第四章 鍋島のどか 13

 そうこうしているうちにピンクの軽は2DKのアパートに到着する。ドアを開ける直前、鍵閉めたっけ? と思うのだけれど、混乱していてもちゃんと施錠はしたらしい。流石俺。出迎えのない自宅はひどく寂しくて悲しいものだ。トイレの扉は開けっ放しで、床にべたべたと飛び散った血液は否応なしに俺に現実をつきつけてくる。真美子の血。死への恐怖。思わずそこに座り込み、ぐすぐすと泣き始める俺の背中をのどかが抱きしめてくれる。

「えっ、えっぐ、ぐすっ、ひぐっ」

 なんて、中学生男子の出す声じゃない。まるで幼児だ。幼稚園児だってもっとまともな泣き方をする。情けない。カッコ悪い。けれど俺は溢れ出す涙を止められない。

 俺は真美子の血の付いたトイレでのどかに抱きしめられたままぐすぐすと泣いて泣いて泣きまくった。この瞬間ののどかは間違いなく『俺の担任』で『教師』で、俺は間違いなく『十三歳の中学生』で『鍋島先生の生徒』だった。俺とのどかは生徒と教師でしかなかった。のどかは完璧な大人であり教師であって、俺が必要とするものを全て与えてくれた。言葉なんて必要ない、ただそこにいて、俺を慰め、温め、そっと寄り添い時間を共にしてくれる存在。俺を正しい道に導き救ってくれる存在。

 俺は鍋島先生に許されるまま泣いて泣いて泣きまくって、涙を拭う。切り替えと立ち直りが早いのは俺の長所のひとつだ。今は少しばかり、未練がましくなってはいるが、いつまでもぐずくず泣いているなんて俺らしくない。あとでトイレの掃除はしようと決心し、外泊の準備をする。何を持っていけばいいのか箪笥を探る。寝巻。下着。財布。歯ブラシ。鞄。Yシャツ。靴下。明日そのまま学校へ行くだろうから、その準備。小学校の時に使ったきりの旅行鞄にそれらを突っ込んで、俺はまた、のどかの軽自動車に乗り込む。

「忘れ物はない?」

 大丈夫。多分、今のところは。

 鍋島家は同じ県内だけど≪辰巳輝大≫の生活範囲とは全く違うところにあるから、行くのは十五年ぶりだ。死んで以来だ。行こうと思えばいつでも行けたのかもしれないけれど、この十五年、特に行こうとも行きたいとも思わず行く機会もなかったし、子供の足と移動手段では少しばかり距離が離れすぎていた。

 車で二十分、三十分ほどか。ぼんやりとする俺には正確な時間がわからなかったが、そんなに掛かっていないはずだ――俺は、久しぶりにかつての実家に到着する。紺色の屋根の二階建て。石の表札にはこう書いてある。

『鍋島』

 慣れた様子で車を車庫に入れるのどかと、促されるまま車から出る俺。勿論荷物は忘れない。のどかはがちゃがちゃと玄関の施錠を外すと、「ただいまー」と言って玄関扉を開けた。家の奥からぱたぱたという音が聞こえてくる。

「おかえりなさい」

 母さんだ。

 十五年ぶりの母さんが、今、俺の前にいる。

 母さんはのどかの後ろでぼけっと立っている俺を見つけ、目元を緩めた。

「いらっしゃい。あなたが辰巳君ね。さぁ入って」

 優しい笑顔で名前を呼ばれ、俺は心の奥に優しく柔らかいものが溢れ出すことを感じる。その感情をどうしたらいいのかわからず戸惑ってしまう。

「遠慮しないで入って。気にしないでいいから」

 のどかはそう言うと、ぽいぽいとパンプスを脱ぎ散らかすようにして家の中に上がり込んだ。一歩二歩進んだところで何かに気が付いたらしく、慌てた様子で引き返し、パンプスを揃えて下駄箱の中に突っ込んだ。のどからしい。こいつは、小さい頃からそうなのだ。

 母さんはそんなのどかを呆れた様子で見ると、

「もー、あんたって子は。生徒の前でだらしないんだからー」

「直したんだからいいでしょ!」

 なんて恥ずかしそうにずかずか進んでいくのどかは、「鍋島先生」ではなく「鍋島家の娘」これこそ、俺の知っているのどかだ。

「さぁ、辰巳君、上がって」

 俺は母さんと、母さんの指し示す手の先を交互に見て、それから鞄を抱え直した。

「……おじゃまします」

 今気が付いたけど、このYシャツ血が付いてる。Yシャツだけでも変えてくるんだったかな。

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