第2章 静かの海へ ④美咲、歩き出す

 私は、車にもたれかかっていた。

 お腹が重くて、さすがに砂には腰を下ろせない。

 隼人は、寒いから車の中で待ってろって、言ってるけど。

 この潮風。故郷の潮風。10年前は、この海に別れを告げることもできなかったんだ。

 次にいつ来られるか分からないから、忘れないように、うんと潮風を吸っておこう。赤ちゃんの胎教にもいいかもしれないし。

 潮風で髪が乱れたから、サイドミラーを見ながら整える。そこには、いつもより念入りにメイクしている自分が映っている。

 メイクをすると、私でも、ちょっとはマシに見えるかな? 今日はちゃんと眉毛も整えてるし。

 相変わらずメイクは下手で、出かけるときにママが直してくれた。さすがに、今日は隼人の恩人に会うのに、ヘンなメイクはしてられない。チークも軽くつけて、いつもと違う感じの、ちょっぴり大人な自分。


 初めて化粧をしたのはいつだったかな。

 短大の入試のときだったかも。

 ママから、ファンデーションと口紅を渡されて、見よう見まねでファンデーションを塗り、紅を引いてみた。

 鏡で8年前より大人になった私を見たとたん、なぜか後ろめたい気分になった。

 一人だけ、おしゃれしちゃって。

 みんな、生きたかったのに。

 みんな、大人になっておしゃれもしたかったのに。 

 きっと、麻耶ちゃんが生きていたら、今頃きれいになってたんだろうな。メイクをしたらもっときれいになって、男の子から絶対にモテてた。

 私なんて、この6年間は自分の体を痛めつけていただけ。ムダに生きてきちゃった……。

 私は鏡から目をそむけた。

 似合わないメイク。完全に浮いてる。こんな顔で人前に出たくないや。

 結局、メイクを落とし、リップクリームだけを塗った。


 摂食障害で中学校を休みがちだった私は、受験勉強もまともにできず、高校は県内で最低レベルの女子校にかろうじて入った。

 小学校のときは生徒会の役員まで務めたのに。転落するのはあっという間だったな。

 その学校は、落ちこぼれの吹き溜まりって感じだった。

 みんな髪を染めてたし、派手なメイクも当たり前で、下着が見えそうなほどスカートを短くしてる子ばっかりだった。私が普通にスカートはいてると、「はあ? 何、この子」って感じで見られたっけ。援助交際とか平気でする人ばっかで、教師とつきあってる子もいた。そう、教師も最低な人ばっかだったな。

 授業はつまんなくて、みんな授業中は寝ていた。

 こんなところで、3年間も過ごすなんて。

 私は入学して一週間で絶望的な気分になった。学校に行くのがイヤになり、あっという間に不登校になった。最初は、学校に行くフリをして公園やマックで時間をつぶしてたんだけど、それも面倒になって、家から出なくなってしまった。

 朝、私の部屋の前で、優海とママが、

「お姉ちゃん、どうして学校に行かないの?」

「お姉ちゃんはね、具合が悪いみたいよ」

「でも、ずっと学校行ってないよね」

 と会話しているのが聞こえてくる。

 私は布団を頭からかぶり、聞こえないフリをした。

 ママもパパも、腫れ物に触わるように私に接した。

「やっぱり、津波の後遺症なのかしら」って、夜中にママがパパと話しているのを聞いた。ママは泣いているみたいだった。

 こんなにママやパパを苦しめるなんて。

 やっぱり、私なんて、いないほうがよかったんだ。あの津波で死んじゃったほうがよかったんだ。

 そう思って、幾晩も泣いた。数え切れないぐらい泣いた。


 どうしたら、こんな苦しい人生から抜け出せるんだろう。

 どうしたら、この痛みから解放されるんだろう。

 思い余った私は、とうとうやってしまったんだ、リストカットを。

 自分の手首を切ってみた日のことは、よく覚えている。

 怖かった。自分で自分の手首を切るなんて、ホント、怖かった。

 手首にかみそりを当てても、それだけで怖くて、切るなんて出来ない。

 でも、目をつぶって、ちょっとだけ引いてみた。とたんに、思ってたより勢いよく血が噴き出した。

「わっ、わっ」

 私は慌てて手首を押さえながらキッチンに飛んで行き、「どうしよ、血が、血が」と騒いだ。ママは私の手首を見て、さっと顔色を変えた。タオルで押さえながら、すぐに近くの病院に連れて行ってくれた。

 そこは小児科だったんだけど、お医者さんは何も言わずに治療してくれた。私はブルブル震えてるし、ママも動揺してるし、断れなかったのかもしれない。

 血はたくさん出たけれど、縫わなくて済んだ。

 ママは治療の最中に泣き出して、年配の看護士さんに「お母さん、しっかりなさってください」とたしなめられていた。

 治療が終わった後、お医者さんとママはしばらく話をしていた。

 待合室で待っている間、そこにいた子供達は、容赦なく好奇心いっぱいの目を私に投げかけてきた。

「ここは子供だけなのに、なんで大人のお姉さんがいるの? ねえ、なんで?」なんて、お母さんに聞く子がいて、お母さんは答えに困っていた。

 そのときは半袖を着ていたから、余計に手首に巻いた包帯は目立った。何が起きたのか、大人たちにはすぐに分かったと思う。

 私は壁にもたれて立っていたんだけど、そばにいたお婆さん(多分、孫をつれてきた)が、「お姉さん、ここに座りなさい」と隣の席に招いてくれた。

「お姉さん、痛くない? 大丈夫?」

 お婆さんの隣に座っていた男の子が、心配そうに尋ねる。

「うん」

 私は短く答えた。

「どうしたの? ケガしたの?」

 男の子がさらに聞いてくるのを、お婆さんは「赤石先生に治してもらったんだって。よかったねえ」と、さりげなく話をそらした。

「人生、色々あるからねえ」

 ポツリと言ったお婆さんのその一言。思わず涙が零れ落ちた。

 家に帰ってから、ママは泣きながら私を責めた。

「何が不満なの? 言ってくれなきゃ分からないじゃない。ママもパパも、あなたの力になりたいって思ってるのに。心配してるってこと、どうして分かってくれないの?」

「……」

「せっかく助かった命なのに。どうして粗末にするの? 麻耶ちゃんたちだって、みんな生きたかったのに、死ぬしかなかったんだよ? あなたは、その分も生きなきゃいけないのに、こんなことをして恥ずかしくないの?」

「……」

「ママとパパがあなたを見つけたとき、どれだけ嬉しかったか、あなたには分からないでしょ。あちこちの避難所を回って、でも見つからないから、死んでるかもしれないって、怖くて怖くて。見つかったとき、どれだけ喜んだと思う? それなのに、こんなことして。こんなことをっ」

 ママはワーワー泣きながら、責め立てた。

 私も泣いた。ママと一緒に泣いた。

 もし、私が死んだら、ママとパパはどれだけ悲しむんだろう。

 誰も悲しまないって思ってたけど、違ってた。少なくとも、ママとパパは悲しむ(優海はビミョーだけど)。

 それに気づいたとき、死ぬのだけはやめようって気持ちになった。


 それから私は高校を中退し、バイトをしながら通信講座で高卒認定を受けた。

 大学から、自分の人生をやりなおそう。

 ようやく、前向きな気持ちが芽生えたんだ。

 そのころ、私に残ったのは拒食症と過食症の繰り返しでボロボロになった肌や髪、不ぞろいの歯、あばらが浮き出た体。女らしさのかけらもない体だった。でも、これで生きてくしかない。

 私は、少しずつ、ありのままの自分を受け入れ始めていた。





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