第8話 黒狐、乙女を乞う
「水遥可さま、お似合いです」
侍女、と呼ばれるようになったレイリは、水遥可を見上げて静かにそう言った。手伝いの女たちも二人、後ろで頭を下げる。
祈宮では祈乙女の装束を主に着ていた水遥可だが、伴侶選びの儀に臨むに当たって、異なる衣装を着ていた。
純白の上衣に水色の袴、赤い飾り紐で結ばれ後ろに大きく広がる金の裳。髪型だけは変わらず、高い位置で結い上げて背中に垂らし、かんざしをさしている。
「……輝更義は、まだ?」
紅をさした唇を開き、水遥可は尋ねた。
レイリは頭巾の陰から一度、水遥可を見つめる。
そして、手伝いの女たちに「後は私が」と声をかけた。女たちは陽永が手配した者たちだが、今日この日までは水遥可は皇女であり、レイリはその筆頭侍女だ。年若いレイリの言うことにも、彼女らは従順に従った。
女たちが下がると、レイリは淡々と言う。
「玄氏に、使いを出しますか」
「……いいえ、よいのです。ありがとう」
首を横に振り、水遥可はレイリに微笑みかける。
「わたくしが選ぶ殿方は、あなたの主人ということにもなります。心して選びますからね」
「私のことは、お気になさらず」
レイリの白い頬に、微かに紅が上る。
「私の主人は、水遥可さまだけ。西方の血の混じる私を、これからもそばに置いてくださるだけで幸せです。ありがとうございます」
水遥可は少し、目を潤ませた。
「あなたがこんなに話してくれるのは、初めてかもしれませんね。わたくしこそ、あなたが嫁ぎ先にもついてきてくれることに感謝しています」
「……水遥可さま。もし、今日の儀式が、お嫌なら」
「いいえ、そんなことはないの。本当です。少し緊張しているだけ。……一人で、気持ちを落ち着けることにします」
レイリはそれ以上は何も言わず、下がっていった。
水遥可は外廊下に出て、庭を眺める。薄い雲を通して、午後の柔らかな日差しが木々や石灯籠を照らしていた。
(……きっと、条件に合う相手が見つからないのね)
水遥可は小さく、ため息をついた。
(ならば、陽永陛下のご親戚でも、そうでなくとも、伴侶選びの儀で私が殿方たちを見極め、選んだお方を説得するしかない。その後どうなるかは、運命として受け入れましょう。……こんな時、母上がご存命であったら、助言いただけたでしょうに)
寂しさを振り払っても、心には不安が残る。
(それよりも、輝更義がこの時刻まで戻ってこないのが気になる)
そのとき。
庭から、銀色の光が矢のように飛び込んできた。それはくるくるっと回転して止まり、水遥可の目の前に浮かぶ。
水遥可は目を見開いた。
「矢立」
輝更義の使役する、矢立の付喪神だ。
「もしや、使いに立ってくれたのですか? 輝更義に、何か?」
話しかけながら、水遥可は胸元に手を入れて懐紙を取り出した。彼女の手から一枚、白い紙がふわりと宙に浮かぶ。
筆が、紙に文字を描いた。
『闘』
「え」
水遥可は息を呑んだ。
「輝更義が、闘っていると? 何があったのです?」
しかし、矢立はそれ以上は何も記さない。
(……『観て』みようかしら)
水遥可は逡巡する。
(あまり使いたくない力だけれど……。輝更義も、おかしいと思ったらそうせよと言っていたもの)
結局、水遥可は心を決め、まっすぐに前を見つめた。
こめかみが熱くなり、視界が一度まぶしいくらいに明るくなり、そして暗くなる。
──夢を見ているときのように、ぼんやりと景色が見えてきた。音は耳に聞こえるのではなく、頭で理解している感覚だ。
目の前に広がるのは、暗い森の中だった。わずかな月明かりに照らされた植生の様子から察するに、祈宮のある山ではなく、都やその周辺である。
そびえる木々の間を、水遥可の『目』は跳ぶように駆けている。視点が高い。太い枝を足場にして跳んでいるのだ。
少し離れた枝々を、何か黒いものがついてきていた。
(あれは何? 鳥ではないわ、ずっと大きい……)
眉間に皺を寄せながら集中すると、彼女の視点が黒いものに近づいた。
(……狐)
黒狐だ。気づくと、水遥可の『目』となっている何かも、同じ黒狐であることがわかる。
二頭は枝から枝へと跳び、時折ぶつかり合った。痛みはないものの、視界がぶれるほどの衝撃に、水遥可は顔をしかめる。
(私は、輝更義の目を通して見ている。もう片方は、誰……? 玄氏の者に間違いないようだけれど)
牙が白くきらめき、赤いものが散って、水遥可は思わず身を固くした。輝更義の身体のどこかが、傷ついたらしい。そして、輝更義の反撃を受けてもう一頭も怪我をしているようだ。
(殺し合い、なの? ……なぜ。これはいつのこと? 夜……昨夜? では今は)
その時。
「水遥可さま」
声がかかって、水遥可はハッと瞬きをした。暗かった視界に急に光が入り、現実を映す。
どのくらい時間が経ったのか、レイリが戻ってきており、彼女に告げた。
「輝更義さまがお見えです」
はっ、と水遥可は顔を明るくした。
(無事だった)
「すぐに通して」
部屋に戻って待つことしばし、すぐに輝更義が現れた。矢立がくるくると回転してから、彼の腰紐にストンと収まる。
「輝更義」
椅子から立ち上がった水遥可が呼びかけると、輝更義は片膝をついて頭を深く下げた。
「遅くなって、申し訳ありません!」
「無事だったのですね。よかった」
水遥可は胸を抑えた。輝更義は顔を上げ、彼女の顔をじっと見つめる。
「ご心配をおかけいたしました。水遥可さまのご忠告のおかげで、こうして御前に戻りました」
やはり何かあったらしい、と察しながらも、水遥可は輝更義の無事に安堵する。
「いいえ、わたくしが難しいことを頼んでしまったのですから。あの、大丈夫なのですか?」
彼女は身体のことを聞いたつもりだったが、輝更義はニッと笑った。
「大丈夫です。ちゃんと見つけて参りました」
自分の切羽詰まった状況に意識を引き戻された水遥可は、両手を握りしめる。
「ありがとう。条件を飲んでくださった方が、いらしたのですね?」
「はい。全て、水遥可さまのお望み通りに」
「本当? ああ、ホッとしました。それで、わたくしはどなたを選べばよいの?」
「水遥可さま」
輝更義が、表情を引き締めた。
「どうか、俺を選んでください」
赤みを帯びた茶色の瞳が、じっと水遥可を見つめる。
「……え? 輝更義を……?」
水遥可は戸惑った。同時に、わずかな血の匂いに気づいて表情を変える。
「輝更義、やはり怪我をしていますね? いったい、何が」
「儀式が始まります、時間がありません。俺を信じて、俺を選んでください」
強い口調の輝更義に、戸惑いを消すことのできない水遥可は言った。
「輝更義、わかっているはずです。あなたは玄氏の跡取り。人間のわたくしを娶っても、揉め事の種になるだけです」
「一族の掟は守ります。父上にも話をして参りました。水遥可さま、お願いです」
懇願しながら、輝更義は立ち上がった。大きく一歩、水遥可に近づく。
思わず身を引く水遥可に、彼はどこか苦しそうな表情になった。
「どのみち、水遥可さまは誰と結婚しても別れるのでしょう? それなら俺でもいいですよね? 跡継ぎのことなど、今は関係ないんです。今日、水遥可さまの元を離れるより、俺はもう少しでも共にいてお守りしたいのです。知らない男に、たとえ一時でも水遥可さまをお預けすることなど、俺にはできません」
いつにない勢いで言い募る輝更義の様子に、水遥可の胸がひとつ、大きく打った。
輝更義は続ける。
「俺なら決して、水遥可さまを裏切りません。きっと俺はこの時のために生を受け、守護司になったのです」
輝更義はもう一度、片膝をついた。右手が差し出される。その手のひらは、大きく、力強い。
力の満ち満ちた輝更義の瞳が、水遥可を引きつける。
「どうか、俺のそばに。俺の元においでください」
水遥可は息を呑んだまま、その手を見つめた。
幼い頃、彼女は皇宮で母親とともに、邪魔者扱いされながら育った。母を亡くし、やがて父帝に祈乙女になるよう命じられ、「ただ祈宮にいれば良い」と告げられた。
存在するだけで良い、微笑んでいるだけで良い、それが水遥可だったのだ。
こんな形で強く求められるのは、初めてのことだった。
吸い寄せられるように、水遥可は輝更義の手に自分の手を──
部屋の外から、声がかかった。
「そろそろ、お時間でございます」
はっ、と、水遥可は手を引く。
輝更義も手を下ろし、いったん顔を伏せてから、ゆっくりと立ち上がった。そして、またあの明るい笑みを浮かべる。
「それでは、俺は先に。儀式の場でお会いしましょう」
「あ……輝更義」
立ち去りかけた輝更義を、水遥可は呼び止めた。
「はい」
「いえ、あの……尻尾が」
「も、申し訳ありません。ちょっと夢中で」
彼は急いで、袴の裾から出ていた尾を引っ込めると、軽く頭を下げて去っていった。
水遥可は、胸元で両手を握る。
(……輝更義……あまり顔色が良くなかったような……何があったの?)
廊下でレイリが待っている。
水遥可は気持ちを落ち着かせようと、装束を確認し、部屋を見回し、そして最後の支度をしてから廊下に出た。
「……参りましょう」
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