エアコン6

「はるくん! やーくん!」


 僕らが出てくるのを待ちきれずに家に上がってしまったみのりちゃんは玄関から続く縁側を備えた廊下で僕らを見つけると走りながら飛びついてくる。


「こんにちは。みのりちゃん」


「ご無沙汰ですかなあ」


 六歳の少女を受けて止め、その衝撃が日に日に強くなることを感じて、また少し大きくなったのかなと、温かい気持ちになる。


「ごぶさた!」


 新井少年の妙な言葉遣いがお気に入りなのか、ごぶさたと繰り返した彼女は嬉しそうに「えへへ」と笑う。


「こら、みのり。変な挨拶しないの。靴そろえたの?」


「あっ!」


 続いてやってきた穂乃果さんに注意されると、みのりちゃんはパタパタと玄関のほうに戻ってく。


「変な挨拶だってさ」


「むむ……」


 穂乃果さんという強力な追い風を得て挨拶の奇異さを指摘する僕に対し、新井少年はただ唸る。


「元気にしてた?」


 毛先を少し巻いたミディアムショートの髪型の、すこし小柄で朗らかな顔つきの女性。小林穂乃果。先ほどの少女、みのりちゃんの母親にして、我らが担任小林康作の奥さんでもあるその人だ。


「はるくん。また少し背が伸びたんじゃない?」


「穂乃果さん。それ先月会ったときも言ってたよ」


 谷渡晴人だからはるくん。僕のほうが大きくなってから彼女はしょっちゅう同じことを言う。


「やーくんは相変わらず暑そうな髪型してるね。今度お姉さんが切ってあげようか?」


 新井弥朔だからやーくん。


「切ってもらいなよ。やーくん」


「遠慮しますかあ!」


 新井少年はブンブンと両手を素早く振り、上半身を反るようにして否定の意を表す。まだ十歳に満たないころ。彼女に一度だけ髪を切ってもらった僕らは、もう二度と彼女に髪を切らせまいと固く誓った。僕ら二人は彼女の魔の手からみのりちゃんを守るべく日々奮闘していた。


「くつ! そろえてきた!」


 パタパタと戻ってきたみのりちゃんは、今度は新井少年に飛びつく。えらいですなあと、頭をなでられて、くすぐったそうに笑っている。


「それであなたが風花さんね?」


 輪に入れず、居心地が悪そうにしていた雪村さんに、穂乃果さんが笑顔で話しかける。


「こんにちは雪村風花です」


 雪村さんがペコリとお辞儀をすると、太ももに添えられた手が膝近くまで滑る。


「小林穂乃果です。こんなかわいい子、はるくんも隅に置けないなぁ」


 妙に誇らしげな顔で僕を見る穂乃果さんに、


「いや、そういうんじゃないから」


妙な勘繰りはやめろと視線を返す。


「はじめまして! こばやしみのりです!」


 新井少年にリリースされた穂乃果ちゃんは雪村さんの腰辺りにある頭をぴょんぴょんさせながら、あいさつする。


 雪村さんはみのりちゃんに顔を近づけるように膝を折り挨拶をする。


「初めまして、みのりちゃん。雪村風花です」


「じゃあふうちゃんだ!」


 みのりちゃんは雪村さんが気に入ったのか、その腰辺りに抱き着き、甘えるように顔をおしつける。


 僕が未だに苗字さん付けという他人らしさ満載の呼びかけを越えられずにいるというのに、いきなりあだ名とは。これが若さ……。いや、コミュ力か。いや、若さゆえの恐れの無さからくるコミュ力か?


「あ、いいね。ふうちゃん」


 穂乃果さんも気に入ったらしく、ふうちゃん。ふうちゃん。と、雪村さんの頭をなでる。雪村さんは両手のこぶしで鼻と口元を隠し、妙に落ち着かなそうにしていた。


「康兄と裕兄はもうすぐ来ますかなあ?」


 若さとコミュ力の相関性について僕が頭を悩ませていると、新井少年がまだ到着していない二人の所在を、雪村さんを撫でる穂乃果さんに尋ねる。


「こうくんはさっき学校を出たって言ってたからもうすぐだと思う。ゆうくんは実家のほうから来るって言ってたから……」


 穂乃果さんが言い終わる前に、軒先でバイクの止まった音がする。おそらく裕兄の原付だろう。


「あ、来たみたい。てゆうか、ふうちゃんの髪の毛さらっさら」






「かんぱい!」


『乾杯』


 みのりちゃんの乾杯という掛け声に続いて、雪村さんを歓迎するための音を各々が手に持ったグラスがぶつかり合い、奏でる。


 各々がごくごくと喉を鳴らして注がれた飲み物を飲む中で、右隣の光景が目に留まる。


「あ、裕兄。ビール飲んでる」


「普通だよ普通」


「未成年でしょ」


「ばーか。大学生なんてそんなもんだよ。問題起こさなきゃいんだよ」


 ついこの前まで同じ高校の制服に袖を通していたというのに、なんだか少しだけ距離を離されたような気がする。


 ちらりと康兄のほうを確認するとやはり、旨そうにビールを飲んでた。康兄の正面にいる新井少年はビールに手を伸ばそうとして、その手を叩かれていた。その横でみのりちゃんは貪るようにカレーライスを食べている。


「ビールっておいしいの?」


 以前こっそり飲んだ時、すごく苦くて大人はなぜこれを旨そうに飲むのかと疑問に思った。


「うーん。一杯目は旨いな。あとは惰性で飲む感じ」


「苦くない?」


「喉で飲むんだよ。喉で。喉ごしって言うだろ?」


「あー、コーラを味あわずに飲む、感じ?」


「近いような。遠いような……」


 なんつーのかなぁ。と裕兄が伝えるための言葉を思案していると、


「あ、ゆうくん。はるくんたちの前だから大人ぶってる。聞いて聞いて、はるくん。一昨日なんてゆうくんね」


 机の向かい側に座る穂乃果さんが話し出す。


「だーっ! あれは義姉さんが強すぎるんだって!」


 一昨日酒がらみの失態を犯したらしい裕兄は、自らの恥を隠すべく義理の姉の言葉を遮る。


「えぇー。だってゆうくんが」


「風花ちゃん、改めまして。小林裕作です。一応こいつらの兄貴みたいなもんです」


「あ、逃げた」


「逃げたね」


 勝勢無しと見たのか、話題をそらすべく裕兄は雪村さんに本日二度目の挨拶をする。


「先週から谷渡さんのとこでお世話になっています。雪村風花です。よろしくお願い

します」


「え、何お前ら。苗字でさん付けなの?」


 ぽかんとした、裕兄に穂乃果さんが追従する。


「それ私も思ってたんだよね。やっぱほら呼び方って大事だよ」


 親しい人をあだ名で呼ぶ穂乃果さんは、どうやら呼び方に対して少なからずこだわりがあるらしい。クラスの中で女子との距離を詰めることが上手いと一目置かれる中島が、いきなり下の名前で呼び始めることの重要性について説いていたことを思い出す。


「ふうちゃんも。はるくんは異性相手にはダメダメだったんだから。ふうちゃんから距離をつめてかないと」


 し、失礼な。


「あーたしかに。晴人はなぁ」


失礼な!


「え? あ、ええ?」


 二人に視線を向けられた雪村さんは、あわあわと、僕ら三人の顔を交互に見る。そこへ


「ふうちゃん! たべさせてあげる!」


 みのりちゃんがやってきた。


 騒がしいほうへ、騒がしいほうへ。


 子供特有の走騒性とでも言おうか、常ににぎやかなほうへ行こうとするみのりちゃんはどうやら新井少年と康兄の会話がお気に召さなかったらしく、箸で挟んだ唐揚げを雪村さんの口元に持っていく。彼女は少し面食らい、みのりちゃんの「あーん」という声に促されるように口を開ける。


 なにそれ羨ましい。


「みのり箸使うの上手くなったなぁ」


「小学生だもん」


 しみじみとつぶやく裕兄に、みのりちゃんがえっへんと、胸を張る。つられてみんなが笑うと、みのりちゃんは不満そうにほほを膨らませた。雪村さんも嬉しそうに笑っていた。


 宴会は続く。


 雪村さんの笑う姿が笑顔の幻影を上書きしていく。


 よかったですなあ、と言った新井少年の言葉が再び頭の中で繰り返された。


 屋外から聞こえる虫たちの合唱がみんなの笑い声に重なる。本のページをまくる音が響くほどの静けさは、もうこの家に存在していなかった。

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