第7話 狐ヶ杜に潜む敵

 果雫国の都・瑞青の一角に、小さな山を囲む森がある。

 そこはいつしか『狐ヶ杜きつねがもり』と呼ばれるようになった地で、奥深くに広がる屋敷群が、玄氏の本家であった。


 石畳の敷き詰められた謁見の間で、床几に腰かけた輝更義が待っていると、大柄な人影が姿を見せた。輝更義はいったん立ち上がり、膝をついて頭を下げる。

「父上、お久しぶりでございます!」

祈宮いのりのみやの役目、ご苦労だった」

 奥の、一段高くなった場所の椅子に腰掛けたのは、輝更義の父である利舜義りしゅんぎである。壮年の利舜義は、眼光鋭く輝更義を見つめた。

霽月せいげつさまには、お変わりはないか」

「はい。相変わらずお美しいです!」

「そこは聞いてない」

 利舜義は額に片手を当ててため息をつく。

「お前は本当に、霽月さまはお綺麗、霽月さまはお優しいと、そればかりだな。……いや、もう水遥可さまか。そしてお前のお役目も終わった」

 一度言葉を切り、そして続ける。

くろの輝更義きさらぎ、玄氏の跡継ぎとして身を固める時だ。早急に見合いをし、妻とともに――」


「父上」

 輝更義はサッと床几を降り、石畳に両手をついた。

「俺に、二年の猶予をいただけませんか」

 利舜儀は眉をひそめる。

「二年? その間は結婚しないということか?」

 輝更義は父親をまっすぐに見て言った。

「いえ、結婚はします。……水遥可さまと」


「…………」

 利舜義は、輝更義にぬるい視線を向けた。ゆるゆると首を横に振る。

「なんということだ……。霽月さま信者オタクだとは思っていたが、とうとう妄想の域に達したか。哀れな」

「妄想ではありませんっ」

 輝更義はキリリと表情を引き締める。

「俺は明日、水遥可さまの伴侶選びの儀に、参上しようと思います!」


 ――沈黙が、謁見の間に落ちた。


 突然、ぐわっ、と黒い陽炎のようなものが利舜義を包んだと思うと、彼は巨大な黒狐に変身した。

 大きく跳躍し、風を起こしながら輝更義の前に着地する。輝更義の髪が後ろになびいた。

『水遥可さまと、結婚、だと!? お前は何を言っているのかわかっているのか』

 利舜義は鋭い歯を光らせ、ほとんど触れそうな距離まで輝更義に顔を近づけた。

『玄氏では、跡継ぎが人間に子を産ませても、その子には家督を継がせぬ。一族の女子に子を産ませて跡継ぎとする。これは皇家も知る、古よりの決まり事だ。相手が水遥可さまとて同じこと、もしや曲げようというのではないだろうな!』

「……一族の子は、もうけます」

 輝更義は利舜義の迫力に耐えながら、答えた。

「ですから、二年、と申し上げました!」


『…………』

 利舜義は、やがて一歩、二歩と下がった。下がるうちにみるみると、その姿は人間に戻る。

「……何か、事情がありそうだな」

「はいっ。水遥可さまをお助けするために、どうしても必要なのです。伏してお願い申し上げます!」

 輝更義は頭を下げた。


 水遥可を決して裏切らない男――それは、輝更義本人だった。

(俺なら決して、水遥可さまの意志に反することはしない。水遥可さまの願う通り、白い結婚をして、そして二年の間に理由をつけて離婚するのだ。玄氏は狐神の血筋。種族は違っても、皇女殿下をもらいうけるのに身分は劣らない!)


 しばらく黙っていた利舜義は、謁見の間の脇から廊下に出ると、外を眺めた。

 やがて、輝更義の方を振り向く。

「水遥可さまも、ご承知のことか」

「いえ。父上のお許しを得てからと」

「ふん。玄氏の掟は、身に染み着いているようだな」

 皇族と玄氏は、祖とする神が異なる。玄氏は皇族を助ける存在ではあるものの、本来その立場は対等であり、優先されるべきはそれぞれの一族の利益だった。そのため、輝更義は先に父に話を通したのだ。


「……わかった」

 利舜儀はため息混じりに答える。

「掟を破らないのであれば、許そう」

「ありがとうございます!」

 床に額をつける輝更義の上に、父の言葉が降ってくる。

「水遥可さまを悲しませるようなことは、するでないぞ。まあ、お前のことだからそれはないと思うが」

 輝更義はパッと顔を上げた。

「もちろんです! 水遥可さまラブ!」

「言葉から愛がほとばしっておるぞ、全く。……今夜はここに泊まるのか」

「いえ、牡丹邸に帰ります」

「何だ、兄たちが寂しがるぞ。……ああ、いや……やはり泊まらない方がよいかもしれぬな」

 利舜儀はひとり言のようにつぶやくと、

「伴侶選びの儀は、私も皇家守護司として見守ることになっている。新帝陽永さまもご臨席だ。……ご無礼のないようにな」

と言って、謁見の間を去って行った。


 床で頭を下げていた輝更義は、父の気配がなくなるとようやく頭を上げた。

「……はぁぁぁー。緊張した……! でも、上首尾グッジョブ!」

 ぐっ、と右手を握る。

(さすが父上だ。事情があるなら、とお許しくださった。その事情を無理に聞き出すこともなく、俺を信じてくださった。信頼に応えなくては)

 彼は立ち上がる。

(次は、水遥可さまにお許しをいただこう!)


 輝更義は謁見の間から階段を降り、中庭に出た。

 内門へと向かおうとして――


 空気が、ぴりっ、と氷のように冷たくなったような感覚。


 輝更義は一瞬で腰の剣を抜くと、大きく一歩引いて玉砂利を蹴散らしながら横からの斬撃を受け止めた。

 襲撃だ。

 彼を襲った相手はすぐに飛び離れ、やや間を取ると、ゆっくりと構え直した。

 

「へぇ。よく防いだね、輝更義」


 輝更義のすぐ上の兄、刃凪茂はなぐもだった。

 髪を短く刈り込み、後ろだけを伸ばして結っている。意志の強い眉は輝更義とよく似ていたが、その下の目は細く、剣呑な光を湛えていた。

  

「――強烈なお出迎え、いたみいります」

 油断なく構えたまま、輝更義は答える。

「俺は仕事に戻るところですので、またの機会にゆっくりと」

「つれないなぁ、五年ぶりの再会だろ? 霽月さまにデレデレしてるうちに腕が落ちてないかどうか、見てやるよ」

 刃凪茂の舌が、唇をなめる。

「短い時間で『終わらせて』やるから、さっ!」

 ひゅっ、と風を鳴らして、刃が迫る。

 輝更義は攻撃を流さずに、しっかりと受け止めた。じわり、と身体の向きを変える。

 反撃に転じようとするのを感じ取ったのか、刃凪茂はいったん飛び離れた。二度、三度と、二人はぶつかり合い、また離れる。


 刃凪茂は不快そうに眉をひそめた。

「何だよ、無理すんな。抵抗しないほうが楽だぜ?」

 すっ、と、刀を上段に構える刃凪茂。

 輝更義は迎え撃つべく、顔の横で刀を水平に構えた。脇を締め、攻撃の当たる場所を狭める。

(来い)


 二人はにらみ合い――


 ――刃凪茂は、構えを解いて無造作に刀を納めた。

「ん、終わり。ほらな、短かっただろ」

「……」

 輝更義も、緊張を解かないまま、刀を納めた。

(殺気ダダ漏れで、何言ってんだ。……まだ諦めてなかったのか)


 玄氏一族は、末子が家督を相続する。

 戦乱の時代、玄氏は年長の者から戦に出て死ぬことが多かったため、最初から末子に家督を継がせて身内の争いを避ける伝統があった。それが現在も続いているのだ。

 末子の輝更義がいなくなれば、玄氏を継ぐのはすぐ上の兄、この刃凪茂である。

 幼い頃、父と三人の兄とともに祈宮の神域で育った輝更義だったが、そのころから刃凪茂は輝更義に攻撃的だった。年がひとつしか違わなかったことが、彼に何か不条理なものを感じさせたのかもしれない。

 五年前、父の利舜義は、都の皇家守護司を任されることになった。父が祈宮を出て都に移るのに伴い、輝更義は祈宮守護司を拝命して祈宮に残り、刃凪茂は父の補佐として父とともに都に向かった。それ以来、会っていなかったのだ。


「思ったよりはなまってないな、お前」

「乙女をお守りするためですから」

「お前は本当に、霽月さま霽月さまだな」

 利舜義と似たようなことを言い、刃凪茂は目を細める。

「その霽月さまと、結婚するだって? 妄想垂れ流すのも大概にしろよ」


(――聞かれていた)

『覗き見をするのは、はしたなく失礼で、そして信頼関係を壊すこと』

 水遥可の言葉が胸に甦る。 


 思わず、輝更義は言い返してしまった。

「立ち聞きは、はしたないです。なぐ兄」


 彼が(しまった)と内心で唇をかんだ時には、遅かった。

 刃凪茂の顔から、表情が消える。 

「……何だと? 上から見やがって」

 彼は、一歩踏み出した。

「お前に兄とか言われると、イライラするんだよ」


 その姿が、黒い炎に包まれる。炎の中で、彼の姿がじわりと変わっていく。

 やがて、刃凪茂は一頭の大きな狐になった。その口が開き、牙が光る。

『さて、もう行くんだったか? 俺が送り出してやるよ。愛しい霽月さまの元へではなく、死出の旅路へな』


(水遥可さま……申し訳ありません。少し遅れそうです。しかし必ず……必ず俺が、伴侶選びの儀に参りますから!)

 心の中で唱えてから――

 輝更義は覚悟を決め、自らも黒い炎に包まれた。 

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