第四章 鍋島のどか 17

 不安なのは、信じたいからなのか。

 自分の中で処理ができない色んな感情があって、だからこそ間違えて、傷つけて、嘘をついて騙したり裏切ったりしてしまうものなのか。


 いつも通りの学校。朝の昇降口。ぼんやりと靴を脱ぐ俺の横を、藤崎が通り過ぎていく。

「おはよう」

 なんて声をかけてくる藤崎に、俺は驚く。あまりにも気配がない。足音さえ聞き逃してしまうくらいだ。

 下駄箱に靴を突っ込みながら

「おはよう」

 と俺は言う。

「昨日、ちゃんと帰れた?」

 昨日?

 はて、と俺は思う。そして思い出す。そういえば俺、こいつから理科のノートを借りていた。

「うん。帰れた」

「それならいいんだけど。昨日、うちの前救急車通ったから」

 俺はドキッとする。こいつ、結構勘が鋭いな。

「帰れたんならいいや。ノート、後でいいから返して」

「ああ。ありがとうな。助かったよ」

「どうも」

 なんて言いながら教室への道のりを共にする。なんてことない会話をぽつりぽつりとしていると、藤崎が何かに気が付いたように鼻を鳴らした。それからふいに眉を顰め、口を開いた。

 「……なぁ、辰巳、お前……」

 なんて言いかけた藤崎と俺の前に壁みたいなライトが立ちはだかる。教室の前、ズボンのポケットに両手を突っ込み、鞄を持ったまま待ってましたとばかりに睨みを聞かせるライトは正直怖い。俺は思わず尻込みをする。つい藤崎の後ろに隠れそうになるが、薄情な藤崎はあっさり俺をライトに売った。

 ライトと対峙したまま先を行く藤崎の名前を叫ぶが、時すでに遅し、足の速い藤崎は幻影だけを残しさっさと教室に入っていく。忍者かよ。

 俺はぬりかべみたいに仁王立ちするライトに成す術もなく立ち尽くす。通り魔にでも遭遇した気分だ。向かい合ったまま微動だにしない俺達の横を同級生達がじろじろ通りすぎていく。もう、何人の生徒とすれ違ったことだろう。もういい加減胃が痛くなってきたところで、漸くライトが口を開いた。

「……なんで言わねぇんだよ」

「……は?」

 ぼそっと吐き捨てられたライトの言葉がうまく聞き取れず、阿保みたいな反応を示す俺。するとライトは眉を吊り上げ声を張った。

「だからっ! なんで俺に言わねぇんだよ! おばさん、体調悪かったんだろ!? それで昨日、救急車で運ばれたって、なんで俺に連絡しなかったんだよ!」

 ばしばしと地団太を踏みながらされるライトの主張に、俺は目を点にする。

「おばさんが体調悪くて心配だって、そんなこと相談くらいされれば、俺だって……そんで喧嘩したってうちの母さんに話したら、なんで力になってやらないんだって怒られたし!」

 もごもごと時折口を濁しながら当たり散らすライトの言葉を処理することに、俺は少し時間がかかる。心配? 誰か? ライトが、俺を?

「なんだよその顔! あのなぁ、俺が昨日、一体何回LINEしたと思ってんだよ! 三十回だよ三十回! 電話もしたし……家の電話にもしたけど誰も出ないし!」

「……らいん?」

「そう! すっげぇ連絡しただろ!」

 ブーブーと文句を垂れるライトに呆然とし、それからスマホの存在を思い出す。忘れていた。そういえば昨日、夕方理科室で見たきりだ。

「……ごめん」

 なんてぼやっとした謝罪をする俺に、ライトがまた地団太を踏む。

「ごめんじゃねーよ!」

 今日のライトはやたら元気だ。朝からこんな怒って叫んで疲れて途中で寝てしまうんじゃないかという的外れな心配をする一方で、もう一人の冷静な俺がぽろりと感想を漏らす。

「……心配、したのか」

「あ? 当たり前だろ! 心配したし不安だったわ!」

「……そうか」

「なんだよその態度! 俺の心配なんていらねぇっていう……」

 それまで大声で責め立てていたライトが、俺のことを見てぎょっとしたような表情をする。目が真ん丸だ。ずっと鬼みたいに怒っていたのに、あわあわと口を震わせている。

「おまっ、なんで泣いてるんだよっ」

 は?

 俺はそこで漸く、俺が泣いていることに気が付く。

 目の奥が熱い。頬が濡れている。俺は一生懸命涙を止めようとするのだけれど、活動を始めた涙腺はなかなか仕事をやめてくれない。拭っても拭っても噴水みたいに湧き出てくる。

「悪かったよっ、言いすぎたって、でもお前も悪いんだからなっ、わかった、わかったから泣くなって!」

 なんてわたわた慌てるライトが情けなくて面白くて滑稽で、けれど涙は止まらない。どうやら昨日一頻泣いて泣いて泣きまくったことで、俺の心の中にある弱い部分の螺子がかなり緩くなってしまっているらしい。でも、俺はわかる。理解する。これは悲しい涙じゃない。心の奥底に張られていた氷が解けて、そこからじわりと植物が顔を出し花を咲かせ始めるかのような涙だ。春の日の日差しのような、温かく優しい心地の良いものだ。

 けれどライトはそんなことを知らないから、俺が真美子の入院にショックを受けライトに責められて傷ついて泣いていると思っている。みんなもそうだ。喧嘩中の俺達がヒートアップしてライトが俺を泣かせたと思っている奴らが殆どだ。そんなことあるはずがないのに。

 廊下の真ん中公衆の面前で皆の視線を一身に集めながら泣く俺と慰めるライトは動物園のパンダみたいだ。そのうち明らかにクラスメイトですよというような奴らの声が聞こえてきて、ココアが突風みたいに走ってくる。

「テル君どうしたの!? 大丈夫!? ライト君、駄目だよ! いくら喧嘩してるからって暴力禁止!」

「暴力なんかしてねーって!」

 頭を抱えて叫ぶライトと説教をするココアの面白いこと面白いこと。廊下のど真ん中で公開コントを始める二人のことを泣き笑いで見ながら、俺は思う。俺は気が付く。

 信じていいのだ俺は。

 この、頼りなくてとんでもなく馬鹿な二人のことを信じてもいいのだ。

 まだ、信じられるのだ。

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