遥可さま、もし必要でしたらこれを」

 レイリは密かに、包帯と薬を用意していた。

「私が怪我をしたことにして医務の司からいただきました。少ししかご用意できなかったのですが」

「ありがとう。助かります」

 心を込めて水遥可が礼を言うと、レイリは薄く笑む。

「輝更義殿が夫君なら、安心です」

「そう思いますか? レイリは、あまり輝更義とは気が合わないのかと思っていました」

「私はともかく、水遥可さまにとって幸せなお相手なのではないかと」

 輝更義と気が合わないことをレイリが否定しないので、水遥可は思わず笑ってしまった。

「このような気持ちで、この夜を迎えることができるとは、思っていませんでした。……おやすみ、レイリ」

「はい。おやすみなさいませ」

 レイリに見送られ、水遥可は寝間に入った。


 黒い格子戸に御簾が下がった寝間には、中央に天蓋のついた広い寝台が整えられている。

 白い寝間着姿の水遥可が静かに入っていくと、同じような寝間着姿の輝更義が、すでに入り口の脇で膝をついていた。

「ふえぇ……寝間着姿のみはるかさま……」

 なにやらふにゃふにゃ言いながら、彼は頭を下げた。

 誰も声の届く範囲にいないことを確認してから、水遥可はそっと彼の前に膝をつく。声を抑え、尋ねた。

「輝更義、楽にしてくださいね。そして何があったのか、教えてください」

「アッハイ」

 一度は顔を上げたものの、輝更義は気まずそうに目を伏せた。

「身内の恥を晒すようですが……少々、兄と喧嘩をしまして」

(あの、もう一頭の狐は、輝更義の兄……)

 水遥可は胸の前で両手を握り合わせた。

「やはり、わたくしのせいですね。玄氏ではないわたくしと、結婚などするから」

 彼はパッと顔を上げる。

「いいえ、違います! いつものやつです」

「いつもの……? あ」

 水遥可は、刃凪茂はなぐもの顔を思い出した。

 数年前までは、刃凪茂も祈宮にいたのだ。彼と輝更義が顔を合わせるたび、不穏な雰囲気が漂っていたことは、水遥可も知っている。

 輝更義は頭をかいた。

「その……俺が次期頭領だということが、兄には少々引っかかるようで」

「跡目争い、ということになるのですか? こんな大怪我をするほど……。ここまでしたことは、今までなかったのでは」

「そうですね。でも大丈夫です、こうして御前に戻って参りました」

 輝更義は背筋を伸ばす。

「俺にとっても、良かったのかもしれません。結婚したことで、俺が玄氏を継ぐのも間近だと知らしめることができます」

「でも、その相手がわたくしでは何もなりません。なるべく早くわたくしと別れ、玄氏の女性を第一妃に」

 気持ちが逸る水遥可を、輝更義はなだめる。

「はい。でも、父には二年の猶予をいただいてきましたから。祈宮を離れた水遥可さまにとっては何もかもが大きく変わるのです、俺のそばで何も心配せずにゆっくりする時を持ってもいいでしょう? その後で、水遥可さまのお望み通りに持って行きましょう」

 微笑んだ輝更義の胸元から、巻かれた包帯が見えた。

「輝更義……」

 思わず涙ぐむ水遥可に、輝更義はあわてる。

「はわあああ、水遥可さまの涙あああ」 

「よくぞ、月琴を……それに祝宴の間も耐えて……あの、包帯と薬をレイリが用意してくれました。換えましょう」

「あっ、大丈夫ですっ、このままで!」

「本当? 大丈夫なのですね? ……わたくし、迷惑をかけるばかりで」

「いいえっ、水遥可さまに助けていただいたからこそ、こうして儀式で水遥可さまをめめめ娶ってつつつ妻に! うわぁ待って改めてこれたまらん」

「はい?」

「ええと、その、申し訳ありません……そろそろ、限界が」

 輝更義の声が、苦しげにきしんだ。


 水遥可は急いで立ち上がる。今夜、もう誰も、この部屋に近づかないようにしなくてはならない。

 彼女は次々と、部屋の数カ所に置かれた明かりを吹き消した。邸の者たちはこれで、様子を悟るだろう。


 暗くなると同時に、部屋の中の気配が変わった。闇の中に、ふっ、ふっ、という短い息づかい。

 やがて雲が切れたのか、御簾の向こうから月明かりが差し込み――

 明るくなった床の敷物の上に、ふっさりとした黒い尻尾が見えた。


 水遥可は静かに、闇の中になお黒々と横たわったものに近づく。艶のある毛並みが、わずかに月光を反射した。

 もしも彼が、耐えきれずに人前でこの姿になっていれば。狐の姿で競うことになっていれば。

 他の四人の候補と彼は、あまりにも違いすぎる――そう印象づけることになっていただろう。彼を選べるような流れではなくなっていた。

 そうなれば今頃は、水遥可は他の男の妻だ。


『お見苦しいところを……。明日には人の姿になれますので、水遥可さまはどうぞ、お休みください』

 弱々しい声を漏らす輝更義の顔のそばに、水遥可は再び膝をついた。

「見苦しいなんて思うことなど、あるわけがありません。あなた様は狐神の末裔なのですから。輝更義、さあ、寝台に上がって」

『いいえ、滅相もない。俺はここで』

「固い床で眠ると、傷に障ります」

『敷物がありますので。この姿の時は、こちらの方が落ち着くのです』

「そう。……上首尾グッジョブでしたよ、輝更義」

 ぴっ、と右手の親指を出すと、狐の喉がクーンと鳴った。


「……あの、輝更義」

 夜の闇は、乙女の頬が薄紅色に染まるのを隠している。

「触れても、構いませんか?」

『えっ!? は、はい、いえ!?』

 輝更義の赤い目が、瞬きをした。

『そんな、恐れ多い!』

「殿方の身体に無遠慮に触れるなんて、はしたないと思わないでくださいね。私も、手当てをしたいのです」

 水遥可は、胸の前で握り合わせていた手をほどき、右手をそっとのばした。

 輝更義の背中の、黒い毛並みを、ゆっくりと撫でる。

『みっ、水遥可さま』

「刃凪茂殿は、どうなったのですか?」

『ええと、おそらく本家で手当を受けているかと』

「そう……。わたくしが口を出すことではありませんけれど、困ったお兄さまですね」

『ふおお……寝間着すがたのみはるかさまにさわられている……尊い無理しんどい』

「しんどいの? 痛みますか?」

『ちが……っ。きもちいいということですううう!』


 彼はしばらくの間、耳をぴくぴくとさせていたが、やがて少しずつ、その身体から力が抜けていった。

『みはるかさま……俺の全てを、捧げます……』

 寝言のように言った彼の息づかいが、ゆっくり、深くなる。


「輝更義? ……大丈夫ですか?」

 不安になった水遥可の目の前に、ひらり、と一枚の紙が浮かぶ。

『眠』

「眠っているだけなのね? それならよかった……ありがとう、矢立」

 水遥可が小声で言うと、懐紙は小さな炎を上げて燃えた。銀色の光がふわりと寝間から出て行く。遠慮したのだろう。

「初夜の儀式に、輝更義の方が『全てを捧げます』なんて。ふふ……」

 水遥可は小さく笑う。

 しかし、水遥可はわかっていた。彼は自分の評判を省みず、本当に彼女に全てを捧げるつもりでいることを。


(せめてこれ以上、輝更義の負担にならないようにしなくては。……いずれは別れるとしても、それまでは妻として、輝更義の力になりたい)

 繰り返し、毛並みを撫でる。輝更義はぐっすりと眠っている。

「……わたくしね、輝更義……ただ流されることが、私にできる唯一のことだと思っていました」

 水遥可は、ささやいた。

「でも、手繭良さまがヤエタ領を守っていらっしゃるのを見て、もう少し、わたくし一人でも何かできるのではないかと思ったの」


 まだ自分の力の重大さに気づいていなかった頃、戯れに見た光景。それが、果雫国の未来に関わることだと気づいた時の不安。

 千里眼の力を陽永に使わせず、一生秘密を抱えることで、水遥可は少しでもその未来から国を遠ざけようと考えていた。


 彼女は、輝更義の耳元でそっとささやく。

「詳しく言わなくて、ごめんなさい。でも、二人でいられるのが、こんなに心強いことだとは思いませんでした。……ありがとう」


 二人きりの夜は、更けていった。



【第一章 伴侶選びの儀 終】

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