第四章 鍋島のどか 12

 夜の病院は最低で最悪で、まるで霊の住処かと思うほどに居心地が悪い。深夜徘徊をする年寄りに比べたら放課後の理科室なんて可愛いものだ。 

 俺は暗い暗い病院の底に沈み騒めく色々な魂に耐えながら、真美子の診察結果を待つ。途中でのどかも合流し、内科待合室で神に祈りを捧げる俺の隣に座る。

 どれくらいの時間が経ったのだろう、それほど長くはないだろうが、今の俺には一年にも十年にも長く感じた。診察室にはのどかも来てくれと俺が頼んだ。心細いから。それにもし何かあったとき、俺はその事実に耐えきれない。

 カルテを見ながら真美子の同僚こと渋沢医師が下した結論はこうだった。

「胃潰瘍ですね」

 胃潰瘍。

「そう。胃に穴が開いて出血しちゃうの。うーん、命に別状はないけど、ちょっとひどいから一週間くらい入院が必要かな。お母さんの保険証持ってる?」

 俺は横に首を振る。

「そっか。じゃあ明日来れる? 明日来るとき持ってきてね」

 はい。 

 放心する俺の肩をのどかが支える。

 渋沢医師はさらさらとカルテに何かを書き加えると、人の良さそうな口元に皺を寄せ、言った。

「少しならお母さんに会えるよ。多分話せると思うけど。会っていくかい?」


 病院の個室。真美子は右腕に点滴をつけられた状態で、ベッドの上に寝転がっていた。静かに、なるべく音を立てぬよう病室に忍び込んできた俺に気が付いて、真美子が目を開けて俺を見る。

「輝大」

 呼ぶ声はいつもと同じなのにひどく弱弱しくて、俺の心の一番柔らかい部分をぐっと掴む。思わず涙が出そうになるのを抑えて、乱暴に丸椅子に座った。

「大丈夫かよ」

 素っ気ない俺の言葉に、真美子がうっすらと笑う。

「大丈夫だって」

「……血、吐いて倒れて、死んでるのかと思って心配した」

「ふふ。私もびっくりした。自分でも死んじゃうかと思った」

「……笑いごとじゃねーし」

 涙を堪えてしかめっ面で返す俺に、真美子が「ごめんごめん」なんて冗談ぽく答える。本当に笑えない。笑い事じゃない。俺は初めて、大切な人を失う瞬間というものを体験したんだ。

 真美子は微笑みを讃えたまま目を閉じて、それから何かを思い出すかのように瞬きをして、手招きをした。

「輝大」

「なに」

「ちょっとこっちおいで」

 と、ひらひらと動く右手には点滴が付けられていないので、俺は真美子の意志に従って顔を寄せる。と、そのまま頭ごと抱き寄せられて、真美子の胸の上に移動する。ふかふかの布団。真美子の胸。

 真美子が俺の髪とか頭の形とか大きさとかを確認するかのようにゆっくりと撫でると

「……あんた、大きくなったねぇ」

 と、しみじみと言った。

「夢見たのよ。あんたが小さい頃の夢。あんたが産まれて、ハイハイしたり立ったり走ったり、小学校に入学したり……悪戯して怒ったりね。漸く生まれたと思ったらこんなに大きくなっちゃってさぁ」

「……馬鹿じゃねーの」

「馬鹿じゃありませーん。それがさぁ、こんな生意気で、お母さんのこと助けられるくらいになっちゃって。ほんと」

 真美子は俺の頭を撫でて、ぽんぽんと叩き、目を閉じた。

「大きくなったね、輝大」

 真美子の胸。大きくて柔らかくて暖かい真美子の胸。真美子は生きている。真美子は生きて、死と言ういつかは来るのであろう運命から逃げ切ったのだ。俺は真美子の胸に顔を埋めたまま、真美子の胸の柔らかさとか温かさとか大きさとかを感じ取る。真美子がちゃんと生きて、生き抜いたことを実感する。これは大事なことだ。真美子は、≪鍋島浩之≫が成しえなかったことを見事クリアしたのだ。

 しかしいつまでも真美子の胸に埋もれているわけにはいかない。俺が顔を上げたタイミングで、廊下から様子を伺っていたらしいのどかが入ってくる。

「辰巳さん」

 と、遠慮がちに声をかけてくるのどか。真美子は申し訳なさそうに眉を顰めると

「鍋島先生、この度は大変ご迷惑を……」

「いえいえ、とんでもない。当たり前のことです。まずは体調を第一に考え、休養してください」

「ありがとうございます」

 なんていう大人としてのやり取りのち、真美子は言った。

「テル、あんたも帰りなさい。明日も学校あるし……いつまでもこんなところにいちゃ駄目」

 その言葉に、俺は素直に「ん」と頷く。けど、正直俺は今、一人で秋の夜を過ごすのが嫌で硬くて冷たい病室の丸椅子から立ち上がるのを拒む。俺は真美子が心配だった。一秒でも長く真美子の傍にいたかったのだ。

 散歩を嫌がる犬みたいな抵抗虚しく、俺はのどかにリードを引っ張られる形で病室を後にする。駐車場から真美子が寝ているであろう病棟の辺りを恨めしく睨み、のどかの軽自動車に乗り込んだ。

 勅使河原市の夜はひどく静かだ。人なんて殆ど寝ていて外を歩き回っているやつなんて変態くらいだ。そもそも街灯が少なくて、車もあまり走っていない。

 その、いかにも夜ですっていう暗い暗い田舎の車道を走らせながら、のどかが話しかけてくる。

「お母さん、よかったね」

「……」

「一週間くらいで退院できるって。明日、保険証とか着替えとか持って行ってあげないとね」

「……」

 沈黙を保ち続ける俺の横顔を、のどかがちらちらと伺ってくる。

「お母さんのご両親にも連絡してあげないとね」

 のどかの右足が緩やかにブレーキを踏んで、止まる。横断歩道には誰もいない。ただ、暗闇の中赤信号がてかてか光っているだけだ。

「……連絡する人なんていないよ。母さんは茨城のド田舎で育って、何もない環境が嫌で高卒で無理やり上京したんだ。そんで彼氏ができて……」

 俺は父親の顔を知らない。

 うちには父親の写真なんてないし、それを連想させるものもない。曰く、「ムカつくから燃やした」らしい。だから、俺が産まれた瞬間から今の今まで、辰巳家には父親なんて存在はないんだ。

「じいちゃんもばあちゃんも、元々母さんが上京することにも俺を産むことにも反対してたんだ……俺が中学に入る前くらいに、一度だけ会ったきりだ。親戚もいない。母さんは一人っ子だから」

 俺の話を食い入るように聞いていたのどかが青信号に気が付いて、慌ててアクセルを踏んだ。

「で、でも連絡くらいは……」

「……まる一日かかるド田舎だ。電話しても、そうそう来れる距離じゃない」

 俺と真美子は二人きりの家族だ。長い間、二人きりで生きてきた。暑い日も寒い日も、雨の日も雪の日も、一人ぼっちでどうしようもなく寂しいときもあった。それでも耐えることができたのは、俺自身が真美子の愛情をしっかり感じることができたからだ。どれほど離れていても、真美子は俺のことを愛してくれている。心配をしてくれている。だからこそ真美子が仕事で遅くとも何日も帰ってこれなくて会えなくても平気なんだ。それなのに、

「……気が付かなかった」

 一緒に暮らしているのに。世界で、たった二人の家族なのに。真美子がそんなにも疲れていることも、ストレスを抱えていることにも、血を吐くほど体調を崩していることだって。何一つ気が付くことができなかった。

 悲しい。悔しい。恥ずかしくてたまらない。何が家族だ。大切だ。いくら大切に思っていても、失ってからじゃ遅いじゃないか。

 車中、頭を抱えて項垂れる俺に、のどかが言う。

「……本当に大切な事は、失ってから漸く気が付くことが多いの……私もそうよ。気が付いた時には遅かったわ。もう、取り返しのつかないくらいになってた」

 無言のまま窓ガラスに体を預ける俺。のどかは俺の反応を伺い、続ける。

「でも、あなたはちゃんと、気が付いて、守ることができたわ。わたしと違う。これはとても大事なことよ」

 前を向いたまま優しく笑うのどか。俺はその横顔をちらりと見て、項垂れたまま再び窓ガラスに米神をつけ車体のリズムに体を預け、目を閉じる。

――こんな気分だったのか。

 父さんも、母さんも、のどかも。

 病院で、血塗れの≪鍋島浩之≫にしがみ付いて離れようとしなかったのどか。医師達に俺の無事を何度も何度も確認して懇願していた父さんと母さん。それが、血を吐いて倒れている真美子と重なり、真美子を抱きしめて泣き喚く俺になり、一粒の涙に変わる。

 真美子がいない夜なんて沢山あった。幾つもの夜を一人で過ごした。だが、どうだろう、血の色、青白い真美子の顔、冷たい体。それらを思いだすだけで、世界でたったひとりぼっちになってしまった気がする。こんなにも怖いのか。こんなにも恐ろしいものなのか、誰かを失うということは。

 そのうち、ゆっくりとアクセルを踏んでいたはずの車がどんどんどんどん速度を落とし、車道の端に停車する。あれ、と思う。ここはうちのアパートじゃない。疑問符を浮かべる俺のことなんて気に留めることもなく、のどかが名案ですというような口調で、言った。

「辰巳君、今日、うちに来なさい」

 はい?

「うちは実家だから両親もいるし……夕食もまだでしょう? 今、君あなたのアパートに帰っても、その……不安だわ。今のあなた、捨てられてしまう子犬みたい。今のあなた、一人になんかしておけないわ」

 のどかの唐突な思い付きに俺の理解力はついていくことができない。ただただ瞬きをすることしかできない俺の行動を、のどかは肯定したとでも勘違いしたのだろうか。言うが早いかスマホでどこかに電話し始めた。

「……もしもし……はい……夜分申し訳ありません……先ほど搬送された辰巳真美子さんお願いできますか……はい……はい……申し訳ありません……」

 真美子の病院に電話をしているらしいのどかは、少しの空白を挟み、また話し始めた。

「……はい……そうです……お母さんの許可があればぜひ輝大君をと……はい……はい……いいえそんな……わかりました……責任をもってお預かりします……」

 お預かりすることになったらしい。目を点にして固まる俺を置き去りにして、一度通話を切ったのどかがまたどこ掛け直している。

「……もしもし……うん……そう……今その子が隣にいるんだけど……今日うちで預かることにして……うん……うん……男の子……大丈夫保護者の許可は取ってあるから……うん……うん……ごめん、お願い……」

 そこで通話を切り、スマホをハンドルに持ち替えた。

「今、お母さんに許可を取ったから」

「……」

「一度、あなたのアパートに行こう。着替えとか必要なもの、取りに行かないと」

 俺の意見なしに勝手に話を進めるのどか。どうやら、俺の意志なんてどこにも必要としてないらしい。

 

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