第四章 鍋島のどか 14

 俺のシャツについた血が気になるのか、先に風呂に入るように促される。

「お湯貼ってるからゆっくりしてきなさい。疲れたでしょう?」

 なんて余所行きの顔で言う母さんに逆らえるはずもない。

 懐かしの鍋島家のバスルーム。2DKのアパートの風呂なんかより全然広い。なにせ鍋島家は代々高身長の家系、父さんは180センチあるしのどかも母さんも160センチ以上あるのだ。≪鍋島浩之≫だって185センチあった。高身長の家系の家は高身長の家系なりの作りをしているのだ。シャンプーとボディソープは好きなのを使っていいと言われたので、のどかが使っているであろうものを勝手に拝借した。ピンクのパッケージがいかにもって感じだ。すごい甘い匂いがするが、今の俺には甘すぎるくらいが丁度いいのだ。

 その、広いバスタブに張られた湯に身を沈め、瞼を閉じる。柚子の香りが心地よく俺の体を心を癒してくれる。十五年ぶりの母さん。老けたな、と思う。当たり前だ。あれから十五年も経っている。染めているだろう白髪は見えないけど、少し茶色くしすぎじゃないのか? 俺が来るからって化粧をしたのか、少し口紅も赤すぎる。そういう見栄っ張りなところがあるのだ、母さんは。

「辰巳君ー、湯加減はどう?」

 丁度いい具合ですかね。

 湯船から上がりドライヤーを勝手に借りて髪の毛を乾かす。スウェットは自分の家から持ってきた。鍋島家にあるものではきっと大きすぎるから。

 居間では先に風呂を済ませたであろう父さんがテレビを見ながら晩酌をしていて、突然現れた俺のことを眼鏡越しにじっと見る。十五年ぶりの父さん。背が高くてガタイがよくて無口な父さん。力持ちで本気で怒ると俺の襟首を引っ掴んで猫みたいに仏間の押し入れに放り込んだ父さん。白髪が増えた。髪を染めているらしい母さんと違い、自然のまま年齢を重ねるままだ。少し小さくなったか、と思う。でも、中学二年生の≪辰巳輝大≫よりはずっと大きくて背が高いけれど。

 なんと声をかけたらいいのかわからず、ほかほかと柚子の香りを立てたまま棒立ちする俺に、母さんが助け舟を出してくれる。

「お父さん、この子、のどかのクラスの辰巳君。さっき話したでしょう?」

 なんて言いながら食事の用意をしてくれる母さんは主婦の鏡だ。父さんは一口ビールに口をつけると、静かな声で言った。

「大変だったな、座りなさい」

 その言葉に俺は放心して、それからこくんと頷いて、座った。

 そのうちのどかが来て、俺の隣に座り食事を始める。

 のどかと母さんは始終しゃべりきりだった。

「唐揚げは好き?」

「お味噌汁の味はどう?」

「お腹空いたでしょう。お代わりも遠慮しないでね」

「ジュースもあるけど飲む?」

「ドレッシングはどれがいいかしら」

 ひっきりなしに左右から飛び交ってくる言葉達に、俺は少し疲れてしまう。次第に、はい、はい、としか答えることしかできなくなった俺に、今度は父さんが助け舟を出した。

「お前ら、うるさい」

 瞬間、鍋島家のリビングに走る亀裂と、その後始まる怒涛の責め。

「だってお母さんが!」

「お父さんがしゃべらなすぎなの!」

「のどかが二種類もドレッシングを買ってくるから!」

「だって前のやつおいしくなかったんだもん!」

「おとーさん、テレビ消してよ! それ、つまんない!」

「お箸でお父さんを指さないののどか!」

 鍋島家は昔からこうなんだ。のどかと母さんがうるさくて、父さんはいざというときにしか話さない。変わっていない。変わっていないのだ鍋島家は、俺がいない、十五年の間にも。

 俺はなんだかおかしくて、楽しくなって、自分でも気が付かないうちに一人でにんまりと笑ってしまう。そしてそれに気が付いたのどかはちょっと驚いた顔をして、それからすっとんきょんな答えを出す。

「……唐揚げおいしい? 食べる?」

 そうじゃねぇよと俺は思う。けれど唐揚げは頂いておく。

 母さんの唐揚げを食べるのなんて、もう十五年ぶりだからな。

 夕食を食べ終わり、「風呂に入る」とのどかが消える。あいつ三十路を超えて皿洗いの一つも手伝わないのか。

 母さんが汚れた食器を回収しながらぶつくさ言ってる。

「もー、あの子ってばまた食べっぱなしで……ごめんなさいね、先生のだらしないところ見せちゃって」

 いえいえ、だらしないどころかおむつの交換とかもしたことあるので大丈夫ですよ。

 だらしない妹の代わりに俺は母さんの手伝いをする。手伝いって言っても、母さんの洗った食器を拭いてテーブルに置く、それだけ。母さんは最初渋っていたが、泊めてもらうお礼だと言えば断ることができなくなる。

 俺は母さんと色々なことを話す。好きな食べ物。好きな教科。学校の話。家のこと。

「お母さんの様子はどう?」

「最初はびっくりしたけど、大丈夫そうです」

「そう。大変ねえ。早くよくなるといいわねぇ」

「そうですね」

 母さんが元来おしゃべりな性格で、人見知りをしない人間だから、ちょっと話せばすぐに心を開いてくれる。悪く言えばなんでもなんでもすぐに話す。

「今夜一晩だけだけどね。ゆっくりと寛いでいってね。なんなら、本当のおうちだと思ってくれていいから」

 そう笑う母さんの顔には何本も皺が刻まれている。それは俺の知らない時間の数だけ存在し、俺の知らない時間の長さだけ深さがある。俺はそれをじっと見て、濡れた食器を手に取った。

「はい。ありがとうございます」

「あの子、あんな性格でしょう? ちゃんと『先生』ができているかしら。末娘だから、思った以上に甘やかしちゃってねぇ」

 がちゃがちゃと食器を洗う母さんの手。荒れて、ささくれて、苦労している人間の手だ。それは食器を洗っては泡に沈み、汚れを落としては泡に沈む。その泡の中から小さなシャボン玉が一つ生まれ、ふわふわと飛んで弾けて消えた。

「……ちゃんと先生してますよ。俺は今日、先生がいてくれてよかったって思いました」

 俺の答えに母さんはさも意外だとばかりに目をまん丸く見開いて、それから嬉しそうに微笑んだ。

 遠くからのどかの叫び声が聞こえてくる。

「おかーさんパンツ忘れたー!」

 前言撤回。お前はこの家に中学生男子がいるということを自覚しろ。

 もういい加減日付が変わるという頃に、俺は寝室を宛がわれる。

「ごめんね、あまり掃除してなくて」

 なんて申し訳なさそうに頭を下げる母さんにより、俺は十五年ぶりに≪鍋島浩之≫の部屋を訪れる。

 てっきり客間か、仏間で寝かされると思っていたので意外だった。

 ≪鍋島浩之≫の部屋はそのままだった。

 青いシーツのかけられたベッド。机。ポスター。本棚に並べられたプラモデルは全て俺が作ったものだ。カレンダーさえもそのままで、この部屋の時間が完全に止まっていることを訴えている。『200X年12月』机の上の目覚まし時計だけが唯一正確な時間をちくたくちくたくと刻み続けていて、思わず十五年前に戻ってしまったのではないかと言う錯覚に陥ってしまうくらいだ。

 部屋の中心に立ち、落ち着きなくうろうろとする俺に母さんが言う。

「本当は客間がいいんだろうけど、今ちょっと散らかっていてねぇ」

 と困ったように首を傾げる母さんに、俺は言う。

「……大丈夫です。ここで平気です」

「そう? お布団も干したばかりだから大丈夫だと思うけど、もし何かあったら言ってね」

「はい」

「それじゃあね。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 ぱたん、と閉じられる扉。俺は、≪鍋島浩之≫の部屋の中心で思い切り背伸びをして、深呼吸をし、そして知る。気が付く。

 ≪俺≫は帰ってきた。戻ってきたのだこの家に。この部屋に。俺がいるべきであろうところに。俺は、≪俺≫の魂が感動しているということに気が付く。喜んでいるということを知る。

 俺は勢いよくベッドにダイブして、深く深く息を吸い込んだ。懐かしい≪俺≫の家。≪俺≫の部屋。≪俺≫の布団。ああ懐かしい安息の地。

 俺は目を閉じて、布団の温かさだとか柔らかさを堪能する。少し埃っぽいが、それに交じり太陽の微かな香りもする。これは母さんの匂いだ。布団の柔らかさは真美子の胸の温かさにもよく似ていて、俺は急激に真美子に会いたくてたまらなくなる。辰巳家の狭い2DKに帰りたくて帰りたくてたまらなくなる。≪鍋島浩之≫は鍋島家への帰宅を喜び、父さんと母さんへの再会を喜んでいるのに、≪辰巳輝大≫は真美子を望み辰巳家の帰宅を望んでいるのだ。不思議だ。おかしくてたまらない。まるで俺の中に二つの魂があるみたいだ。いつかの晩、うちのアパートにやってきた花野がまるた公園でこう言っていた。

『≪昔≫のわたしと≪今≫のわたし、どっちが本当なんだろうって。本当のわたしは一体どこにいるのだろうって……そんなこと、悩んだって仕方のないことなのにね』

 あの時は全く理解できなかったが今ならわかる。自分の中にある二つの感情が、二つの魂が全く違う考えを持っているのだ。全く違うことを感じ、求めているのだ。

 俺は疲れていた。あまりにも疲れていて眠たくて、相反する二つの感情を抱えたままうとうとと眠りの精の誘いに乗る。今まさに夢の国への扉を叩いているという瞬間、現実の扉を誰かが叩く。

「……辰巳君、寝た?」

 のどかだ。

「……ごめんね。私、あなたに言ってはいけないことを言ったわ」

 のどかがぶつぶつと呟くように何かを言っているが、その時の俺にはまるで呪文かお経のようにしか聞こえてなくて、半分以上何を言っているのかわからない。

「……もし、お兄ちゃんが生きていたら、お兄ちゃんが生まれ変わっていたとしたら、って……馬鹿みたいな妄想……そんなこと、あるわけないのにね……こんな謝罪、意味なんてないと思うけど……ただ、私が言いたかっただけなの……私が、私自身に言い聞かせたかっただけだから……あなたは私の大切な……」

 意味なんて殆どないようなのどかの呟きは月光の下いるんだかいないんだかわからない神様に懺悔するみたいに捧げられた。誰にも気が付かれず、勿論夢の世界に片足を突っ込んでいる俺の耳にも届かずに。でも、それでいいのだ。よかったのだきっと。そんな感情、お互いにとって余計なものなのだから。

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