第0話 エアコン設置のあれこれについて

エアコン破壊の友人A

「あっつ……」

 

 春先は快適であった窓際の机に溶けるように覆いかぶさり、容赦なく差し込む日差しから少しでも逃れようと廊下側へと顔を向ける。


 汗で背中に張り付いたワイシャツはひんやりとしており一周回って心地が良い。

 気化熱万歳。


 黒板前では担任の教師が夏休みに当たっての注意事項について話しているが、教室内の空気は長期休み前特有の浮足立ち方をしており、誰一人としてその内容は耳に入っていない様に思われる。


 この場において唯一厳粛であらねばならない担任の彼も浮足立っているように見えるのが救えない。彼、小林康作はこの夏、六歳になった長女を初めて海に連れていくのだと、楽しそうに笑っていた。この前ショッピングモールに行ったときに担任が娘を連れているのを見たが、あいかわらずの元気溌剌さだった。


 もう一人いた朗らかな女性が彼の奥さん。クソ真面目を絵に描いたような彼と朗らかな彼女はとてもあっている。娘を挟んで手をつなぐ姿は、幸せな仲良し家族といった風であり、その光景は和みがあるとともに、少しだけ僕の胸に寂しさを運んだ。


「きりぃつ! れいっ」


 脳内で、絵にかいたような幸せ家族のことを思い出しているうちに一学期最後のホームルームが終わりを告げたらしく、お調子者クラス委員長の号令が教室内に響く。


 僕を含め、だらだらと注意事項を聞き流していた面々もその号令に反射的に起立礼を遂行する。もはや脊髄が覚えているこの習慣。よく訓練された集団である。


「おーい。谷渡氏。谷渡氏」


 学友である新井少年がなにやらうれしそうな顔でこちらに近づいてくる。写真部である彼の右肩から下げられたカメラのレンズが太陽を映しチラリと輝く。

 ちなみに新井少年と言うのは彼、新井弥朔(あらいやさく)のあだ名である。小学校五年のときに僕がこちらに越してきてからの付き合いでその頃から新井少年であった。以来五年間連続で同じクラスであり、ただいま六年目と記録更新中。誠に遺憾ながら腐れ縁。


 名前で呼ばれるのが嫌い、と言うよりは苗字で呼ばれるのを好む質のようだ。入学式の日に新井少年と呼んでいただきたいなどと、自己紹介でのたまっていた。自ら少年を名乗るやつに碌な人間はいないと思う。


「なんだい。新井少年」


 クラスの各々が今日この後の予定を話しながら教室を出ていく中、僕は一人学級日誌をつけていた。というかもう一人の日直どこいった。


「今日この後、谷渡氏のご自宅にお邪魔したい」


「なんで?」


「長期休暇に向けてお借りしたい本がありましてなあ」


 はて、何の本だろうか。新井少年の好みそうな本はうちには無かったと思うが……。


「まあ、それなら……」


「では、すぐにでも行きましょう。昼食はそちらでいただくとしましょう」


 とんだ少年がいたものである。本を借りるだけでは飽き足らず、昼食までたかろうと言うのか。


「なんてやつだ」


「冗談である」


「本当は?」


「あわよくば」


 夏休みは長い。新井少年の作為的に切りそろえられた前髪もしばらく拝まなくなるだろう。昼食ぐらいご馳走しても良いかもしれない。


「ちょっと待ってて。日誌だしてくるよ」


「そういうことなら自分もいきますかあ」


「いいよ。玄関にいて」


 小学生じゃないんだから、わざわざついてきてもらうほどの事じゃない。


「いえ、自分も日直でありますから」


 お前か。


 まじかこいつ、と思いながら新井少年の顔をまじまじと見つめていると、その隙に新井少年は空いている方の日直名記入欄にひょいひょいと自分の名前を書いていく。


「さ、行くでありますか」


 さっと、日誌を手に取ると新井少年は歩き出す。


「やっぱ昼食は君が準備しなよ」


「なぜに?」


 夏休み前だからだろうか。妙にご機嫌な新井少年の前髪が、ふさりふさりと、軽やかに跳ねる。クソ暑い中汗玉一つつくらない様はなんとも憎らしく妖怪じみている。


 もう一度窓の外に目を向ける。


 降り注ぐ夏の光線に照らされた深緑は喜んでいるかのように輝き、それは夏が小躍りしているかの光景だ。町中に響くセミたちの合唱が夏を加速させていくようだった。



「お邪魔しますかあ」


 家主である僕の許しを得ることなく、新井少年は玄関の戸をガラガラと横に滑らす。


「じゃあ、客間で待っててよ」


「承った」


 この自宅において唯一のエアコンの存在する場所で待っているように指示し、僕は昼食の支度をするために台所へと向かう。客間と言っても客の尋ねて来ることなどないので、夏はもっぱら僕のオアシスとなっている。と言うか、夏は四六時中客間にいる。山腹の扇状地周辺に位置するこの町だが夏場は大変暑く、八月は最高気温が摂氏三十八度を超える日が続く。


 エアコンを使ってしていいと告げるのを忘れたと気付くが、新井少年ならば勝手につけるだろうと納得する。




「うわ、納豆しかないや」


 冷蔵庫の中をのぞくと、今朝炊いたご飯が三合ほど、賞味期限の切れた鶏卵に、納豆が二パックという荒野ぶりであった。昔、賞味期限の一か月切れた卵を食した折にサルモネラなる食中毒にやられてから、古い卵は食べないようにしている。


 男子レンジで温めたご飯と納豆をお盆に乗せて客間へと向かう。


「お待たせ」


 襖が空いていることに疑問を覚える。


 はて、彼はエアコンをつけなかったのだろうか。


 部屋の中を見ると、新井少年の姿が見えないのに気付く。


「新井しょうねーん。ご飯出来たよぉ!」


 呼びかけてしばらくすると、ガタガタと、玄関より騒々しい音がし新井少年が入ってくる。


 あわただしい割には、相変わらずのすまし顔だ。


「はやかったですなあ」


 そう言って、お盆の上に目線を落とすとしかめ面を作る。


「なんとも貧相ですなあ」


 とんでもない人間である。文句ばかりでなんとも嘆かわしい。


「いいから早く食べるよ」


 腰を下ろしてエアコンのリモコンに手を伸ばす。暑くて、とてもじゃないが寛げない。


 スイッチを押し、エアコンがついてからしばらくすると、その異変に気付く。


 冷風が出ない。


 エアコンの電源自体は入るのだが期待された働きをしてくれない。ただ生暖かい、というかもはや熱風が入ってくるばかりで何の役割も果たさない。


「あー。これは故障ですかあ」


「うわっ。参ったなあ」


 僕らは納豆を混ぜながらエアコンに目を向ける。顔を揺らした拍子に額から滑り落ちた汗が目に入る。新井少年は暑くないのだろうかと気にしてみると、奴は相変わらず気味が悪い程に涼し気だ。


「どれちょっと見てみますかあ」


 そう言って新井少年は、立ち上がると、重ねた座布団を踏み台にしエアコンへと手を伸ばす。


 その迷いのない仕草から、エアコン事情に明るいのかと、思わず感心してしまう。


「おおっと。やってしまいましたあ」


 新井少年は足元の座布団を吹っ飛ばすとそのまま床へと背中から落ちた。エアコンと共に。


 あまりにもわざとらしい行動に言葉を失う。こいつは何をしているんだ。


「いやあ、申し訳ない。谷渡氏」


 まったく申し訳なさそうに見えないニヤニヤした笑みを張り付けて新井少年は謝罪を口にした。


「いや、わざとだったよね?」


「なぜ! 私が友人の唯一のエアコンを進んで壊す理由がありますかあ!」

 えー。




 なんだかよくわからないが伝手があって新しいエアコンを用意できるとか何とかで、明日それを連れて午後一番に訪ねると残して新井少年は帰っていった。なんだかよくわからない。


 非常に意気揚々とした去り際であり、それは一年くらい前に到底一人では食べきれぬ程の非常食をうちにおいて行ったときくらいの浮かれようであった。あのときは半年くらい朝食が非常食になった。


 引っかかるのがエアコンを持ってくるではなく、連れてくると言っていたことだ。


 非常に不安だ。そしてこれは非常に残念なことなのだが……。


 僕の悪い予感はよく当たる。


 ちなみに新井少年は本なんて一冊も持って行かなかった。

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