第9話 選ばれた伴侶

 皇宮の敷地内には、全ての格子戸を開け放って大きな舞台として使用することのできるやしきがある。

 その周りは全て、松の木に囲まれた玉砂利の広場で、広場のどこからでも、邸の中を見ることができた。

 いつの間にか、夕陽は最後の茜色を空にとどめるだけになり、いくつも焚かれた篝火の紅が生き物のように踊って、その存在を宵闇の中に主張している。


 シャン、と鈴の音。


 舞台の中央に、水遥可は進み出た。

 しゃっ、と扇を広げながら、くるりと回る。裳と、長い袖が浮かぶように広がり、その光景は水面に開く金色の蓮の花を思わせた。

 ため息のような声が、あちこちから上がる。

 伴侶選びの儀は、貴族はもちろん、ある程度の地位のあるものなら誰でも名乗りを上げることができる。一方、名乗りは上げなくとも、美しい乙女を一目見ようと大勢の老若男女が詰めかけていた。祈宮に行ったことのない者にとっては特に、これが初めて祈乙女の舞を見る機会でもあるのだ。

 篝火が、水遥可の舞に光と影を演出する。鈴が鳴るたび、乙女が回るたびに、花が次々と咲いては散った。


 やがて、彼女は広縁の縁までくると、静かにたたずんだ。

 舞に没入していた意識が、すうっと浮上してくる。


 水遥可の目の前、広縁の前の広場の中央に、男たちが次々と現れた。いずれも身分の高さを感じさせる華麗な衣服を身につけ、優雅な所作で順に水遥可の目前に控える。


 四人いる男たちが皆、陽永の遠戚であることを見て取って、水遥可は無意識に胸元を押さえた。

(輝更義の、危惧した通りです。これでは、たとえ他にも私を望んでくださる方がいらしたとしても、加わることはできまい)


 五人目、最後に広場に現れたのが、輝更義だった。

 玄氏の正装、黒一色の装いをしている。他の男たちの華やかな見目に反して、黒々としたその姿は逆に目立った。

 彼が玄氏であることを知っている者たちがざわめく。皇女を、狐神の末裔が妻に乞うことは、果雫国の歴史で初めてのことだった。


 水遥可は候補者のひとりひとりに目を向けたものの、輝更義が気になって仕方ない。

(怪我は、大丈夫なのかしら……。それに、輝更義がわたくしを、娶るなどと言うなんて)

 それでは取引にならない、と、水遥可は考える。なぜなら、輝更義は彼女を妻にしても何も得るものがないからだ。怪我も彼女のせいではないかと考えると、胸が痛んだ。

 しかし、輝更義は赤茶色の瞳で、じっと水遥可だけを見つめている。

 先ほどの情熱的な言葉を思い出し、めまいのようなものを覚えて、水遥可は一度彼から目をそらすと観衆を見渡した。

(……こんなに、たくさんの人々が。でも……ここには母上も父上もいらっしゃらない。そして、わたくしもすぐに、ここからいなくなる……)


 水遥可は、自分が皇宮を去るところを想像する。

 皇宮は彼女の居場所ではなかったが、生まれた場所ではあったのだ。複雑ながらも、寂しさがあった。


 しかし、彼女の隣に輝更義がいて、笑顔であの大きな手を彼女にさしのべていたら。


(輝更義となら……ともに行ける)

 靄のかかったようだった心が、晴れた。


 水遥可は、大きく深呼吸した。

(もう、ためらうのはおしまい。わたくしは、輝更義の元へ参りましょう。そのためにはどうしたらいい? 輝更義は玄氏、ここに居並ぶ殿方の中では異色。私が彼を選ぶのが当然のように人々に思わせなくては、後々わだかまりが残る)


 そこへ、声が響いた。

「祈乙女は今夜、その役目を終える」

 水遥可の後ろ、舞台の奥に立った、陽永の声だ。

「これまでの乙女の生をねぎらい、そしてこれからの生を安らかなるものにするに名乗りを上げる者は、誰か」

 官が、候補の男たちを一人一人、紹介し始めた。

 出身の家、過去の手柄、武術の腕前など、華やかな経歴が並ぶ。この時点ではもちろん、祈宮守護司であり玄氏の若頭領である輝更義の経歴も、引けを取らなかった。


 今回降嫁する乙女は若く、そんな乙女を競う男たちには雄々しい打ち合いや演武が相応しいと、観衆は期待している。水遥可はそのことに、薄々気づいていた。

(けれど……今の輝更義は)

 水遥可は、じっと控えている輝更義にちらりと視線を投げる。

(彼はもう、戦って、わたくしの元へたどり着いた。それならば)

 紹介が終わり、陽永が声を張った。

「さあ、神の御前で、男たちをいかにして競わせようか!」


 水遥可は、しゃ、と扇を広げると、それを差し出すような仕草とともに一言、凛と放った。

「月琴を!」


 男たちは意外そうな表情になり、居並ぶ人々もざわめいた。

 月琴とは、銅の部分が満月のように丸い弦楽器である。乙女は、楽器の演奏で夫を選ぶと宣言したのだ。 


 貴族の男たちにとって楽器の演奏は一つのたしなみである。堪能な者も多い。

 侍女が急いで運んできた月琴を、ひとり目の男は落ち着いた様子で受け取った。

 前に進み出た男は、優雅な仕草で弦を弾く。高く澄んだ音が、夜空に昇る。

 奏でるのは、霽月せいげつ――雨上がりの晴れ渡った月をうたう曲。

 これしかないと思わせるような選曲に、観衆は満足げに聞き入った。

 次の男に、月琴が渡る。

 少し考える時間があって後に彼が弾き出したのは、大河に映る月。やはり祈乙女になぞらえて、月にちなんだ曲を選んだのだ。

 三番目の男は、春の朧月を。四番目の男は、欠けた月と男女の恋を。みな、祈乙女にふさわしい内容、そして見事な演奏だ。


(けれど、わたくしはもう霽月ではない。輝更義、あなたにもそう言いましたね)

 水遥可は、侍女から月琴を渡される輝更義を見つめた。

 輝更義も、月琴を奏でる腕を持っている。彼は琴を構えると、顔を上げて水遥可を見つめた。

 二人の視線が絡み合う。


 水遥可は、微笑んだ。

(あなたは私を、長いこと守り続けてくれています。私をよく知っているあなたの思うとおりに、奏でてください)

 水遥可の表情を見た輝更義は、どこか幸せそうな笑みを浮かべた。


 やがて、彼が奏で始めたのは――落花流水の情を謡う曲だった。

 水に浮かんで流れ行きたい花、花を浮かべて流れ行きたい水。いつまでもともに流れようという、男女の心。


 祈宮の、水鏡壇での花占いが、水遥可の心の中に浮かぶ。

 そこから川へ、海へと出て行く花びら。祈宮から出て、新しい人生に踏み出す自分。


 水遥可は、近くにいた侍女に声をかけると、篠笛を持ってこさせた。笛を手に立ち上がると、観客がざわめく。

 黒く短い横笛が、花びらのような唇に当てられた。

 月琴の音色に、深い篠笛の音色が寄り添い始めた。まるで、水と花が寄り添って流れていくように。

 大勢の人々が集う広場で、彼らが声を潜めることで作り出す静寂に、音が滑り出しては流れていく。

 そして、最後の音が空気を震わせ、消えた。


 水遥可は篠笛を口元から離し、そして輝更義を見つめて唇を開いた。

「……くろの輝更義きさらぎさま」

 音色に呑まれていた陽永が、はっと我に返ったときには、水遥可は選んだ名を口にしていた。

「わたくしは、音色が心に響いたあなたさまと、ともに流れ行きたいと存じます」 


 おおーっ、と、民の声が沸き上がった。

 たった今の演奏は人々の心を打ち、二人が似合いの夫婦になるであろうことを知らしめていたのだ。


 輝更義が進み出て、広縁の前で座り、深く頭を下げる。

「乙女をお迎えできること、ありがたき幸せにございます!」

「……めでたきことだ」

 淡々と言った陽永が立ち上がり、宣言する。

「祈乙女を娶るのは、玄輝更義である」

 わあっ、と観衆は歓声を上げた。


 すぐに、宴の準備が始まる。高位の貴族たちはすぐ隣の邸に用意された大広間に移動を始め、それ以外の者たちには広場で祝い酒が振る舞われた。

 貴族たちは、まだ広縁にいる水遥可に次々と祝いの言葉をかけては、隣の邸に入っていく。選ばれなかった候補者たちも挨拶に訪れ、水遥可はひとりひとりをねぎらった。


「輝更義。こちらへ」

 人がようやく途切れると、水遥可は欄干に手をかけ、声を潜めて呼びかけた。

 輝更義が段を上って広縁に上がり、水遥可の前で膝をつく。

「みはるかさま……俺を選んでくださって、ありがとうございます。ああ、よかったぁ……」

 心底ほっとした様子の彼に、水遥可はハラハラしながら膝をつき、そっと肩に触れる。

「大丈夫なのですか?」

「気づいてくださって助かりました、さすがは水遥可さまです。戦うのはちょっと、その……今日はきつくて」

 輝更義は顔をゆがめて笑った。

 怪我の程度はどうなのか、もう一頭の黒狐は誰なのか、水遥可が尋ねようと口を開きかけたところへ、声がかかった。


「さあ、主役の二人が何をしている」


 陽永が扇で、邸の広間の方を示している。

 水遥可は立ち上がり、輝更義は膝をついたまま静かに頭を下げた。


 皇帝は、口をゆがめるようにしながらも淡々と言う。

「祈乙女が、黒狐を選ぶとはな」

 その言葉は、後に続く言葉によっては侮辱ともなりそうな、紙一重の響きを帯びていた。しかし、水遥可はすぐに切り返す。

「はい。二柱の神の血筋が寄り添い、流れ出すのですね」

「本流にはなれずともか」

 二人が結ばれても、その子は玄氏の跡継ぎになれないことを、陽永は匂わせていた。

 顔を上げた輝更義が、陽永を見つめる。

「祈宮からの旅で辿った支流も、民のすぐそばに寄り添って、美しい景色でした」


「……落花流水か。めでたきことよ」

 それだけ言うと、陽永は先に去っていった。

 輝更義はすっくと立ち上がり、水遥可に微笑みかけた。

「参りましょう」

「でも」

「大丈夫です」

「……」

 水遥可は輝更義を心配そうに見やったものの、静かにうなずいた。

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