第4章 灰色の街へ ⑤みんなで逃げるんだ。
波は、バックガラスにバシッという音とともに叩きつけられた。ガソリンスタンドにあるカーウォッシャーのように、水が窓を包み込む。体がふわっと浮いた。いや、車が浮いたというほうが正解だ。
母ちゃんが絶叫する。
「ヤバイ、ハンドルが効かないっ。しっかりつかまってろっ」
父ちゃんが悲鳴のような声をあげる。
車に次々と何かがぶつかって、すごい音がする。車が壊れちゃう。オレは目をつぶった。
「母ちゃあん」
真吾はオレから体を離し、助手席にいる母ちゃんのところに行こうと、手を伸ばした。
「ダメっ、真吾、危ないから座っててっ」
「真吾っ、危ないよっ」
母ちゃんとオレが同時に叫んだ。
すると、車がグルッと横に回転した。真吾はバランスを失い、窓ガラスに叩きつけられる。
「真吾っ」
オレは真吾に手を伸ばした。
そのとき。
車はひっくり返った。上下にひっくり返ったんだ。
もう、誰が悲鳴をあげているのかなんてわからない。オレは目を開けられなかった。
まるでジェットコースターだ。輪のてっぺんまで走って行って、逆さになったところでちょっと止まるやつ。いや、ジェットコースターよりずっと怖い。どうしよう、このままずっと逆さのままだったら。シートベルトが体に食い込んで痛い。体が千切れてしまいそう。
助けて。怖いよ。助けて、神様、助けて。
その願いが通じたのかどうかは分からないけど、車はまたひっくり返って元に戻った。
真吾は座席の下にぐったりと倒れこんでいた。
「母ちゃん、真吾が、真吾がっ」
「真吾、真吾?」
車は何かにぶつかり、また横に大きく回転した。
「動くな、隼人、動くなよっ」
父ちゃんが鋭く言う。オレはシートベルトを外そうとしてたけど、その手を止めた。
車は、いつの間にか波の上に出ていた。波に乗って流れてるのかな。と思ったとたん、急に車は後ろに引っ張られた。それも、ものすごい力で。
「引き波だっ」
「もう、嫌あっ」
見ると、父ちゃんと母ちゃんは両手を握りあっていた。
こんなに大きな車でも、津波にはかなわないんだな。簡単に流されちゃうんだ。
オレは混乱しながらも、そんなことを考えた。
まるで自動的にバックしているかのように、車はグイグイ引っ張られていく。
どうなっちゃうんだろう。もしかして、このまま海まで流されちゃうとか?
そう思ったとき、車は何かにぶつかって止まった。ものすごい衝撃で、体が前後に大きく揺れる。車が壊れたのかと思った。
ぶつかったのは、何かの建物だった。
車の横を、猛スピードでいろんなものが流されていく。
家の屋根も、タンスも、テレビも、自転車も、バイクも、いろんなものが、まるでおもちゃのように流されていった。
しばらく経って、波が引いたころ、父ちゃんが「逃げるぞっ」とシートベルトを外した。
「車の中にいたほうが安全じゃない?」
「イヤ、ショートして爆発するかもしれない。出よう、出よう」
真吾はオレの足元で倒れている。
オレはシートベルトを外し、ドアを開けようとした――開かない。
父ちゃんのところも、母ちゃんのところも開かないみたいだった。
父ちゃんはダッシュボードの中からハンマーみたいなものを取り出して、運転席の窓ガラスを力いっぱい叩いた。2回ぐらいであっさりと割れた。
父ちゃんは窓から這い出し、オレに真吾をどかすように指示した。オレは足下に転がっていた真吾の足を引っ張って、反対側の窓のところまで寄せた。真吾は、血は出ていないけど、息が止まっているように見えた。
「真吾? 真吾?」
真吾の体を揺さぶってみる。苦しそうに目をつぶったまま、真吾は目を開けないし、何も答えない。
鈍い音とともに、後部座席の窓ガラスも割れた。
「隼人、こっちだ!」
父ちゃんが割れた窓から手招きをする。
「隼人、早く行って。私が真吾を見るから」
「真吾はオレと母ちゃんで助けるからっ、早く、こっちに!」
母ちゃんが後部座席に移ってきて、「ほら、早く、行って!」とオレの背中を軽く叩いた。
「大丈夫だから。ね?」
母ちゃんは震えていた。目には涙が浮かんでいた。それでも、その目は優しく、強く、オレを見つめてくれたんだ。
昔の母ちゃんだ。優しかったころの母ちゃんだ。
母ちゃんに押されるようにして、窓から身を乗り出した。父ちゃんがオレの体を抱えて、引っ張り出してくれる。割れたガラスが腕や太ももをこする。でも、そんなこと気にしてられなかった。
水は完全には引いてなかった。確か、オレの膝ぐらいまであったと思う。
父ちゃんはオレを抱え上げると、「この電柱にのぼれるか?」と聞いた。
ぶつかった建物は、たぶん、農家の道具か何かをしまっておく小屋だろう。その隣に電柱が立っている。
父ちゃんはオレを高く抱え上げた。オレは手を伸ばして電柱の杭をつかむ。杭に足をかけて何段か登ると、父ちゃんは「もっと上に行け、もっと上」って急かす。
かなり登ってから見下ろすと、父ちゃんは「いいか、絶対に離すんじゃないぞ」と呼びかけた。あのときの父ちゃんの、まっすぐな目。忘れられない。
「絶対に離すなよっ」
父ちゃんはもう一回念を押した。オレは大きくうなずいた。
母ちゃんが何かを言った。父ちゃんは車内をのぞきこむ。
真吾は大丈夫かな。
そのとき、ゴウという音を聞いた気がした。
海のほうを見ると、再び、黒い波が突進してきていた。
「父ちゃん、波っ」
オレは叫んだ。
「父ちゃん、津波、津波っ」
オレは精一杯叫んだつもりだけど、父ちゃんには届かなかったのかもしれない。
津波がすぐそこまで来た。と思ったら。
「あっ」
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