第四章 鍋島のどか 16

 

 のどかの軽自動車に乗り学校に向かう。

「よく眠れた?」

「はい」

「体調はどう?」

「まあまあです」

「宿題は?」

「……」

「冗談。それはあとでいいわ。余裕ができたら提出して」

「……はい」

 嘘と本当を混ぜながらのどかの質問に答えながら、助手席から外の世界を眺める。いい天気だ。ゴミ袋を持ったサラリーマンやスーツ姿のOLが欠伸をしながら歩いている。うちの中学校の生徒はいない。当たり前だ、かつてこの辺りは勅使河原中学校の学区内だったけれど、何年か前の区画整理で変わったのだ。

「……途中までは送ってあげるから、そこまでは歩いて行ってね。あなたは大切な生徒だけど、私の車に乗っていることを他の生徒に見られたら――その――あなたにとってよくないことになる可能性があるから」

 外を眺めたまま俺は頷く。大丈夫だ。俺だって、一年の間に二回も担任の不祥事に遭遇なんてしたくない。

「学校が終わったらお母さんの病院に行くでしょう?」

「……うん」

「そう。保険証とか忘れないでね。あとで私も行くつもりだけど、時間が合うとは限らないから」

「大丈夫だよそれくらい」

 あまりにも過保護なのどかに腹が立ち言い返す。するとのどかはくすりと笑い、アクセルを踏んだ。

「ならいいけど」

 のどかの運転は優しい。静かで、緩やかで、子守歌みたいだ。夕刻の漣にも等しい。荒々しい、危なっかしいと散々言われた≪鍋島浩之≫の運転とは全然違う。

「……お母さん、あなたのこと、とても心配をしているわ。あなたもお母さんのことが心配だと思うけど、でもそれ以上に、お母さんも心配してる」

「……」

「あなたがちゃんと学校に行って、ご飯を食べて、元気に毎日を過ごすことがお母さんを元気にさせる一番の栄養なの……早く、清水君とも仲直りしないとね」

 目の前に現れた信号が点灯し、赤になる。止まる車。サラリーマンと犬を連れた中年の主婦がゆっくりとした動作で目の前を移動していく。俺はそれを眺めながら、息を吐くようにぽつりと言った。

「……先生はさ」

「なぁに?」

「……裏切られたこととかある?」

 のどかの瞳が揺れるのがわかる。動揺を隠し教師の面を被ったまま、なんでもないような口調で言う。

「……清水君となにかあったの?」

 信号が変わり、青になる。ブレーキを踏みしめていたのどかの左足がアクセルに移動し、車が前進する。

「ライトとはなにもないよ。ただ、俺がちょっと」

 そう。ライトとはなにもない。俺がちょっと、信じられなくなっただけだ。

「……裏切られてたんだ。親友だと、大切な友達だと思ってた。もうずっとずっと会ってなくて――でも大事な友達だと思ってて――でも、裏切られてた。親友だと思ってたのは俺だけだった」

 知らなかった。

 あいつらがこそこそ会っていたことも、いつの間にかそういうことになっていたことも、何もかも知らなかった。信頼していた。信用してたんだ。こいつらは大丈夫だって、一生付き合っていけるって。

「人間て、そんな簡単に裏切れるのかって、こいつらもいつかは、って思ったら、もう、駄目で、辛くて、惨めで、嫌になって……」

 俺は怖い。再び誰かを信じて裏切られることが。信用していたはずの誰かに裏切られることが怖くて怖くてたまらない。

「……人間て、とてもずるい生き物なの。自分を守るために誰かを騙したり、裏切ってしまったり……そんなつもりはなくとも傷つけてしまったり、そういうことができてしまうものなの……悲しいものね。この人は、って思っても、意外と信用できないものよ……落ち込んでいるところを付け込まれて騙されたり、うっかり悪い道に連れ込まれたりね」

「……先生もあるのか、そういうのが」

「勿論。あなたと同じ、辛くて、悲しくて、どうしようもなくて、沢山八つ当たりして親に迷惑かけたりもしたわ……馬鹿な事したと思ってる。学生の時は仲良くても、暫く合わないうちに変わってしまったこともあるわ。あんなことやる子じゃなかったのに、ってね」

 ふふ、と自嘲気味に笑うのどかの腕が、ゆるりゆるりとハンドルを回す。

「……人間は変わるわ。歳を重ね、成長するごとに行動も考え方もどんどん変わる。いい方に変わるか悪い方に変わるかわからない。それこそ、十年後二十年後の付き合いなんて予測もできないわ。顔も忘れているかもしれない。でも」

 カンカンと鳴り始める踏切に、ブレーキを踏むのどかの足。降りてくる遮断機を眺めながら、のどかは続けた。

「あなたは信じたいんでしょう?」

 俺は何も言わない。頷かないし否定もしない。何の反応も示さない俺のことを横目で見て、のどかは言った。

「不安なのは信じたいから。怖いのは知らないからなの。それを乗り越えていくのは大変なのかもしれないけれど……大丈夫よ。あなたなら、きっと」

 猛スピードで通り過ぎていく列車。警報機が鳴りやんで、遮断機が上がる。再び動き出した車に身を任せながら、俺は目を閉じる。涙は出ない。そんなもの、とっくのとうに出し尽くした。不安なのは信じたいから。怖いのは知らないから。そうなのか。信じたいのか俺は。

 まだ、あいつらを、信じていいのか――


 誰に話そうと思ってもいなかった。この話を今このタイミングでのどかにしてしまったのはちょっとしたアクシデントみたいなものだ。そのくらい弱っていたのだ俺は。そして、誰に話そうとも思っていなかった大事な大事な俺の悩みを、この人に話そうと思う程度にはのどかのことを信頼していたのだ。

 ほんと、すごいな鍋島先生っていうのは。


 踏切を超え、無言のまま車を走らせ、のどかは駅前のロータリーに停車をした。

「大丈夫?」

 とのどかが言う。

「うん」

 と答える俺。これは建前。心は別の場所にある。

 そんな俺の本心を見透かし、のどかは、ぽん、と俺の心臓の辺りを叩いた。

「がんばりなさい。じゃあまた、学校でね」

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