第四章 鍋島のどか 15

 

 その夜、俺は夢を見る。

 夢の中、≪鍋島浩之≫は小学生でランドセルを背負っていて、生まれたばかりののどかのことを抱っこしている。のどかはすぐに大きくなって幼稚園児になり小学生になり中学生になり、あっという間に俺の手に負えなくなる。勿論俺の体もどんどんでかく成長して、背が伸びて、学ランを着たりブレザーを着たりかと思えばスーツを着てみたり大忙しだ。その俺の隣を父さんとか母さんとか小学生の時の友達とか高校の時の担任とかバイト先の店長とか色々な人が通り過ぎていく。健一。清美。は、と気が付いて振り向くと、そこにいたのはライトとココア。俺がプレゼントした虎のTシャツを着たライトと白い花のカチューシャをしたココアが揃ってこちらを振り向いている。真美子もいる。≪辰巳輝大≫は懸命に手を伸ばすのだけれど、なかなか二人まで届かない。漸く指先が触れるという瞬間に、カツン、という固い感触で目を覚ます。床だ。俺が伸ばした指先は、ベッドから滑り落ちて見事床に着地していた。

 ピチチチ、ピチチチチという鳥の声に、俺は朝が来たことを知る。十五年前で時の止まったカレンダーも古いグラビアアイドルのポスターも俺を混乱させる材料にしかならなくて、これが現実であると自覚するのに時間がかかる。≪鍋島浩之≫の部屋だ。かつて、『俺』の部屋であったその場所だ。俯せのまま布団の中で太陽の恩恵を享受して、寝返りを打ち、もぞもぞと布団を脱ぎ捨てる俺はまるでミノムシ。目覚まし時計が現在時刻を表示している。六時前。起きるには少し早すぎるくらいだ。爽やかな朝。空には美しい青が広がって、鳥達が機嫌よさげに羽ばたいている。きっと今日もよく晴れる。立ち上がって窓を開けると新鮮な空気がさっと部屋中に広がって、ちょっとした楽園気分にもなる。太陽が眩しい。目を開けていられないくらいだ。この部屋は東側に位置しているから、家の中で一番よく日差しが入るのだ。不思議な気分だ。まるで、昔に戻ったかのようでもある。学生の時、俺は寝汚くて目覚ましが鳴ってもそれを止めて二度寝を決めることを日課としていて、そのたび母さんがぱたぱたとスリッパを鳴らしながら俺の部屋までやってきたんだ。トントン、トントントントン。そう、こんな風に扉をノックしてそれから――

「おはよう辰巳君。起きた? 今日は少し早く――」

 無遠慮に俺の寝ているはずの寝室を開けたのどかはすっぴんで寝巻で教師としての威厳なんてものはどこにもなくただの三十歳の女性だった。その、子供がそのまま年齢を重ねただけみたいな顔をしたのどかは窓際に立ち朝の光を浴びる俺を見てひどく驚いたような顔をした。まるでお化けでも見たっていうような表情だ。それから、ふっ、と夢から覚めたみたいな顔になって、ごしごしと両手で目を擦った。なんだよ。

「どうかした?」

 と俺は言う。のどかはぱちぱちと瞬きをして、それからふるふると左右に首を振った。

「なんでもない。おはよう辰巳君」

「おはようございます」

「よく眠れた?」

「はい」

「そう。よかった。七時前には出るから支度をして。ご飯できてるから」

「はい」

 パタパタというスリッパの音を立てて階段を下りていくのどかの足音を聞きながら、俺は窓を閉めた。

 顔を洗い着替えて一階に降りる。居間のテーブルにはご飯と味噌汁と塩鮭と卵焼きが置かれていて、新聞を読みながらテレビを見ていた父さんが俺に気が付いて顔を上げた。

「おはよう」

 おはようございます、と俺は言った。

 促されるまま父さんの正面に座り味噌汁を啜り始める。父さんがぽつりぽつりと声をかけてくる。

「よく眠れたか」

「はい」

「ひどく、疲れてるんじゃないのか」

「大丈夫です」

「ごはんはおいしいか」

「おいしいです」

「そうか。しっかり食べなさい」

「はい」

 テレビ画面は『モーニングタイム』のニュース速報をしていて、それが終わり、マダム・パンドラの星座占いになる。が、十二種類の動物が走りだしたところでやってきた母さんが不機嫌な顔でテレビを消した。

「ちょっとお父さん、また見もしないテレビつけて、ああ、ほら、新聞を読みながらご飯を食べないで。生徒の前で、お行儀が悪いわ」

「ん」

「ん、じゃないわよ、もー」

 朝からぷりぷりと怒る母さんは懐かしい光景だ。けれど、もりもりと卵焼きを頬張る俺の視線に気が付いて、余所行きの顔を作り上げた。

「おはよう辰巳君」

 おはようございます。

 食べ終わった食器を片づけて一度部屋に戻る。懐かしい≪鍋島浩之≫の部屋。もう二度と戻ってこないであろう俺の部屋。別れを告げる前に俺はふと思い出して、押し入れの奥を覗き込む。あったあった、よく十五年も昔のものが残っていた。きっとこいつも、俺が帰るのを待っていてくれたんだ。なぁ、俺、本当は、二十五日の夜には家に帰ってこようと思ってたんだ。一週間も前に準備してたんだ。リボンは色褪せて袋には埃が積もってるけど、中身は綺麗なはずなんだ。食べ物にしようか迷ったんだけど、やめてよかった。そうじゃなきゃ、十五年も形を保っていられないから。このネクタイは父さんに似合うと思うよ。少し派手な柄だけど、今の父さんには若々しく見えるくらいが丁度いいよ。ハンカチだって母さんの好きなピンクの花柄なんだ。おいのどか、エンジョイ☆アニマルのブランケットなんて今のお前には必要ないだろうけど、オークションに出せば高く売れるぞ。ゴミ捨て場に捨てるなんてことはするなよ。

 俺は三人分のクリスマスプレゼントを机の上に置いて≪鍋島浩之≫の部屋に別れを告げる。ありがとう、じゃあな。

 荷物を抱えて階段を降りると仏間の引き戸が開いていて、中を覗くと母さんが何やらお供えをして拝んでいるのが見えた。

 懐かしい仏間だ。俺がよくお仕置きと称して閉じ込められた押し入れ。爺さんや婆さんや知らないご先祖様の遺影。≪鍋島浩之≫の写真が飾られた仏壇。荷物を抱えたまま仏壇を凝視する俺に気が付いて、母さんが振り向く。

「あら、用意できた?」

 はい。

 仏間なんていうプライバシーの塊みたいな場所にズカズカと踏み込んでいくデリカシーゼロの俺。しかし母さんはそれを咎めない。許されるまま隣に座る俺。母さんは目元をふっと緩ませると、

「この子、息子なの。のどかのお兄ちゃん」

 なんて聞いてもいないことを勝手に答えた。知ってる。十五年前、二十四歳でトラックに撥ねられて死亡した。

「若くして亡くなっちゃってね。交通事故だったんだけど。馬鹿な子でね。悪戯ばっかりして、すぐ怒られて、そのくせお調子者で都合のいいことばっかり言って」

 写真の≪鍋島浩之≫は少し若い。スーツを着ているけど全体的に幼い。顔が子供だ。多分大学の卒業式か、入社式のときに撮ったものをそのまま遺影に使ったんだ。まさか自分の遺影に手を合わせる日が来るなんて思わなかった。

「迷惑かけて心配かけて、漸く親孝行してくれるかなっていうときになって死んじゃうなんてね」

 愚痴交じりに笑い飛ばす母さんに、俺は何も言えなくなる。

 親不孝。馬鹿息子。本当だ、その通り過ぎて弁解の余地がない。生まれてから死ぬまで、俺はずっと、父さんと母さんに迷惑をかけ続けた。もしかして、死んでからも。今日までずっと。これからも。

 膝の上に手を置いたまま黙って下を向く俺の心境を知ることもない母さんは愚痴を続ける。

「今、息子にお願いしてたの。辰巳君のことを見守っていてあげてねって。親孝行の一つもできなかったんだから、それくらいはしなさいって」

「……」

「もし浩之……息子の名前なんだけど、もしこの子が生きてたらとっくの昔に結婚して、あなたくらいの子供がいるかもなんて、そんなこと考えたり。正直ね……あなたが来てくれて嬉しかったわ。まるで息子が帰ってきたような気分になったの。ごめんなさい、あなたは大変な思いをしているのにこんなこと……」

 頬を抑えて、ふぅ、とため息を吐く母さんに、もしや母さんは、≪鍋島浩之≫が死んだことを受け止めきれていなかったのではないかと思う。いや、理解し、わかっていたとしても、心のどこかで≪鍋島浩之≫は死んでいないと信じ、ひょっこり帰ってくることを望んでいたのではないだろうか。だからこそ≪鍋島浩之≫の部屋が十五年もの間布団が干され整理整頓されて何一つ変わっていなかったのではないのだろうか。母さんの胸の内などわからない。けれど、≪鍋島浩之≫の部屋は十五年間同じ状態で保持されていて、≪辰巳輝大≫は≪鍋島浩之≫の部屋に帰ることができた。

 俺は仏間に飾られた自分の遺影と目を合わせ、それから下を向いた。

「……俺も楽しかったです。まるで」

 そこまで言いかけて、迷う。言っていいのか。言わない方がいいのか。言わない方がよかったのかもしれない。けれど、俺は言う。言わなければならないと俺は思う。これが多分、俺にできる最初で最後の親孝行だ。

「……まるで、本当の家に帰ってきたみたいでした」

 俺の言葉に、母さんが目を見開く。それから、ふっと嬉しそうに目を細めた。

「そう……それならよかった」

「はい」

 仏壇の前、≪鍋島浩之≫の遺影を前に並んで座る俺と母さん。この瞬間、俺と母さんは他人だったけど、間違いなく親子であったはずだ。『俺』は辰巳輝大で中学生でのどかの生徒でしかなかったけど、『俺』の奥底にある魂は間違いなくのどかの兄で父さんと母さんの息子だった。母さんの隣に並んで座る『俺』はこの瞬間、間違いなく母さんの息子に戻っていたんだ。

 静かに流れる時間を過ごす俺達を、準備が終わったらしいのどかが慌ただしく現実に引き戻す。

「辰巳君、準備できた? 行くよ」

 スーツを着て化粧をしたのどかはどこからどう見ても社会人であり教師の顔だ。父さんはすでに出勤したようで、家の車庫から白の乗用車が出ていくのが見えた。

 玄関先で母さんに見送られながら靴を履く。

「のどか、気をつけなさい。生徒さんを乗せてるんだから」

「わかってるって」

「忘れ物はない? 免許証は? 財布は持ったの?」

「持ってるって。大丈夫だから」

「あんたそんなこと言ってこの間も途中で免許忘れたって帰ってきて」

「あー、もう、うるさいなー」

 どれほど化粧をしてもスーツを着ても、鍋島先生は家の中では末っ子扱いらしい。そりゃそうだ。一人前として扱われたいのなら、食器の一枚でも洗うべきだ。生徒の俺に見られて恥ずかしいらしいのどかは、ぷん、と母さんからそっぽを向くと、

「ほら、行くよ辰巳君」

 と玄関を開けてパンプスの先を外に向けた。促されるまま立ち上がる俺に、母さんが言う。

「いってらっしゃい」

 それはいつもの光景だった。

 出かける俺。玄関先で見送りをしてくれる母さん。忘れ物はないのか事故に気をつけろ何時に帰ってくるんだと散々しゃべってから送り出してくれる母さん。

 でも、母さんはもう、俺の母さんじゃない。

 俺は言う。鍋島先生の生徒としての感謝を込めて。

「いってきます」

 

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