第6話 新皇帝の思惑

「久しいな、水遥可姫」

 ゆったりと椅子に身体を預け、壇上から見下ろしているのは、新皇帝の陽永だ。

 女性と見まごう美しい顔立ちに艶やかな黒髪を、白一色の装束が引き立てている。

 両膝をつき、美しい所作で頭を下げた水遥可は、立ち上がると陽永を見上げた。

「このたびは、即位の儀に望まれること、誠に……」

「祝いの言葉などよい。兄上が逝去されたばかりだ、娘のそなたは悲しみも深かろう。余とて同じこと」

 陽永は鷹揚にそう言いながらも、口元は笑っている。

「十日後には、兄上の葬儀。そしてその二日後には、そなたは伴侶を決めねばならぬ。人生の重大事というのに、忙しいことだな」

「すべては神が計らってくださるものと、道中、祈っておりました」

 控えめに目を伏せる水遥可に、陽永は首を横に振った。

「天命を待つ前に、まずは人事を尽くすもの。愛しい姪のために、余にできることもあろう」

「……と、申されますと」

「余の妻の親戚で、そなたの夫に相応しい者を何人か、都に呼んである。伴侶選びの儀で見極めるがよい。降嫁後は、この牡丹邸をやってもよいと思っておる。どうだ、心穏やかに嫁げるであろう?」


 広間の隅で控えていた輝更義は、ちらり、と水遥可の後ろ姿に視線を走らせた。

(これは……)

「お心遣い、いたみいります」

 水遥可はもう一度頭を下げる。

「わたくしはずっと、父帝の望みに寄り添いながら神の望みに耳を傾けて参りました。人と、神の望みがひとつになる時、万事がうまく運ぶもの。嫁入りに関しましても、そのようになれば幸せなことと思っております。わたくし一人の身などに、おこがましいことではございますが」

(なるほど。陽永さまの行動を否定はせず、しかし陽永さまの一存で事が運ぶわけではないのだと、一応匂わされたのだな。しかし……)

 考え込む輝更義の耳に、機嫌のよい陽永の声が響く。 

「祈乙女の任を立派に全うしたそなたこそ、幸せになるべきだ。相応しくない男は近づけぬ、何も案ずることはない」

 皇帝らしい強引さの潜む陽永の発言に、水遥可はもう一度頭を下げる。

「ありがとうございます。心穏やかに、嫁ぐ日を待ちたいと存じます」

 うなずいた陽永は、軽く身を乗り出す。

「それにしても、美しくなったことだ。花の盛りに降嫁する祈乙女は珍しい。たいていは年老いた後であるからな。夫になる者は幸せ者だ」

 その目は、水遥可をじっと見つめていた。


 水遥可のために用意された部屋からは、広い庭園を望むことができる。

「お茶をお持ちします」

 レイリは小声でそう言うと、静かに立ち去った。 

 水遥可は部屋に入る前に庭園を見やると、廊下にたたずみ、小さくため息をついた。すぐそばに、輝更義が片膝をつく。

「水遥可さま、それでは俺はこれで。お疲れでしょう、ゆっくりなさってください」

「輝更義……」

 青みがかった黒い瞳が、憂いを帯びて彼を見下ろす。

「もし、陽永さまの遠戚に嫁ぐことになれば、白い結婚をしたとしてもそのことが陽永さまに伝わってしまうかもしれませんね……」

「だ、大丈夫です!」

 輝更義は胸を張った。

「俺がお相手を見つけると申し上げたではないですか。さっそく行って参ります。たびたびおそばを離れることになりますが、お許しいただきたく!」

「本当……?」

 水遥可の目が、潤んだ。輝更義が息を呑む目の前で、彼女は静かに微笑む。

「頼りにしています、輝更義」

(あああ、その涙を拭く手布になりたい!!)

 もはや生き物でなくてもいい愛を心の中で叫びながら、輝更義は頭を下げた。

「お任せあれ! では!」

 サッと立ち上がって身を翻し、歩き出す。

 不意に、水遥可が呼び止めた。

「あ、待って」

「はいっ」

 パッと振り向いてピュッと駆け戻り、サッと膝をつく輝更義。

 水遥可は両手を胸に重ね、眉を潜めた。

「気をつけてください。少し……嫌な予感がします」


 十三年、神の声を聞いてきた千里眼の乙女。が、もし千里眼でなくとも、水遥可の言葉は輝更義にとって絶対である。


「心得ました! いつにも増して気を配ることにいたします。ありがとうございます」

 輝更義はもう一度頭を下げてから、水遥可を見上げた。

「水遥可さまも、もし何かおかしいと思うことがおありになれば、ためらわずに『ご覧になって』ください。ここは大勢の人間がひしめく都です。祈宮と同じようにしていては危ないこともあると、俺は思います」

「……そうですね。わかりました」

 水遥可はひとつ、うなずく。

「わたくしも肝に銘じます」

「では」

 今度こそ、輝更義は水遥可の前を辞した。



 牡丹邸を出て、町に向かう道を歩き始めた輝更義の前に、矢立が現れた。

「何だよ」

 歩みを止めずに輝更義が言うと、矢立は一文字、懐紙に記す。

『難』

「何が。……水遥可さまのことなら、俺もそう思う」

 輝更義が小声で言うと、矢立はまるで『それならいい』とでも言うかのように筆を収納し、輝更義の腰に戻った。浮いていた紙は、ぼっ、と小さな青い炎を上げて燃え、風に吹き散らされる。


(水遥可さまは男を、世間をご存知ない。ずっと山の中で清らかに過ごされていたのだから無理もないが。この取引が「いい考え」だとおっしゃったが、金でどうにかしようとしたところで……)

 彼は真顔になり、心の中で言い切った。

(無理。絶対無理。あんなに美しい方が形式だけでも妻になったら、白い結婚の取引なんて吹っ飛ぶ! 水遥可さまは軽率にお可愛らしいことをなさるし! 相手の男は絶対にクラッときて手を出すって!)


 契約をすれば絶対に手を出さない、などと言うことがありえるだろうか――輝更義はそれを危惧していたのだ。

 金さえ手に入れれば、相手の男は態度を変えるかもしれない。水遥可を無理矢理、支配しようとするかもしれない。矢立もそのようなことを言いたかったのだろう。

 輝更義は悶々と、考えを巡らせる。

(伴侶選びの儀は、建前上は男なら誰でも参加できる。選ぶのは水遥可さまだから、誰も無理に相手を押しつけることはできない。しかし、陽永さまがあのような形で関わってこられるのは無言の圧力だ……他の男たちは参加しないかもしれない)

 しかも、住まいまで決められるとなると、もしかしたら陽永には何か思惑があるのかもしれない。

 祈乙女に選ばれる皇女は『邪魔者』――水遥可がそう打ち明けたことから考えても、皇宮内に水遥可の味方は少ないと考えられる。しかも、彼女が「はしたない」と評していた陽永は、水遥可をわざわざ近くに住まわせてどうするつもりなのか。

 新皇帝が水遥可を見つめる視線に、輝更義は嫌な予感がしていた。

(やはり俺が、何とかしなければ!)


 十日後。

 先帝陽廉の葬儀が執り行われた。

 水遥可にとっては、この一連の儀式が祈乙女としての最後の仕事である。銀の冠をつけて濃い紅をさし、真っ白な装束を身にまとって、彼女は皇宮の広大な前広場にしつらえられた祭壇で一晩中祈りを捧げた。

 輝更義は葬儀にこそ出席したものの、それ以外の時間を水遥可の相手探しに費やしていた。情報を集め、金に余裕のない家から相応の年齢の男を探る。

(はぁ……水遥可さまのお相手を、俺が見つけるなんて。一賛美者ファンにしか過ぎない身には祈宮の山より険しいな)

 夕暮れの都路で、彼は登り始めた白い月を見上げながらつぶやいた。

「……しかしなぁ。たとえ相手を見つけても、そいつが当日の顔ぶれや陽永さまを見て、ビビッて逃げ出すかもしれないよなぁ」

 そのとたん、スコンッ。

「痛って! 何だよ!」

 頭を押さえて横を見ると、もちろん矢立である。

 ふわ、と懐紙が輝更義の目の前に広がり、筆が文字を記した。

『決』

「何を決めろっていうんだよ」

 むっつりと答えると、連続で、スコンッスコンッスコンッ。

「痛痛痛、やめ、やめろって!」  

 彼は矢立の攻撃を避け、くるくるとその場で走り回ったが――


 はっ、と、目を見開いて立ち止まった。

「……そうか。水遥可さまを絶対に裏切らない男がひとり、いるじゃないか」


 しかしすぐに、彼は頭をぶんぶんと横に振る。

「いやいやいやいや。いるけど。いるけどさすがにそれって禁断? いくらなんでも無理無理無理無理」

 行ったり来たりを繰り返す彼を、矢立は宙に浮いたまま見守って(?)いる。通りかかった町の人々が、彼をいぶかしげに見て迂回していく。


「――でも。うん。そうだな」

 やがて彼は、決意を秘めた顔を道の先に向けた。

「水遥可さまのことを一番に考えたら、これしかない。行くぞ、矢立」

 矢立は満足したように、するりと彼の腰に収まった。

 ぼっ、と、懐紙を燃やす青い炎が、輝更義の顔を照らした。

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