ごめんね。
銀礫
ごめんね。
「ごめんね。」
こんな一言で、終わってしまうものなのか。
この苦しみは、そんな単純なことだったのか。
僕は、引きこもりだ。
正直そう認めたくはないのだが、それ以外に今の状況を的確に表現する言葉を、僕は知らない。
大学を出て、社会人になりそこねた僕は、実家にて再起のチャンスを虎視眈々と狙って……なんて言ったら、自分の状況を美化し過ぎだろうか。
実際は、自分でもよくわからない状況になっていた。
時が止まった……とでも言おうか。
現実から、自分だけ取り残されたような感覚。
この一年、いろんなことがあった。
同級生は、当然のように社会人となり、働いていた。数人、僕の家の近くに住んでいるやつもいて、たまに遊びに行ったりしたが、もう、住んでいる環境が違う、と感じた。
また、後輩ですら就職が決まった。自分の話をするのが恐ろしくて、どこに決まったなんて、そんな話はできなかった。
別の後輩が一人留年したらしいが、正直、大学生という肩書が残っているだけ、羨ましいとも思っていた。
どこにも吐き出せない、焦りだけが濃くなっていく。
それでも僕は、何をしたらいいのか分からなかった。
「何もしない」ことが、こんなにも辛いことだったなんて。
勿論、というか、やはり、というか、家族にはそれはもういろんなことを言われた。
好きにすればいい、とも、期限付きで待ってやる、とも、遠回しにちゃんと働こう、とも、病院に行こう、とも。泣き落としだってされた。
それでも、僕は動かなかった。動けなかった。動きたくなかった。
不思議なものだ。あれだけ、家族の前では優等生でいようと、ずっと思っていたのに。
そんなある日である。
とある資料を読んでいたら、今の自分にぴったりと当てはまりそうな語句を見つけた。
「反抗期」である。正確には、第二次反抗期。
思春期に起こる第二次反抗期は、自我の確立に伴うものであり、社会そのものへの反抗であり、反抗しようとする明確な意図を持っているもの、と書かれていた。
反抗なんて、とんでもない。そんな、迷惑しかかけないようなこと、してはいけない。……と、強く思い込んでいたのだろう。正直、自覚はなかったが、僕は、何かに、反抗している。そんな、気がした。
大学を出て、やっと、僕は、ちゃんと思春期をやれていることになる。
どうしてこうなった。
そりゃあ、ちゃんと思春期をやってこなかったからだろう。
どうして?
その原因の一つと思われるものが、いま、家に帰ってきている。
僕には、きょうだいがいる。少し年の離れた姉が、一人。
ストレートで大学に入り実家を出て、そのまま社会人となり、寿退社ののち、昨年出産した。
傍から見れば、順風満帆な人生に見える。そんなことはないのだろうが、今の僕と比べると、どうしても、嫉妬してしまいそうになる。
そんな姉だが、まだ実家にいたころは、それはもう酷いものだった。
それこそ、「反抗期」が。
その影響だろう。弟として、可愛がられた記憶がない。可愛がられた事実がないわけではないのだろう。ただ、そんなことより虐められていた記憶のほうが、濃く、まとわりついていた。
それはまさしく、見ていられないほど。
そして、ああはなるまいと、幼心に刻まれていたのだろう。
だから、僕に「反抗期」はなかった。
そんな恐ろしいこと、したくなかった。
その結果が引きこもりなのだから、まったく、救いがないったらない。
そんな姉が、いま、実家に帰ってきている。
旦那さんが数日間出張のため、家に幼い子供と二人だけでいるよりは、とのこと。
一週間ほどいるらしい。
姉の反抗期は終わっているのだろうが、僕に対する辛辣な態度は変わっていなかった。
ことあるごとに揚げ足取り、そして、否定。
とくに、この一年は酷いものだった。あくまで、僕の主観だが、チェーンソーで身を切り刻まれるような痛みがあった。
「まったく迷惑ばかりかけて」
「いつまでそんなことをしているつもりなの」
「頭おかしいんじゃないの」
おそらく、正しい。正論だ。
ただ、今の僕には、実に、理不尽に押し付けられた暴言にしか聞こえなかった。
ただでさえ辛かったこの時期に、それは、あんまりだと、思った。
そんな調子だから、当然のように避けていた。
引きこもりに磨きがかかり、じっと自分の部屋に閉じこもるようになった。
たった一週間。ここを耐え忍べば……。
でも、耐え忍んだ未来も、明るいものには思えなかった。
救いは、どこにあるのだろう。
そんなときである。
唐突に、部屋の扉がノックされた。
そして、断りも遠慮もなく、あの暴君が侵入してきた。
「ちょっといい?」
「だめ。」
自分でも驚くほどの超反応だった。
「なんで?」
突然の来訪に、部屋の中に吹雪が荒れ狂いはじめたように思えた。
ただ、そこに存在するというだけで、僕はすっかり萎縮してしまって、声を出すこともできなくなっていた。
「そんなずっと黙っていてさ、いつまで逃げるつもりなの。」
何も返せない。
何を返しても、跳ね返されるに決まっている。
「……まあいいけど。でもね、これだけは言わせてもらうけど、」
なにか二つほど忠告されたが、その内容は覚えていない。
そんな余裕はなかった。
怖い、怖い。
ただ、それだけ。
顔を見ることも、声をだすこともできない。
「……何が不満なの。」
諦めたかのように発せられたその言葉。
そして、長い、長い沈黙があった後、ようやく僕は声を出した。
「今、姉さんと、話をしたくない。」
「なんで。」
ふたたび沈黙。
「こわい、から。」
「何が。」
「いいから出ていけよ!!」
まるで、発作のような拒絶。
ここまで大声を出したのも、久々だ。
「そこまで言われたら逆に出ていかない。」
後ろ手で扉を閉められた。もう逃げ場はない。
蛇に睨まれた蛙、という言葉が当てはまるのだろうか。
少しずつ距離が詰められる。
すべての感覚が、麻痺し始める。吐き気すら起きない。
そして、おもむろに、両手が包み込まれた。
おおよそ血の通っているとは思っていなかった、その手によって。
「ごめんね。」
その手には、しっかりと血が通い、ほんのりと暖かかった。
「いままで、ずっといじめてきたこと、悪かったと思ってるよ。」
何を、言っている。
何故、何故。今更。
そんな、どうして。
やっと絞り出した返答は、少し反抗的な口調になった。
「……遅いよ。」
「そうだね。」
「なんで………いまさら、そんなこと言うのさ。」
相変わらず、その顔を見ることはできなかった。
それでも、たぶん、微笑んでいた、のだろうと、思う。
「そうだね……たぶん、母になったから、かな。」
その後、姉は自分の子がお昼寝から起きるだろうとのことで、あっけなく部屋から出ていった。
こんなもの、だったのだろうか。
この十数年間、ずっと恐怖し、あるいは憎んでいた感情は、たったひとことの謝罪でなくなるものなのだろうか。
そうは、思えなかった。
それでも、独裁者のような威圧感を感じることは、なくなった。
まるで、そんなものは最初からなかったかのように。
ずるいよ。
これじゃあ、僕が悪いみたいじゃないか。
勝手に恐怖して、それをいつまでもいつまでも引き摺って。
挙句の果てに、勝手に大人になった姉に謝らせて。
いや、悪いとか、悪くないとか、そういう次元ではない。
またしても、一歩先を行く姉に一本取られてしまったのだ。
僕ができていなかったことを、さも当たり前のように、見せつけられた。
相手と対等に向き合うということを。
自分自身とも対等に向き合うべきということを。
嗚呼、救いがない。
ここで悔い改めるしか、僕には道が残されていないのか。
それは、救い言うには程遠い、自分で患部を切り捨てるような、荒治療。
言い訳などという麻酔なんて無い。
どれだけ痛くても、自分でメスを入れなければならない。
ありのままの自分と対等に向き合うということ。
そして、それを許し、受け入れる。
その上で、前に向かって歩き始める。
試されるのは、すっかり忘れてしまった勇気。
凍った時を動かす、芯からの熱。
だがおそらく、これこそが、本当の「救い」。
救いは、僕の中にある。
三月も半ば。すこし、暖かくなってきた季節のこと。
新しい春は、すぐそこまで来ている。
ごめんね。 銀礫 @ginleki
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