第3章 あの日へ ⑧なぜ、私は生き残ったんだろう
体育館は、入り口がひん曲がっていた。ドアはない。たぶん、津波に持って行かれてしまったんだろう。
中をのぞくと、床はホコリまみれだった。泥だらけになった跳び箱やマットレスが端っこに転がっている。ステージの緞帳はビリビリで、ステージは何か大きなものがぶつかったのか、ポッカリ穴が開いている。
上の通路は一部が崩れ落ちていた。鉄製の柵は大きく曲がっている。生き残った人たちは、本当に奇跡のようなものだったんだろう。
ここで、みんな津波に呑まれた。
私は目を閉じて、その光景を想像してみた。
流れ込む濁流、逃げ惑う摩耶ちゃんやさっちゃん、今野たち。摩耶ちゃんは、正義感が強かったから、お年寄りを助けようと手を引いてあげたかもしれない。今野はお父さんの腕の中で、必死に恐怖と闘ってたんだろう。私をいじめて、偉そうにしてた今野だって、きっと泣いて怖がってたんじゃないかな。
寄せる波、引いていく波。みんな、必死でどこかにつかまって、流されないようにしてたのかもしれない。そして、その手が離れて――。
どれだけ苦しかったんだろう。
もしかして、今野は最期に後悔したんだろうか。私をいじめたこと。罰があたったんだって、悔やんだのかもしれない。
そうだとしても、ちっとも嬉しくなんかない。
あのいじめが罪だとしても、生きていて充分償えた。そうでしょ?
そうなんだ。赦し、赦されないまま人生を終えることほど、つらいことって、きっとない。だから私は今でも胸がずんと重くなる。この先も、ずっと。
「あっ」
私は思わず、お腹に手を当てた。
「どうした?」
隼人がサッと顔色を変える。
「今、お腹を蹴られた」
「なんだ、何か大変なことが起きたのかと思った」
隼人は安堵のため息をつく。
10年前、生き延びた私が今ここにいて、そしてお腹の中には赤ちゃんがいる。
そうだね。
このずんと重い気持ち、これからも抱えて生きていこう。それでいいんだ。私だから、それができるんだ。それがみんなを忘れないってことでもあるんだ。
ある日、私は避難所になっている中学校の校庭で、優海と一緒に遊んでいた。といっても、私に遊ぶ気力はなく、優海が走り回っている横で、地面に枝で何かを描いていた。
「もしかして、美咲ちゃん?」
声をかけられ、見上げると、見覚えのあるおばさんが私を見下ろしている。
誰だっけ、この人。
私は記憶の糸を必死でたぐった。
「覚えてないかしら。摩耶のママなんだけど」
「あっ」
枝を落とした。
摩耶ちゃんのお母さんは、げっそりとやせ細っていた。きれいにパーマがかかっていた茶色い髪はボサボサになっていて、すっぴんの顔にはクマがくっきりと出ている。目尻には皺もできて、なんだか、一気に老けたみたい。
摩耶ちゃんのお母さんは、私をジロジロと遠慮なく見つめる。その眼は、異様に見開かれていた。私は顔を正視できず、モジモジしていた。
「美咲ちゃんは助かったの? どうして?」
「あー、私、気分悪くて、その、早びけして」
「そうなの? 一人で帰ったの?」
私はうなずいた。
「うちの摩耶、津波に流されたの、知ってる?」
また黙ってうなずく。
「遺体が学校の近くの畑で見つかって……理沙ちゃんのところも、未空ちゃんのところも……そう、あなた、一人で助かったの」
私は何も答えられなかった。
「摩耶、最後はどうだった?」
私は質問の意味が分からず、首を傾げた。
「最後に見た摩耶の様子、どうだった?」
「最後に見た」
脳裏には、私の目の前を鮮やかに駆け抜けて行った摩耶ちゃんの姿が蘇った。
「体育のとき、摩耶ちゃんはマラソンで1番でした」
「そう。あの子、走るのが速いからね。いつも1番だったでしょ? だから、津波が来ても走って逃げられたんじゃないかって思ってたのね。でも、ダメだったみたい。泥だらけになって、畑に転がってた。私が見つけたの、私が」
摩耶ちゃんのお母さんは、話しながら段々涙声になっていった。
「あの子、優しい子でしょ? 正義感もいっぱいで。だから、体育館に助けに行っちゃったのよね、お年寄りを。私がいつも、お年寄りには親切にしなさいって、教えてたから。あの子、いつもお年寄りを見かけたら荷物を持ってあげたりして、本当に優しかったの。あんな優しい子が、ねえ、どうして、死ななくちゃいけなかったの? 神様っておかしいでしょ? あんな優しくていい子を死なせなくても、ほかにいくらでも、死なせていい子がいるじゃない、ねえ」
最後の一言には、あきらかに敵意がこもっていた。
見上げると、摩耶ちゃんのお母さんの目は、血走っていた。怒ってる。なぜ? 私、怒られるようなこと、した?
「あなた、運動会ではいつもビリだったでしょ? 走って逃げられたの?」
「私は……車に乗せてもらって……」
「はあ? 車で逃げたの? みんなは、みんなは津波に呑まれたのに。一人だけ車で逃げたの?」
そんなこと言われても。どうしよう。何て答えていいのかわからない。
そこへ、ママが駆けつけた。優海が呼びに行ってくれたみたい。摩耶ちゃんのお母さんの様子を見て、おかしいって感じたのかもしれない。
「こんにちは、五十嵐さんですよね」
ママは摩耶ちゃんのお母さんに声をかける。
「このたびは、ご愁傷様でした」
ママが頭を下げると、
「美咲ちゃんは学校を早引けして、一人で助かったんですってね。ずいぶん運がいいんですね。学校をサボって助かるなんて」
って、摩耶ちゃんのお母さんの、痛烈な一言。
「サボったわけじゃないですよ。体育の時間に気持ち悪くなって、吐いてしまったって、学校から連絡がありましたから」
「でも、しょっちゅう保健室に行ってるんでしょ? よく摩耶は話してたんだから。今日も美咲ちゃんは体育の途中で保健室に行ったって。もうちょっと頑張ればいいのにって。うちの摩耶はマジメで、体育もサボったりしないし、授業中もいっぱい手を挙げて答えてるのに。マジメに頑張ってる子が死んで、なんでサボってばっかの子が」
「そんな、ひどいですよ、そんな言い方」
ママは摩耶ちゃんのお母さんの剣幕に圧倒されながらも、反論しようとした。
摩耶ちゃんは一人っ子。家庭教師をつけて、ずいぶん教育熱心な親だって、近所でも評判だった。摩耶ちゃんのお母さんはPTAの役員をしているぐらい、活発な人だった。でも、性格は結構キツいらしく、ママは苦手なタイプだって、PTAの会合の後に、いつもぼやいていた。
「なんで、摩耶が。なんで、あの子が」
摩耶ちゃんのお母さんはポロポロと涙をこぼした。と思うと、膝から崩れ落ちるようにして、地面にへたりこんだ。
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