エアコン3
また来ますかあ。そう残して新井少年は去っていった訳だけど、いきなりの同居がうまくいくはずもなかった。他人との共同生活の経験なんて当然の様に無い僕、さらに妖怪と人間の同居なのだから、尚の事だ。
暦の上でも八月に入り、その暑さもますます暴力的なものとなってきた。天気予報でも、台風の事が騒がれはじめ、空はますますその青さを深いものとする。照り返す日差しは日に日にきつくなり、今日が頂点だろう、そう思っていても次の日はさらに暑くなる。まさしく八月の入りと言った風であった。あれ以来、新井少年からの連絡はない。というか、そもそもこちらからの連絡もつかなかった。何という無責任な男であろうか。
ひんやりとした室内には、紙のまくられる音と外から聞こえるアブラゼミの声だけがある。この一週間とすこしで、もはやお決まりの状況だ。ただ無言で本を読み続ける。
気まずいなあ……。
目の前の少女は静かの本を読んでいる。細く、白い指が少しずつページをまくる。さっき覗き見たときに確認した一頁にちりばめられた文字の量から、誰かの詩集だろうかと見当をつける。
一週間、常に疑問としては頭に引っかかっていたが、とうとう聞けなかったことがある。
この子の家族はどうしているのだろう。どういう経緯でうちに来ることになったか。そう、彼女についての事情を、僕は何一つ知らないのだ。
「あのさ」
「あのっ」
勇気ある、行動の結果は相殺。あまりに無情な現実に、ただ、セミの声だけが響く。
「お先にどうぞ」
「いえ、大丈夫です。谷渡さんの方こそどうぞ……」
「いや、僕も大丈夫」
何一つ大丈夫では無かった。
雪村さんは立ち上がり、台所の方へと歩いていく。少しだけ部屋の冷え具合が弱くなる。
再び、読みかけの文庫本へと目を落とす。
セミたちの合唱の中に紙がまくられる音だけがある。
新井少年と連絡がついたら聞かなければ行けないことが多すぎる。彼女の事情。新井少年の考え。そうして彼女のこれからについて。新井少年にすべて聞けたら楽なんだけどなあ、と思う一方で新井少年に聞くべきではないのだろうとも思う。そもそもあの男は、あれでいて実は他人思いなのだ。本当に伝えなければならないことはきちんと伝える。
新井少年が伝えてこなかったということはつまり……。
「ひいっ!」と、悲鳴が台所の方から響いてきて、思考は中断された。つづいて伝わってくるのは、圧倒的な冷気。
このまま夏が終わるのではないか、冗談抜きでそう思えるほどのそれは、冷たさと言うよりも、もはや痛みであった。
またか……。この一週間でもう、何度目になるかわからない、局所的な家庭内氷結現象に思わず、ため息をついてしまう。
一度目は風呂場。二度目はトイレで鉢合わせてしまったとき、これについては鍵をかけていなかった僕に非がある。つまりあられもない姿を見られたのは僕である。三度目は夜中、の廊下で鉢合わせて。それ以降はもう数えるのをやめた。嘘です、本当は全部で八回でした。
どうやら彼女は感情の波が高くなると、意図せず冷気が漏れ出してしまうようだ。
なにそれこわい。
台所へと足を運ぶと、雪村さんは「あああ」と音を漏らしていた。
「た、谷渡さん。ま、またわたしはっ」
彼女は何かを言いかけたまま、足を滑らし、お尻から氷へと落ちる。鈍い音が鳴ると同時に、少女の顔が苦痛に歪む。
「痛い……」
「あー、だいじょうぶ?」
「わ、わたし、また、やっちゃって。すいませ……」
今度は何があったのか、と台所を見回すと、ちょうど彼女の足元であった場所に凍り付いたゴキブリが一匹。僕はすべてを察した。
「麦茶をいれようと思って……」
そう落ち込む雪村さんの傍らには割れたコップの底が二つ。
(僕の分もいれてくれようとしたのか……)
「すいません。すぐ片付けますね」
彼女が割れたガラスへと手を伸ばす。何かにおびえるように俯き、小さくなる彼女の姿はなんだか見ていられないようであった。
「ああ、僕がやるからいいよ」
「いえ、でも……」
申し訳なさそうな顔で、暗に自分が片付けると主張する。
「いいって。お客さんに怪我でもされたら困るから。ね?」
それを聞くと少女の視線はますます低くなり、背中もますます小さくなる。
「ゴキブリ……」
「うっ」
「ゴキブリも片づけてもらうことにするけど」
「ゴ、ゴキ……。む、虫くらい平気です」
声をひきつらせながら、氷結ゴキブリに目を向けると、その顔まで引きつってくる。
「じゃあ、箒とちり取りを持ってきて。玄関のところにあるから」
「わ、わかりました」
パタパタと玄関の方へ駆けていく背中を見送った後、ゴキブリの足をつまみ上げ窓を開け放り投げる。
敬語、ぬけないなぁ……。
居候と言うのは僕の思っている以上に気を使うものなのだろうか。きっとそうなのだろう。一週間前の甘い考えを捨てなければならない。自分が少女だったとして、見知らぬ少年のもとに居候になった時の事を考えてみる。もはや僕が雪村さんだったらと考えてみる。クソ暑い中、微妙に傾斜のある土地にある、少し広いだけが取り柄の古い家へと連れてこられる。同伴者は妖怪で、いや本人が妖怪か。とにかく見知らぬ陰気がかった男の下で居候を命じられる。 おそらく居候先を紹介? 提供? したであろうしたであろう少年はさらに不気味だ。
最悪だ。初日の想像だけで寒気が走るほどだ。わけがわからない。というか雪村さんの事を知らなすぎる。
そうか! 対話だ! まず対話が必要なのだ。人類の道との邂逅は常に争いの末の対話と言う構図で成り立っている。はて、その理屈で行くとまずは争いが必要なのではないだろうか。これは在りし日の僕と新井少年のように拳で語り合う必要があるのではないか? だめだその先に待ち受けているのは永遠の闘争だ。ソースは僕と新井少年。
うーん、どうしたもんかと唸っていると箒と塵取りを持った雪村さんが戻ってきて、硝子を片付け始める。
やっぱり、対話か。世界はコミュニケーションで成り立っている。対話の為には何が必要か。それは歩み寄りだ。もろ手を挙げて、どこまでも無防備に歩み寄ろう。一瞬もろ手を挙げた僕が銃で撃たれる瞬間が想像できたが、気のせいだ。
「…………た」
やっぱり雪村さんだと硬いかな。
「…………したよ」
ここは親しみを込めて風花ちゃん? いややっぱり風ちゃんか。大穴で雪ぽん、とか村ぽん、なんてのもある。いや、ねーよ。
「谷渡さん!」
「ん? どうしたの?」
「片づけが終わりました。本当にごめんなさい」
彼女は、がっくりと項垂れ再び謝罪した後、「箒戻してきますね」と残しとぼとぼと歩いて行った。
網膜にじんわりと焼き付いた、すっかり俯いてしまった彼女の残像は、僕の胸に対してやるせなさを残しながら少しずつ薄れてゆく。
うーん。どうしたものか……。
癪なことではあるが新井少年に相談してみるか。
薄れ切ったイメージの最後に僅かに弾けたのは、まだ見ぬ彼女の笑顔であった。
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「というわけなんだけど、どう思う」
『夜分遅くに何かと思えばそんなことですかあ』
はぁ、と電話越しにわざとらしく溜息を響かせてくる。
『あなたは救いようがないほど愚かですなあ』
「君には負けるよ」
『そもそもあなたは、弩がつくほどの口下手なのですから会話だけで打ち解けられるはずがないでしょう』
「そ、そうかい?」
おかしいな。少なくとも今話しているこの男よりは一般的な会話スキルを所有しているはずである。
『ええ、そうですとも』
「じゃあ、どうしろっていうのさ」
『漢なら背中で語ってなんぼのもんじゃい』
「え? なんだって?」
受話器の向こうの男がのたまうとは思えない言葉に思わず聞き返す。
『父の言葉です』
「ああ、なるほど」
『つまりそうゆうことですかなあ』
「どうゆうこと?」
『あなたのような人間は言葉よりも行動で示すべしという説法ですかなあ』
「ブーメランという言葉は置いておくと、たしかに小父さんの言いそうなことだなぁ」
『ここから先は自分で考えてくださるかあ』
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