第4章 灰色の街へ ①灰色の想い出
美咲の住んでいた街を離れ、オレがいた街に車を走らせる。
美咲はオレの太ももに右手を乗せている。泣き腫らした目で、だけど意外にもしっかりした顔つきで前を見ている。オレは時折、その手をギュッと握った。
すごいなあ。いじめに遭っていたってことは聞いてる。いじめられてた相手が津波で流されたってことも聞いてる。
学校を見たら、ショックで立ち直れなくなるんじゃないかってちょっと心配してたんだけど、ほんのわずかな時間で乗り越えたって感じ。
どこにこんな強さが眠ってたんだろう。会ったばかりのころは、もっとオレが守ってやらなきゃって感じだったのに。やっぱり、母親になるってそういうことなのかな。
消し忘れていたカーラジオから、淡々とアナウンサーの声が流れているけど、耳に入らない。消す気にもなれなかった。
ややあって、流れてきた曲。
あれ、この曲。
どこかで聴いたことがある。
どこかで。どこだ?
そのとき、オレの脳裏に、ある光景が鮮やかに蘇った。
「ただいまあ」
オレが帰ると、台所で母ちゃんが、鼻歌を歌っていた。あ、母ちゃん、今日はご機嫌なんだ。
「おっかえりぃ」
エプロン姿の母ちゃんは、満面の笑みで迎えてくれる。髪を無造作に一つに結び、化粧っけのない、いつもの母ちゃん。
「お菓子、そこにあるよ」
「うん」
「手ぇ洗ってよ」
「ほおい」
オレは速攻で手を洗って、テレビをつけてお菓子を頬張る。
母ちゃんは、またあの鼻歌を歌う。
「ランラン、ララララランラン」
「ねえ、ずっと同じとこしか歌ってないけど、その曲なに?」
「知らなあい。子供の頃、学校に来たオーケストラが演奏してて、その部分だけ覚えてるんだもん」
「ふうん」
機嫌がいいとき、母ちゃんはよく鼻歌を歌う。
そのとき歌っていたのが、この曲だ。
「この曲、何て言うんだろ」
オレの声はかすれてた。
美咲は「ん?」とオレを見た。
「これ、母ちゃんがよく歌ってた曲なんだ。何ていう曲なんだろ」
美咲は、ハッと背筋を伸ばした。身を乗り出すと、ボリュームを大きくする。
「きっと、最後に曲名を言うんじゃない?」
「そうだね、きっと」
バイオリンは、ちょっと切ないメロディを奏でている。オーケストラは、それに優しく寄り添うような演奏だ。
高らかに、伸びやかにバイオリンは歌う。
何て曲だろう。オレは運転に集中できなくなって、路肩に車を止めた。
二人で、手を握りながら耳をそばだてる。息を止めながら。
窓の外には、相変わらず灰色の海、そして灰色の空。
灰色。
オレがあの街を思い出すときは、なぜかいつも重く灰色がかっている。
それは冬の海の色でもあり、冬の空の色でもあり。
オレの家族は。
今思い出しても、仲がいいとはいえなかった。
無職で、ブラブラして、パチンコばっかりしていた父ちゃん。
父ちゃんの代わりに、水産加工の工場で働いていた母ちゃん。
陽気で明るくて、みんなから愛されていた、弟の真吾。
オレは、大嫌いだったんだ、自分の家族が。
「もう、仕事しないんなら、家事ぐらい手伝ってよ!」
母ちゃんのヒステリックな叫び。そんなの、日常茶飯事だった。
畳に寝転んでテレビを見ている父ちゃんは、何も答えないし、動こうともしない。
母ちゃんは、時には父ちゃんに洗濯物や座布団をぶつけることもあった。
「私ばっかり、働かせてっ。こんなんじゃやっていけないって言ってんのに、なんで何もしてくんないの?」
真っ赤になって怒っている母ちゃんの姿を見るのはつらかった。ケンカが始まると、オレは子供部屋にこもるか、外に出た。外に出ても、母ちゃんの声は通りにまで響く。
近所の人が通りかかると、玄関に座り込んでいるオレに、気の毒そうに声をかけてくれた。お菓子をくれた人もいたし、「うちにいらっしゃい」と家に入れてくれた人もいた。うちの夫婦喧嘩は、近所じゃ有名だった。
母ちゃんは、平日は朝から夕方まで工場で働いて、土日は弁当屋で働いていた。でも、朝早く起きてオレらの朝ご飯も作ってくれたし、仕事から帰って来たら夕飯も作ってくれた。オレは掃除とか洗濯とか、できるだけのことを手伝っていた。
母ちゃんはいつもイライラしていた。でも、オレがもっと小さかった頃はそんなんじゃなかった。6歳下の真吾が生まれたころは、もっと家の中は穏やかだった気がする。家族で旅行に行ったし、よく遊びにも行った。そして、母ちゃんはよく鼻歌を歌っていた。
母ちゃんもそのころは、午前中だけ働いていた。決して裕福ではなかったけど、そこそこ満足できる暮らしだったんだ。まだそのころは、父ちゃんが漁師をやってたから。
あの地震の何年か前、「漁に出れば出るほど赤字になる」って父ちゃんはよくぼやいていた。そして、漁師を辞めてしまったんだ。
その日から、父ちゃんはハローワークに通うようになった。でも、仕事は見つからなかった。
「今日も見つからなかった」
「ダメだった」
最初の頃は、父ちゃんがそう嘆くと、
「大丈夫だよ、そのうち見つかるよ」
と、母ちゃんは慰めた。
でも、そのまま2・3ヶ月が経つと、父ちゃんは段々何も言わなくなっていった。母ちゃんはパートの時間を増やし、オレが学校から帰っても誰もいない日々が始まった。オレは保育園まで真吾を迎えに行き、帰って来たら面倒を見なければいけなかった。
はじめは、父ちゃんも母ちゃんも、オレらがいないところでケンカをしていた。夜遅く、言い争う声が寝室から聞こえてきた。
「ねえ、お義父さんとお義母さんに相談したほうがいいんじゃないの?」
「こんなこと言えっかよ。そら見たことかって、笑われるだけだから。学生のとき勉強しなかったからこうなるんだって」
「笑われたっていいじゃない。そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ? 仕事、紹介してもらいなよ」
「そんなこと相談したら、隼人と真吾をとられるぞ? お前らじゃ育てられないだろって、二人をとられるぞ? あいつらなら、それぐらいのこと、平気ですんぞ。それでもいいのか?」
いつも、そんなことを話していた。
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