第4章 灰色の街へ ⑨オレ、一人ぼっちになる
「ただいまの曲は、チャイコフスキー、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35、第1楽章。ロシア・フィルハーモニー管弦楽団の演奏でした」
曲が終わり、アナウンサーの解説が入る。
「チャイコフスキーだって。ヴァイオリン協奏曲、だって」
美咲が復唱する。
「ユーチューブにあるかな」
オレの顔を見て、美咲は息を止めた。オレが静かに泣いていたからだ。
オレは今まで一度も、美咲の前で泣いたことはない。津波の話も、家族の話も、淡々と話した。
でも、今は抑えきれない。
あのころのオレの感情が、心の底からあふれ出す。
もし、父ちゃんと母ちゃんと真吾が生きていたら。
そしたら、オレら家族はきっとやり直せたはずなんだ。
ギスギスして、崩壊寸前だったオレらは、きっと昔のように仲のよい家族に戻れたはずなんだ。
あのとき、車の中で手を握りあっていた父ちゃんと母ちゃん。
責めあい、傷つけあい、分かってくれない相手に苛立ち、互いにあきらめて、きっと相手を恨んだりもして、愛情がなくなっていたかもしれない二人。
それでも、きっと、あの津波をきっかけに、やり直せたはずだったんだ。思い出したはずなんだ、愛情を。
オレが、あのとき真吾をしっかり抱きしめていれば。
いや、シートベルトを締めさせればよかったんだ。そしたら、真吾は車がひっくり返っても無事でいられた。そうすれば、みんなですぐに脱出できたんだ。
みんなで助かったんだ。みんなで電柱に登って助かったんだ。
オレがいけないんだ。
オレがいけなかったんだ。
幼いオレはそうやって、何度も何度も自分を責めた。答えのない問い、救いのない呵責。
あのころのオレに言ってあげたい。そんなに責めるな、と。一人で抱え込むな、と。
どうしようもなかったんだ。どうにもできないことは、世の中にたくさん、たくさんあるんだ。今のオレにはそれが分かる。
美咲が抱きしめてくれた。
オレは美咲の肩に顔をうずめた。いつもと立場が逆転してる。
やっぱり、オレは、美咲がいるから、ここに来られたんだな。
父ちゃんは海岸の近くで見つかったらしい。
母ちゃんと真吾は、車が見つかったところの近くで、がれきに埋もれていたらしい。
父ちゃんと母ちゃんと真吾は、白い棺に入れられて土に埋められた。遺体が多すぎて、火葬できる状況じゃなかったんだ。母ちゃんと真吾は、離さずにそのまま棺に納められた。
お坊さんがお経をあげてくれた。そのお坊さんは何度も何度もお経をつっかえた。見ると、お坊さんは泣いていた。
おじさんもおばさんも泣いていた。
オレは泣かなかった。いや、泣けなかったんだ。
卓也はオレの気持ちが分かるのか、ずっと黙ってそばにいてくれた。その目は真っ赤だった。
簡単な葬式の後、3人の遺体が見つかった場所に行ってみることにした。
オレが行きたいと言ったのか、おじさんたちが言い出したのかは、覚えていない。
母ちゃんと真吾が見つかったがれきの前には赤い旗が刺さっていた。2本の赤い旗。
母ちゃんは真吾を死んでも離さなかったんだ。
なんで。
なんで。
なんで、オレだけ助かったんだ。
なんで、オレも一緒に流されなかったんだ。
なんで、父ちゃんはオレだけを電柱に登らせたんだ。
オレも一緒に逝きたかった。
オレは父ちゃんに抱きしめられて。
真吾は母ちゃんに抱きしめられて。
みんなで仲良く天国に行けたらよかったのに。
ひどいよ。ひどいよ。
オレだけ置いてくなんて。
オレだけ一人ぼっちにするなんて。
風になびく旗を見つめながら、オレは叫びそうになるのを必死で堪えていた。叫んだら、何かが壊れてしまいそうだった。
それからしばらくして、ばあちゃんとじいちゃんも行方不明になっているのだと、避難所に来た伯父さんから聞いた。
ばあちゃんは学校から逃げる最中に、生徒と一緒に波に呑まれたらしい。じいちゃんは、町役場で津波に呑まれたらしい。二人とも、今でも遺体は見つからないままだ。
あの津波は。
正しい人も、間違っている人も、
正直な人も、ずるい人も、
元気な人も、病気にかかっている人も、
幸せな人も、不幸せな人も、
笑っていた人も、怒っていた人も、
喜んでいた人も、悲しんでいた人も、
やさしい人も、恐い人も、
のんびりした人も、せかせかした人も、
毎日懸命に生きていた人も、
何となく生きていた人も、
希望に満ちていた人も、
絶望に打ちひしがれていた人も、
堂々と生きていた人も、
背中を丸めて生きていた人も、
偉い人も、名もなき人も、
家族がいる人も、一人ぼっちの人も、
大人も、子供も、老人も、赤ちゃんも、
すべて、すべて、すべて、
すべてを呑み込んでしまった。
そして永遠に連れ去ってしまったんだ。
何もなかった。
オレの生まれ育った街は、本当に跡形もなく消えていた。美咲の生まれた街のように、ところどころに家の基礎が残っていたり、慰霊碑が建っているわけでもない。呆れるほどきれいさっぱりした平野を、車でウロウロと回るしかなかった。
オレの家も。よく遊んだ公園も。買い物に行った商店街も、何もない。学校も津波に呑まれて、結局取り壊したって、かなり経ってから聞いた。
故郷消滅。
あの頃のクラスメイトは、今頃、どこで何をしてるんだろう。
東京に引っ越す前、避難所の近くにある高校の一部を借りて、授業は再開された。幸い、オレの学校では、犠牲者はいなかった。でも、オレと同じように家族や親戚を亡くしたやつは大勢いた。
その後、仮設住宅に移った人もいれば、オレと同じように市外に越していった人もいる。みんな、散り散りバラバラになった。だから、小学校の時の同窓会なんて、開けない。いや、もしかして一部の人で開いてるのかもしれないけど、もうオレはそれを知る手立てがない。故郷がなくなるって、そういうことなんだな。
「あ、なんか、看板が立ってる」
美咲が指差したところに、ポツンと看板が立っていた。その前で車を止めると、「市営公園建設予定地」と書かれてあった。いつから「予定地」になっているのだろう。
「公園になるんだね」
「うん」
オレはハンドルに突っ伏した。
思い出の地の上に、公園ができる。
そうやって、オレの思い出も上書きされてしまうのか。
美咲は背中をさすってくれる。
父ちゃん、母ちゃん、真吾。
オレは連れてきたんだよ、自分の大切な人を。
見ていてくれてるか。あのとき、何もできなかったオレが、父親になるんだよ。父ちゃんと母ちゃんに孫ができるんだよ。
それを一緒に喜んでくれる家族がいないっていうのは、こんなにも、寂しくて、こんなにも、骨がきしむように痛いんだな。
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