懸想文

永本雅

懸想文

得体の知れない“何か”が徐々に全身を食んでいく。指先、掌、手首。私の身体は“何か”に食まれて本来の機能を失っていく。やがて全身を侵食したときに私は死ぬのだろう。“何か”は淡く仄かに冷たかった。それとは違ってひたひたと頬を伝う涙はじんわりと温かかった。

──なんだかあんたも救われないわね。結局、あんな弱気な娘に譲っちゃってさ。大事なところで積極的じゃないのよ、あんたは──

頭の中に自分自身の声が響く。正確に言うならば「私であって私ならざる誰か」というのが正しいのだろう。しかし、一番気になるのはもっと別のことだ。

「うるさいなぁ……。いいじゃないのよ、別に。」

傍から見れば訳の分からない光景だろう。夕暮れ、逢魔ヶ刻の海岸で少女がまるでそこに誰かがいるかのように独りごちているのだ。無論、近くに一匹がいる訳では無い。

もう、動かなくなった指先に風に吹かれ舞った白砂が絡む。いつもなら肌にまとわりついてジャリジャリとうざったいが今は汗をかいていないからか何かきめ細かなもので優しく包まれていくようだった。

風が頬を撫でる。その手は私と同じくひどく冷たかった。さっきまで煌々と輝いていた太陽は島の後ろに隠れてしまっている。

もう、夜がくる。群青に染まる空が海を満たしていく。

泡沫の夢だった日々はもう遠い。弾けてしまった。でも、今思い出すとそれらはやたら美しい。

冬の夜の澄んだ空気の中を星たちが駆け回っていた。徐に目を閉じると私にはもう何もかもがわからなくなった。ただ、ひどく温かかった。

波の音が聞こえていた。それをかき消すように車の音と街の喧騒がどこからともなく聞こえていた。



都会の騒々しさが垂れ流されている。はじめましての文化だ。都会に羨望を抱くのは田舎人の共通心理らしい。

眼下に広がる碧い海、ぽつりぽつりと見える離島群。教室の中でそれらを見ているのは俺くらいだろう。他はみんなスマートフォンの中の都会を見ている。ネオンの輝く街は夜も眠らないそうだ。

風に乗って潮の香りが届く。鼻に心地いい。

「いやぁ、都会ってのは凄いとこだね。横渚とは違ってキラキラしてるよ!」

皮肉めいた喋り方で高桐梨紗がこちらに視線を向けながら歩いてくる。なんというかどうにも調子が狂う。

「お前のそれは横渚をディスってるのか? それとも都会か?」

机から読みかけの本を取り出しながら梨紗の答えを待つ。

「さぁ、どうなんだろうねぇ? まぁ、私は横渚は嫌いじゃないよ。何たって人がいい。確かに君みたいに取っ付きにくくて不思議な人もいるけどそれもまたここならではなのだろう? だったら私がここを嫌う理由がないよ。というか、君は相変わらず難儀な性格だねぇ……。」

「うるさい。俺に言わせればお前の方が難しいな。十数年来の付き合いの中で未だにお前がどういう人間なのかが掴めないからな……。」

「私かい? 私は君の幼馴染だよ。そういえば君、さっきから何を読んでるんだい?」

本を閉じ梨紗の方を向き背表紙を見せる。梨紗は暫く動かなかった。ややあって動き出すと何を言うわけでもなくこちらに視線を向けてきた。

「俺がマタイを読んでたらダメか? ところで、その話し方はなんの影響だ? 調子が狂うからやめてくれ。」

「ごめんごめん。今ハマってる本にこういう話し方をするキャラクターがいてね、ついつい。別にダメじゃないけど榛斗ってそういう神仏を信じないと思ってたから意外でね。」

梨紗はセミロングの茶髪を靡かせながらこちらに向き直る。その髪は夕陽に照らされてひどく儚く俺の目には写った。

「どうかした? 私のこと見つめちゃって、惚れた?」

予想外の反応に俺は咳き込む。

「それは無いな。俺は恋愛には奥手なんだよ。見つめるなんざ夢のまた夢だ。」

「へぇー。否定はしないんだぁ……。」

「うるさい。変なこと言ってないで帰るぞ。」

「あー、今日はパスで。寄らなきゃ行けないとこがあるんだー。」

「そうか。それじゃあな。」

本を鞄にしまうとオレは椅子から立ち上がる。古ぼけた石油ストーブを消して換気のために開けていた窓に施錠した。クラスの奴らに鍵を閉めるように頼んで俺は教室の出口に向かう。木造の床はギィギィと音を奏でる。廊下を抜けて昇降口へと進む。

丘の上にあるからか街が一望できた。寒い。やはりコートを今日は着てくるべきだったようだ。外すことで有名な天気予報はこういう時には当たるようだ。吐いた息は白くなり消えた。鞄を肩にかけて俺は歩き出した。


暖かみのある明かりの下で空気が張り詰めている。冬だからではない。ここが図書館だからだ。私は現代社会の教科書を広げてその中の人や文字を眺めている。

最近、彼が来るまでいつもこうだ。いつもの事だがここは人が少ない。街の図書館はもう使う人が少なく来年には廃館になるそうだ。この間、受付のお婆ちゃんが悲しそうに教えてくれた。ハァ……と今日、何回目かのため息をつき腕時計に目を向ける。そろそろ来る頃合いだろうか? トイレに行って身だしなみを整え直そうと席を立つ。

受付の前を通りトイレの鏡を覗く。長めの黒髪は今日も素直にいうことをきいてきていた。可愛いなんて彼が言ってくれるとは思わないが少なくとも可愛いとは思わせたい。扉を開けて外に出る。受付のお婆ちゃんがうつらうつらしている。一瞬、もうそんなに遅い時間かと焦ったが時計はまだ六時過ぎを指していた。外はもう暗い。もう冬だということをひしひしと感じられる。

席について再び現代人の抱える問題と向き合う。近現代における人間の問題をまとめてそれの解決策を自分なりに考えて書けなんて無責任な気がする。

というよりかは、私たちの殆どがそんな問題よりもっと深刻な問題を抱えている。世界の問題よりも目の前の恋のほうが早急に解決すべき問題なのだ。

この前、友人が恋愛について話しているのを聞いた。恋は結局のところ関数では解けない。確率論だって当てはまらない。辛うじて遺伝子学が掠るくらいだ。そんなことを考えていると隣の席に彼が座った。考えるのに予想以上に集中していたらしく彼が入ってきたことに気が付かなかった。驚いて声を上げそうになったが何とか抑える。心拍数が一気に上がった。さっきトイレで考えていたことなどもう頭には残っていない。自分でも顔が紅潮するのが分かった。横目で彼を見ると彼は小さな声で「遅くなってごめんな。」とだけ話す。私は首を横に振り「そんなこと気にしないでいいよ。」というのが精一杯だった。緊張したからか何だかひどく疲れた。そんな体に鞭を打ち何とか思考を続ける。いや、続けようとした。しかし、意識が飛ぶまで数分もなかった。微睡みの中、彼の声が聞こえた。何を言っているかまでは聞こえなかったが優しい声だった。



街灯が白く無機質な光を放つ。私は先程までの余韻に浸っていた。彼の肩に寄っかかって寝てしまったところまでは良かったのだろう。しかしヨダレを垂らしていたなど今思い出しても恥ずかしい。勿論、彼がそんなことを言ったのではない。教えてくれたのは受付のお婆ちゃんだ。いつも優しい声で話してくれるのだが今回はその声が何だか悪魔のように聞こえた。

無人駅のホームは寒かった。彼の乗った列車の光はもう見えない。冬の空の星は綺麗だ。ふと空を見上げればいつでもそこにあって、見ているだけで何だか優しい気持ちになれる。いつか私は彼にとってそんな存在になれるだろうか、なんてふと考えてしまう。こういうのを私が考えるのはおかしいのかもしれない。だってこういうことは普通、彼女が考えることのはずだ。彼の隣を歩きながら、彼の横に寄り添いながら、そして彼と手を繋ぎながら……。やっぱり、私が考えていいことじゃなさそうだ。それに……。そこまで考えてから私は思考の沈黙の先はあえて考えるのをやめた。何だか考えたらそうなってしまうような気がしたから。

私は大きく息を吸いこんで立ち上がる。冬の夜の鋭さが胸を満たしてから刺した。傷口はすぐに塞がり胸は締め付けられたような感覚になる。駅舎を出るとそこはいつも通りだった。暗い中に響く海の波の音、鼻をくすぐる潮の匂い、ぽうぽうと灯っている民家から漏れた光。

変わらないそれはひどく儚く確証のない“何か”なのだ。彼と私の距離感もそうなのだろう。無理に私が近づけばいつも通りがいつも通りで無くなるのだ。

ならば私は諦めるのだろうか。いや、そう簡単に割り切れないからこうして悩んでいるのだ。

私は灯ったあかりの前で止まると頬を軽く叩いてからその扉を開けていつも通りの声でただいまと言った。



これは恋なのだ。私は現在進行形で恋をしている。相手は幼馴染み。しかし、彼が私の方を向くことは無い。なぜなら彼には清香という片想いの人がいる。清香も榛斗のことを思っているのだがお互いに奥手だからか両想いであることになんか気付いていない。私が恋しているのが榛斗でなければ甘酸っぱい青春だと二人を存分にからかえるのだが私もそんな幼馴染みに恋をしている以上、からかえない。

叶わない恋をするなんて馬鹿だなぁと昔からそんな話を友人から聞くたびに思っていた。だって、どう足掻いてもその想いが、努力が報われないのなら諦めた方が苦しまなくて済む。辛い思いをしないで済むならばそれに越したことはないように思っていた。諦めきれないで縋り続けて最後にその想いを相手に一方的に断られるなんて何だかそれまでの苦労や苦しみに合わない。

私は大きく息を吐きながらベッドに身を投げる。

辛い。それが心を支配していた。恋をしているのにだ。電球の明かりが滲んでいく。榛斗の前では気丈に振舞っているせいかこうして一人になると心がハラハラと崩れていく。情けない。清香がいる限り報われない想いだとわかった時に誓ったのだ。最後まで諦めないと。

──奥ゆかしいのも結構だけど三ヶ月しかないの分かってたよね? どうするのよ、もう……──

“彼女”はわたしの部屋の椅子に座ってそう言った。ふてくされて机にへばりついて足をぶらぶらとさせながらこちらを見ている。その目は何かを訴えている。

彼女は私だ。私が作り出している私だ、恋の病によって。彼女がそう言っていた。無論、恋の病というのは比喩表現などではない。そういう病気なのだ。詳しいことは意外と知られていないが存在だけは知られている。本によると 罹患した人によって違う症状がでるというのともう一つの要因からこのようなことになっているらしい。どれだけ調べてもその要因が明記されたものは無く結局のところわからないのだが。まぁ、別に気にしていない。どのみち、あと数日で私は彼とは永遠に結ばれなくなるのだそうだ。それまでに私は想いを告げる事だけでも出来るだろうか。拳を握りしめた。

「分かってるよ。もう、数える位しか残ってないんだよね、チャンスは? それを逃したら私は一生彼の幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもなくなる。そうでしょ?」

ベットに寝転がったまま彼女の方を見る。

彼女は机に突っ伏したまま答える。

――……そうだよ、その通り。たぶんその時に私もいなくなるわ。せいぜい、その後を楽しめば?──

 彼女は今日まで私がこれといったアプローチを榛斗にしてこなかったことが相当不満のようだ。かなり機嫌が悪い。それもそうだろう。病だといっても彼女は私の恋を実らせるためにいるといってもいいだろう。それが彼女のアイデンティティなのだ。それを私が自分で壊している。彼女が私の作り出したものである以上、ああなるのも当然だ。

 ベッドから徐に立ち上がりベランダに出る。今日見た画面の世界とは違ってここは眠る町だ。明かりが他にはほとんどないからか星がはっきりと見えた。

 冬の夜は寒く静かだ。それと星空の荘厳さに声を発することさえ躊躇われる。

くしゅん、という声が響く。誰かが聞いているはずもないのだがなんだか恥ずかしい。肌を切られているような冷たさだった。私は昔の事を思い出していた。小さい頃、ちょうど今ぐらいの時期に二人で家の屋上で流星群を観察したことがある。その時は榛斗が横に居た。だから、温かかった。腕を組み私は記憶の温もりに浸ろうとする。記憶は曖昧なものらしくその時の温もりは今夜の寒さで冷えきっていた。

寒いな

私は風邪をひかないうちに部屋に戻った。



都会からほど遠いこの町でもある程度、人工的な季節感は感じられる。自然的な季節感の方が多いのは言うまでもないが。

昨日の夜は雪の予想だった。だが、今朝俺が起きても雪はなかった。猫のミサキは朝から布団の中で丸くなってはいたがここ数日ずっとそうだ。

昨日よりは寒くなっているのは確かだった。

朝の駅舎は静寂に包まれていた。利用者が少ない朝は十五分ぐらいはざらに待たされる。ホームのベンチに腰掛けながら海を見つめた。葉を落とした木々が並んでいた。春にはそれは見事な桜を咲かす。

携帯を取り出し時間を確認する。列車が来るまではまだ少しあった。今日は買い出しだ。クリスマスはここでだってちゃんと生きている。プレゼント交換のためのプレゼントを買いに行く約束をしている。列車で少し行った隣町にアウトレットモールが新しくできたと梨紗がいうので三人で話しそこに行くことにした。

俺はすでに何を買うかは決めていた。保存のきくものなら食べ物でもいいとのことなのでシュトーレンにしていた。毎年、クリスマスになると自分でも食べる。思い浮かばなかったからそれにしようと考えたが我ながらいいアイデアだった。

二人がなにを買うかは聞いていなかった。勿論、まだ決めていないのかもしれないしもしくは秘密主義なのかもしれない。どちらにせよ、あと数時間後にはわかることだろう。



きらびやかなイルミネーション、高くそびえ立つクリスマスツリー、子供に風船を配るトナカイとサンタクロース。

アウトレットモールは横渚とは世界が違った。

「うわぁぁぁ。凄いね。」

梨紗は幼い子供のようにはしゃぐ。思えばクリスマスなどのイベントの時にはこうして誰よりもはしゃいでいた。

「綺麗ですね……。こんなに大きなクリスマスツリー何て初めてです。」

頬を上気させながら清香がポツリと呟く。

俺も含めて三人がその場の熱気に飲まれていた。

「さぁ、プレゼントを買いに行こう。今日の目的はそれだよ?」

梨紗が軽く手を叩きながら言った。その言葉で俺たちは熱気から意識を取り戻す。いくつになってもクリスマスは不思議なものだ。



俺たちはアウトレットモールの中の喫茶店でキリマンジャロ、アールグレイ、チョコパフェが来るのを待っていた。俺がコーヒー、清香が紅茶、梨紗がパフェを頼んだ。

それぞれプレゼントに買いたいものは決まっていた。俺はシュトーレン、清香がスノードーム、そして梨紗はポインセチア。何だか性格が全面に現れていた。

話しあった結果、スノードーム、シュトーレン、ポインセチアの順に買っていった。

ポインセチアの鉢植えは思った以上に高く梨紗はどれを買うか随分と悩んでいた。

さっき、調べてみたが相場はなかなかだった。数千円は軽くするそうで結局、梨紗は枯れないからということもあり小ぶりな造花のポインセチアを購入した。

清香のスノードームは本人が前もって調べていたらしく購入は簡単だった。あくまで、購入は。問題はその後の梱包にあった。心配しいの清香はスノードームが割れてしまうのではないかと梱包をかなり丁重に行ってもらっていた。

そんな感じで俺も含めて三者三様に悩んでいたので朝早くに始まった買い出しはこうして三時を迎えてやっと終わった。

この喫茶店に入ったのは梨紗がここのパフェの食品サンプルを見て食べたいと言い出したからだ。まぁ、一日この広いモールの中を歩き回ったら甘味が欲しくなるのも当然だろう。落ち着いた雰囲気の店内は先程までのモールの中とは思えない。

ウエイトレスが高さが三十センチはあるチョコレートパフェを運んでくる。見ているだけで胃がもたれそうだ。梨紗は無邪気な笑顔を浮かべるとパフェスプーンを片手にもしゃもしゃと食べにかかった。

清香はそんな梨紗を見ながら微笑みながら時折悲しそうな目をしていた。多分、スノードームが気がかりなのだろう。店員とやや口論になりながらも丁重に梱包させていたのだから仕方ない。

「そういえば、清香はクリスマス誰と過ごすの?」

梨紗がパフェの方を見ながら尋ねる。清香は不意打ちを食らったのか咳き込む。紅茶が届いていないのが不幸中の幸いだった。もし、紅茶を飲んでいたら被害はもっと大きかったのではないかと思う。

ハンカチで口元を抑え清香は息を整える。

「今年はクラスの人と過ごすでしょ? だからこそ、今日プレゼントを買いに来たんだし……。」

梨紗は少し不満そうに口を尖らせる。

「違うよ〜。あれは夕方で終わるでしょ? その後、夜は誰と過ごすかを聞きたいんだよ〜。」

予想していた通りの質問が飛んでくる。

「……いないかな、そういう人は。」

きょろきょろと俺と梨紗を交互に見ながら清香は答える。その顔を梨紗はやや意地悪そうに見ていた。クリスマスが近付くと毎年のように梨紗はこうやって清香をからかっているらしい。たまにバレンタインにも同じことをすると清香は言っていた。

「梨紗、アイス溶けるぞ。」

パフェに乗っかったチョコレートアイスがどろりとなっている。ナイスタイミングだ。名残惜しそうな顔をしながら梨紗は再びパフェを食べ始める。

先程のウエイトレスがコーヒーと紅茶を運んでくる。さすがに人前でそんなことを聞くのは野暮だというのは分かっているらしくその後梨紗は店を出るまで聞くことは無かった。もっとも、パフェを食べていたから聞けなかったのかもしれない。

俺たちはそうして買い物を済ませひと休みするとモールを後にした。



思い出すとまた心拍数が上がってきてしまう。「クリスマスを誰と過ごすか」何て決まっているに決まってる。正確には「誰と過ごしたいか」になってしまうのだが。

あの場はとっさに切り抜けたが察しのいい彼は気づいてしまったかもしれない。ただ、バレていないことを祈るしかなかった。

クリスマスの夜に彼に想いを告げようと思ったのは事実だ。それまでに伝えられなければもう伝えられないだろう。そんな気がする。言葉にするならばタイミングのようなものなのだと思う。

彼が私を好いているかは分からないし知りたくない。私が彼のことを友人としてではなく一人の異性として意識しているのは確かなのだ。ただ、怖かった。彼に想いを拒絶されることが、今の関係が壊れることが怖かった。臆病者なのだ。もし私が赤鼻のトナカイだったら確実に逃げる。当ても無くただどこまでも逃げる。私を笑う何かがいないところまで逃げていく。

街は徐々にクリスマスに犯されていった。



それから数日間、街は雪化粧をし、サンタクロースが来るのを心待ちにしていた。勿論、それ以外の何か淡く温かいものを期待していたものもいた。俺はいつもと変わらない日常を過ごしていた。

クラスの男子が企画したクリスマスパーティーは佳境を迎えていた。プレゼント交換のくじを引いている。十五。それが俺の引いた番号だった。

「何番だった、柳澤君?」

「清香か。俺は十五だったぞ、清香は?」

「私は二十七だったよ。お互いにいいものが当たるといいね。」

清香はそういうと自分の席に戻った。主催者が声を張りプレゼント交換を始めることを告げる。

一番から順に呼ばれていく。その様子を見ているとだいたい二種類のものがいた。一つは純粋にプレゼントを喜ぶ者。そしてもう一つはプレゼントの内容ではなく誰のプレゼントかに一喜一憂する者だ。まぁ、後者がほとんど男子生徒なのは言うまでもない。

そうして十五番が呼ばれプレゼントを貰いに行く。可愛い袋に入れられていた。席に戻り中を覗くと大きな靴下が入っていた。それも、プレゼントを入れてくださいとサンタクロースに向け子供が枕元に吊るしておくような大きさである。なんともユニークなプレゼントに俺は小さく笑った。その後、順々にプレゼントが渡され陽が傾きかけた時分には解散となった。

梨紗を見ていないことに気付き連絡をしようと思うと携帯に「風邪をひいたから今日は休むね。楽しんできて!」とメールが届いていて安心する。帰るときに寄るとしよう。そう思い教室を出ようとすると服を引っ張られた。

「その、一緒に帰らない?」

清香はいつもより小さい声で俯いていた。クラスの男子からの視線が痛いかと思いきやそちらはそちらで盛り上がっていた。

「あぁ、いいよ。」

そういうと俺と清香は連れ立って教室を出る。



携帯を開き新規作成からメールを新しく打ち始める。内容は簡単なもので全部、いや一部だけ嘘だ。風邪なんて引いていない。休むための口実だ。コートを羽織ると雪化粧をしたままの町を窓から一瞥し部屋を出る。

私の世界は狭かった。こうしてどこかに当ても無く行こうとしても行くべき場所が思いつかない。そうして往々にしてこういう時、人間は思い出深い場所や大切な人との思い出の場所に向かう。

気が付くと私は海岸沿いにいた。冬の海岸はたまに物好きなカップルがいたりするが今日はいなかった。逆に好都合だった。のんびりと防潮堤の上を歩きながら海を眺める。凪いだ海はひたすらに何も言わなかった。

砂浜に降りる階段を見つけてそこに腰掛ける。石段は砂がじゃりじゃりとした。

私はふと物思いに耽る。

彼のことを意識し出したのはいつだろうか? ずっとそばにいたから気が付かなかった。幼馴染みという関係性からなる特殊な感情だと思っていた。家族愛のようなものだと思っていた。

しかし、違ったのだ。清香は私と同じだった。それを見て私の感情は家族愛から異性に対する恋愛感情に変わった。だからこそこうして身を引いてしまったのかもしれない。あの二人は両想いだ。気が付いていないだけでどちらかが行動を起こせばそんなことはすぐに分かる。この前も発破をかけるようにあんな質問をしてみたが効果はなかったようだ。第一、パフェにアイスを乗せる方が悪い。結局、確信に至るようなことを何も話させられなかった。まぁ、普通はあそこまで言ったのなら榛斗も気付いて然るべきだと思う。やっぱり、あいつは鈍感だ。そういうことだけはだが。

私は段々と穏やかな気持ちになっていた。周りを見回すと防潮堤に彼女が腰掛けていた。

──馬鹿ね、自分から死のうとするなんて──

「いいじゃないのさ。私は彼のことが好きだけど同時に清香も大切なんだよ。そんな二人が幸せになるなら喜んで死ぬよ。」

──喜んで……ね。涙目で言ったって説得力無いわよ? まぁ、それも一つの愛って事かしらね──

「そうかもね。あと、泣いてないさ。ちょっと目にゴミが入ったの。」

自分でも苦しい言い訳だった。まぁ、誰もいない。別に気にしなくていいのだろう。彼女は私なのだからどんなに上手く言っても意味は無い。

クリスマスの夜は徐々に迫ってきていた。夕闇に飲まれるように私の体は死を迎え始めていた。



夕闇が迫ってきていた。無人駅のホームで俺たちは座っていた。先程からもう、十分は経った。清香は俯いて拳を握ったまま動かない。いや、偶にこちらをちらっと見てはすぐにまた俯くのだ。時刻表を見るとまだまだ次の電車が来るまであった。のんびりと気長に待つほかないようだ。

梨紗の所に行くのは今日はもう無理だろう。明日行くとしよう。

夜の海が何かを訴えるように悲しそうに波を寄せていた。何だか物悲しい気分になる。

寒さが厳しくなってきた。携帯カイロは既に寿命を迎えてその体温を暗闇に奪われつつあった。清香はまだ俯いていた。



寒いはずなのに暑かった。いや熱かった。先程からずっと同じことを考えては却下し考えては却下しを繰り返している。手は若干震えている。もう、寒さなのか何なのか分からなかった。心臓の鼓動が早い。紅潮した顔を見られないように俯いているが彼の顔が見たい。その手に、指に触れたい。そういう感情を形成している何かがごぽごぽと湧いてくる。

たまにそれを汚いという人もいるがよく分からない。汚いとか汚くないとかそういうものではない。ただ、そこに溢れているのだ。それを拾い上げて濾してあるものが感情だと本に書いてあった。

もう、彼はなぜ私がこうしているかは分かっているのだろうか? ならば、申し訳ない。分かった上でこんな寒い中待たせているのならば。

もうすっかり暗かった。空は群青色に染まって小さく星々が輝き始めていた。雪が降ってきた。小さな小さな雪は触ってしまえばすぐに消えた。淡雪だった。私と彼の距離感のようだった。私が彼に想いを告げればこの関係は終わる。

何だか伝えなくてもいい気がしてきた。私は今の距離感が好きだ。私が彼のことをそっと見て彼は誰かを見てたまにこちらを見る。そうしてたまに目が合って私が恥ずかしくて目をそらす。そんな関係が好きだ。終わらせたくない。そう思ってしまった。

クリスマスの魔法は私には効かない。いや、私はそれを自分からかからないようにしていたのだ。サンタクロースがプレゼントをくれるのはもっと小さい時でもう私にはくれない。ならば、これ以上は欲しないで今あるものを大切にしたい。求めれば消える。

私は彼に聞こえないようにそれを呟く。

彼の方を見て「ごめんね」と言って立ち上がる。彼は寒そうだった。まぁ、こんな中ずっとこうしていたのだ。特に身を寄せ合うわけでもなくなんとも言えない距離感でいたのだ。改札に向かって歩き出すと彼も改札に向かって歩き出す。改札には小さなクリスマスツリーが申し訳なさそうに立ってその電飾を一生懸命に光らせ誰かを祝福していた。

もし、彼に聞こえないように呟いたことを聞こえるように言ったら私はこの囁かな祝福を受けることが出来ただろうか? もう、そんなことに意味はなかった。これが私の選んだ「好き」なのだから。

駅を出ると雪はさらに降っていた。彼が鞄から折りたたみ傘を取り出し入るように促す。少し照れながらもその傘に入る。私は嬉しかった。さっき、半ば諦めたはずなのに。やはり無理なのかもしれない。私は彼への想いをコントロールできない。今だって傘を持つ彼の腕に自分の腕を絡ませて歩きたい。

突然、ぎこちなく彼の手が私の右手を掴んだ。彼の方を見るとどこかを見ていた。私は腕を絡ませ彼の腕を抱いた。彼は私にとっての毛布なのだ。優しく包んでくれて持っているだけで安らぎを与えてくれるのだ。

田舎道を歩いていく二人の背中をポインセチアの鉢植えが見つめていた。

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懸想文 永本雅 @kosumisiori

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