第3章 あの日へ ②10年前の私
あの日、私は泣きながら家に向かっていた。学校を早引けしたんだ。
あのころの私は太っていた。
太っていたからスポーツは全部、苦手。かけっこはいつもビリだったし、鉄棒の逆上がりはできなかったし、跳び箱も飛べなかった。
だから、いつもクラスの男子にからかわれていた。
あの日の5時間目は体育で、マラソンだった。
マラソンなんて、ちょー苦手。いつもマラソンがある日は休みたかった。スタートする前からのどに何かがつっかえたような、重い気分になるんだ。
その日も、やっぱりビリ。
1周目でみんなから大きく離され、あっという間に前の子と半周ぐらい差がついてしまった。
体が重くて、足が動かない。おまけに、給食がまだちゃんと消化しきれてないみたい。
男子が、サーキットのそばに座って、おしゃべりしている。
あ、今野だ。
今野はクラスのリーダー格で、クラスで一番ケンカが強くて、クラスで一番おもしろい。だから、女子にも人気があった。私は大嫌いだったけど。
いつも今野は私が横を通ると、「うわっ、揺れてる。地震か?」ってふざけた。
忘れられないのは、体育で相撲をとったときに、「ひがあしい、名取ぃ山あ」とみんなの前でしこを踏んだこと。みんなは爆笑して、先生は軽く「やめなさい」って注意するだけだった。私はみんなと一緒に笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。
それからしばらくの間、男子には「なとりきし」って呼ばれてた。
私は気が弱くて、「やめてよ」って抗議できなかった。でも泣くのもイヤで、いつも気にしてないフリをして黙っているだけだった。
今野は、ほかの男子とふざけている。そのまま気づかないでいてくれたらいいのに、横を駆け抜けるとき。
「名取、あんまり地面を揺らすなよっ」
キツい一言が背中に浴びせかけられる。やっぱりね。
男子がどっとわく。
嫌だ。嫌だ。消えてしまいたい。
私は涙が出てきそうになるのを、必死で堪えていた。
最悪なことに、5週目で先頭を走っていた子に追い抜かれてしまった。いつも、そうだった。それだけは嫌だから、懸命に走ったつもりだったのに。
先頭は、いつもの五十嵐摩耶ちゃん。すらりと背が高くて、手足も長くて、うらやましいスタイル。それに、目鼻立ちがくっきりしていて、入学したころから美人で評判だった。
もちろん男子から人気があった。私が好きな長尾君も、摩耶ちゃんを好きなのは明らかだった。私の初恋は、あえなく破れたようなものだ。
摩耶ちゃんはポニーテールを揺らしながら、軽快に駆け抜けていく。リズミカルな息遣い。私と違って、少しも苦しそうじゃない。
そして、2番目の子にも抜かれて、3番目の子にも抜かれた。途中で、何人に抜かれたのか数えるのをやめた。もう歩くようなスピードになっていた。気持ち悪い。足が動かない。早くゴールについて。早く、ゴールについて。
私がゴールしたのは、摩耶ちゃんたちが校庭に座り込んでおしゃべりしているころだった。担任の楢坂久美先生はストップウォッチを見ながら、「今日は、いつも以上に遅いわねえ」とため息をついた。
私は何も答えられず、ゴールを超えたところで両膝に手をついて、ゼエゼエ息を切らしていた。
「名取さん、次は男子の番だから、そこどいて」
楢坂先生が冷ややかに言った。
「邪魔だよ、なとりきし」
「さっさとどけって」
男子は私をはやしたてながら、スタート地点に並ぶ。私はフラフラと水飲み場に向かった。気持ち悪い。吐きそうだ。
「用意」という先生の声の後に、ピーッと笛の音が響き渡る。
男子が一斉に走り出すと、地響きがした。
昇降口の横にある水飲み場につき、蛇口をひねったとたん、胃から何かがこみあげてきた。声を出すつもりはなくても、「オエッ」と音が漏れる。
「うわっ、あの人、吐いてる」
「きったねー」
ちょうどその水飲み場は、一年生の教室の前にあった。
顔を上げると、一年生が窓越しに、興味津々に私のほうを見ている。
「コラ、なーに見てんだ。ジロジロ見んのはやめなさいっ」
男の先生が一年生を一喝するけど、まったく効果はなかった。私はもう一度吐いてしまい、また一年生が大騒ぎする。
「大丈夫か? 保健室、行ったほうがいいぞ」
パパぐらいの歳の先生は、窓を開けて私に呼びかけた。私はうなずいて、口をすすいだ。
振り返ると、先生と男子は気づいてないみたいだった。でも、摩耶ちゃんたちはこっちを指差して何か言ってる。あーあ、バレちゃった。
私は口を手で覆いながら、フラフラと校庭から保健室に入った。
保健の先生は、みんなからおばさん先生と呼ばれていた。太い黒縁のメガネをかけていて、白髪交じりの髪をいつも一つに結んでいた。
体の弱い私は、よく具合が悪くなって保健室に行っていた。おばさん先生はいつも露骨に嫌な顔をして、「ちょっと気分悪いぐらいで、すーぐ保健室に来んだから。ちっとは我慢しなさい」と諭す。私はおばさん先生が大っ嫌いだった。
そこの水飲み場で吐いたことを話すと、「あららら。口はすすいだ?」とおばさん先生は心配そうに尋ねた。本当に吐くと、優しいのかもしれない。
「迎えに来てもらうよう、家に連絡するから。しばらく寝てなさい」
おばさん先生は保健室から出て行った。
保健室には私一人しかいなかった。シュンシュンとストーブの上でやかんのお湯が沸いている。机の上には、おばさん先生が読んでいる雑誌が広げてあった。確か、あのころ人気があった歌手の記事だった気がする。週刊誌だったのかな。
窓からは、男子が走っている姿が見える。先生の「ラスト一周!」という声が聞こえた。
私は一番端のベッドに横たわった。
あーあ。吐いたの、みんなに知られちゃうんだろうな。男子に、もっといじめられるんだ。バイキン扱いされるかもしれない。
二年生のとき、クラスで吐いちゃった丹羽さん、ゲロってあだ名をつけられて、しばらく学校に来なかったよね。さっき、一年生にも顔を覚えられたかもしれない。私、全校みんなからいじめられるのかな。ゲロって言われて。どうしよう。どうしよう。
涙が出てきた。でも、きっと、おばさん先生に見つかったら怒られる。シーツを濡らすなって怒られる。私はこぼれ落ちる涙を体操着の袖口で拭った。
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