第1話 グレムリンレポート

プロローグ

「黙って着いてきなさい」


 二十代前半の日本人の女が少女に命令し、研究所と思わしき施設の廊下を歩く。実験室や事務室の電気はすでに落ちており、窓から漏れてくる外界の光が頼りなくあるのみだ。


 どこへ行くの。お母さんは? といった疑問を飲み込み少女はついていく。少女の持つプラチナブロンドの髪は薄暗い空間の中で際立つ。


 青い瞳に映るのは目の前を早足で歩く女の背中、消防のために取り付けられた赤いランプ、非常を示すための緑に光る標識だ。


 非常用電源の稼働が本格的に始まったのか、停止していた機械が動き出し、唸り声を響かせる。


 女は非常口の扉を開けると、外にむき出しになった階段を少女の手を引きながら下りていく。


 巨大な低気圧は颶風を運び、折れそうなほどに激しく揺すられた木々の葉が擦れ合う音が光一つない空へと不気味に響く。高速で動く雲と共に湿った世界の匂いが運ばれてくる。


 錆びた階段に雨粒が打ち付けられる。


 女が待ち望んだ台風ではあったが、これからの方途を思うといらだちを抑えずにはいられなかった。


 風にもてあそばれる髪をかき上げる。


「滑るから気を付けて」


 女が少女に告げてから、階段を降り始める。


 階段を下りてからしばらく、駐車場まで進んだところで、施設内に明かりがともり始めた。


 就寝中の職員達には緊急の連絡が伝わり始めたころだろうか。

 少女を赤色の軽自動車の助手席へと乗せてから、エンジンをかけギアをドライブに入れ、アクセルを踏む。


 街灯一つない、枝葉の飛び交う山中の道を進んでいく。窓に打ち付けられる雨の多さに、ワイパーがほとんど意味をなさない。事故を起こした時点で全てがとん挫する。女は冷静な思考を働けせる一方で、アクセルをより強く踏んだ。


「後ろにタオルがあるから」


 風邪をひかれると面倒だと思い、濡れた髪と体を拭くように促した。少女は二枚あったタオルの一枚を使い、もう一枚を女へと渡した。


「ありがとう」


 女は受け取ったタオルを首にかけ、顔だけを拭いた。


「お母さんは?」


 車が山中を抜けたところで少女はようやく一番の懸案を口にする。


「こないわ」


 いらだちを抑えきれる声で女は答えた。それは少女に対するいら立ちではなかったのだが、嵐と母親がいないことへの不安を募らせる子供を怯えさせるには十分だった。


「後から来るんですか?」


「こないわ!」


「じゃあ、私も、戻ります」


 冷えた体のためか、はたまた怯えのためか、声は震えていたが、少女ははっきりと告げた。


「無理よッ!」


 今度は正真正銘、少女に対する苛立ちであった。


「いい!? よく聞きなさい。あなたの母親はねっ! あなたを助けるために犠牲になるのよッ!」


 完全に委縮した少女は、それ以上の疑問を口にすることができなかった。


「ご、ごめん、なさい」


 しばらくの沈黙の間、女が考えていたのは少女の母親の事と、自らの上司のことだった。


 あの男を止めるためとはいえ、少女には酷なことをしている。冷静な思考を取り戻した女は、憐憫と申し訳なさを感じる。


「あなたがこれから向かうところはね」


 ぽつぽつと語りだす。


「人間とそれ以外が、仲良く暮らす家よ」


 うつむいたままの少女は何の反応も返さない。


 元々、少女を引き渡すつもりだった男を調査しに行った折に見た、怪異と人間がまるで家族のようにふるまっていた様を思い出しながら告げた。


 お前がそれを口にするのか。それを良き事のように語るのか。と苦笑が漏れた。


 市街地を抜けると再び斜面を登り始める。視界に入る建造物から騒がしさが薄れてゆき、果樹園や民家の割合が多くなってくる。


 目的地まであと少しのところで女は念を押すように、もう一度少女へ告げる。


「いい? あなたの母親はあなたの自由と引き換えにあの場所に残るの」


 赤信号にぶつかった自動車は徐々に減速し、止まる。


「だから、戻ってきては駄目。あなた一人、で来ても、また捕まるのは目に見えてるんだから」


 そう、一人で戻ってこられても困るのだ。一人では。

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