第四章 鍋島のどか 11
星の輝く夜空を堪能しながら一人田舎の帰路を行く。
こんな時間、一人で帰るのは久しぶりだ。いつだってライトか、最近はココアも一緒にいたから。花野と都内の山奥を車で暴走したのは記憶に新しい。あいつ、最近見てないな。今何をしているのだろう。
街灯の少ない田圃ばかりの田舎道は本当に静かで、時折通る車のライトでびっくりしてしまうくらいだ。変質者の一人や二人いてもおかしくはない。寒いな、と思う。まだ九月の下旬なのに、台風が日本列島を通過してから気温がぐっと下がった。かと思えば急に暑い日が続いてみたり、日によって寒暖差が激しすぎる。夏が暑すぎたのかもしれない。だから余計、今は涼しく感じてしまうんだ。きっと俺が、騒がしい環境にいすぎたせいで。
2DKの俺の家からは相変わらず電気が漏れることもなく音も誰の気配もなにもなく、躊躇せずに家の鍵をぶち込んで回すのだけれど、俺はそこであれ、と思う。カチッという音がしてなぜか閉まる。施錠がされる。真美子が帰っているのか? 電気が付いていないのに? と、俺はもう一度鍵を回してアパートの扉を開ける。案の定、玄関の光どころか今の電気もついていない。が、廊下の奥にある半開きのトイレのドアからうっすら光が漏れている。真美子が帰っているらしい。ぱちりと玄関の電気をつけると黒のパンプスが左右ばらばらに転がっていて、一児の母親としての自覚を疑ってしまう。俺はそれを適当に揃え、靴を脱いで家に上がる。
「母さん、帰ってんの?」
返事はない。半開きのトイレのドアから鈍い光が漏れているだけだ。俺は呆れる。真美子は昔からこういうところがある。飲み会で遅くなり、うっかり飲みすぎてトイレで吐く。仕事から帰ってきてトイレに入りそのまま寝る。子供のいる成人女性としてあるまじき行為だ。
俺は適当に鞄を置くと、籠城している真美子に声をかけた。
「母さん、ねぇ、帰ってるんでしょ。また飲みすぎて吐いてるの」
ドアを数回ノックするが、真美子は何も答えない。俺は少し不安になる。
「ねぇ、母さん、母さんてば」
殴りつけるような形で乱暴にドアを叩くのだけれど、内側からはなんの反応も出てこない。俺はドアを開けることにする。
「ねぇ母さん、また酔って寝て……」
俺は驚く。
真美子がトイレの汚い床に寝転がっていたからだ。
それだけじゃない。真っ赤なのだ。トイレの水が。
俺は動揺する。生理か、と思う。違う。だって真美子はスカートを履いたまま、便器に向かって倒れているのだ。俺は真美子の体を触る。
「ちょ、ねぇ、かあさ、かあさん……」
そして気が付く。真っ白で生気のない真美子の顔。理科室にいた、人体模型や骨格標本みたいな真美子の顔。額には髪がへばりついて、口元には血がついている。それだけじゃない、口を拭ったらしい真美子の右手や、床にも点々と血が散らばっている。俺は焦る。混乱する。わけがわからなくなる。ただ驚いて動揺して、真美子の体を抱えて、呼ぶしかなかった。
「かあさんっ、ねぇ、かあさん、どうしたの、かあさんっ」
俺のどうしようもない呼びかけに、真美子が、うう、という呻き声を上げる。それにより、この細くて小さくて冷たい体は生きているということを知り安心する。が、その次に遅い掛かってきたのは恐怖だ。どうすればいい? なにをどうすれば、誰に、一体、なんで、どうして。俺は真美子の体を抱きしめて、それから、は、と気が付いてスマホを探す。ポケットの中にスマホがない。鞄の中だ。俺は絶望する。けれど、トイレの隅に真美子のスマホが落ちていることに気が付いた。パスワードは掛けられていない。俺は完全に動揺していた。手ががくがくと震えて、ボタンを押すこともままならない。どこに電話をすればいいのだろう。警察。病院。消防署。俺は混乱していた。焦って、怯えていて、完全に判断能力が見失われていた。だから、震える俺の指先が受話器のマークを押したこと、そしてそのまま発信履歴が表示されたこと、その一番上に学校が表示されていたのは本当に奇跡だったのだ。
いくつかの発信音の後、聞き覚えのある声が出る。
『……もしもし? 勅使河原中学校です』
のどかだ。のどかはその日見回り担当で、夜遅くまで学校に残っていたのだ。俺は混乱していて、怯えていて、ひゅーひゅーと鳴る喉を抑えられない。そのくせ声が出せなくてうまく答えられなくて、無意味な濁音をのどかに伝えることしかできなかった。
「……あ……ぁあっ、あっ……」
電波の向こう、のどかが怪訝な顔をしているのがわかる。
『……もしもし? 御用がないなら切りますよ……』
今にも通話を切ってしまいそうなのどかに、俺は焦る。そして漸く要件を言うことに成功する。
「……せ……せい、なべしま、せんせぇ……」
『……辰巳君?』
尋常じゃない俺の様子に、のどかの態度が変わる。
『どうかしたの? 何か用事?』
「……せ、んせ……どうしよう、なんで、どうしたら……」
『辰巳君、落ち着いて、ちゃんと教えて』
真剣で優しい、教師としてののどかの声。俺は俺の目から溢れ出す涙や鼻水を抑えることもできず、濁音交じりに声を出した。
「か、さんが……かあさんが、たおれて……ち、だしてる……どうしよう、おれ、どうしたら……」
受話器の向こう、顔の見えないのどかが息を飲んだ。それから、職員室にいるのであろう誰かに何かを話して、俺に言う。
『辰巳君、お母さんがどうしたの? 体調が悪いの?』
「ち、はいて、たおれて……どうしよう、おれ、どうしよう……かあさんが、かあさんがしんじゃうよぉ……」
ぼろぼろと涙を流す俺がどの程度のどかに情報を伝えられたかは定かではない。しかしのどかは、職員室にいるらしい誰かと情報の共有をすると、
『辰巳君、大丈夫だから落ち着いて。お母さんが血を吐いて倒れたのね。病院には連絡した?』
「うう……し、してないぃ……」
『救急車呼べる? ……落ち着いて。今、大槻先生に手配してもらうから』
「うぁっ、ぐすっ、ひぐっ」
『泣かないで……お母さんの様子は?』
「うぐっ、ぐすっ、いき、いきてるぅ……」
『すぐ先生もそっちに行くから……大丈夫、大丈夫だからそこで待ってて』
「うっ……ぐすっ、えぐっ」
スマホを片手に泣きながら通話する俺の正面で、床に転がったままの真美子がごほごほと咳込む。俺はスマホを放り出して、真美子の体を抱きしめた。俺の手にもシャツにも血がつくけど、そんなこと構っていられない。俺は急に、唐突に、なんの脈絡もなく円城寺小百合の言葉を思い出す。これが業なのか。前世からの因縁なのか。これが今世で課せられた俺の使命なのか。
俺は真美子の体を抱きしめたまま、永遠ともいえるような時間を過ごす。のどかの「大丈夫だから」と言う言葉だけを頼りに、救急車とのどかの到着を待ち続ける。ピーポーピーポーと言うサイレンの音はうちのアパートの前で止まり、あっという間に部屋の中までやってくる。
「患者の容体は?」
「脈を測って!」
ストレッチャーに乗せられた真美子を見る俺はまだ泣き止んでなくて、救急医の布施幸雄医師に慰められる。布施先生は真美子の同僚の看護師の旦那で真美子よりも丁度一回り上であり、大学生の娘と息子が一人ずついる。俺は真美子と一緒に布施先生の奥さんや子供と会ったことがあるし、真美子の職場の花見や飲み会に救命医チームとして参加していたこともある。
「お母さんは大丈夫だよ」
なんて頭を撫でられてまたぐずぐずと鼻水を啜り始めた頃に、軽自動車に乗ったのどかが到着する。アパートを取り囲む野次馬達の群れの中颯爽と現れたのどかはまるで白馬の王子様みたいだ。女だけど。
のどかは野次馬をかき分けるようにして俺の元までやってくると、
「お母さんは?」
と息を切らしながら問いかけてくる。俺は無言で救急車を指し示す。
のどかは救急車に乗せられる真美子とぐずぐずと泣いている俺を交互に見て、そっと俺の肩を抱きしめた。それからごしごしと俺の肩とか背中とかを撫でて、俺のことを慰める。あったかいのどかの手。のどかの体温。布施先生は他の医者と相談したり俺にはわからないような専門的なことを確認すると、「輝大君」と俺のことを呼んだ。
「病院に行くから乗りなさい。そちらの方は?」
のどかは、つい、と一歩前に出ると
「輝大君の担任です。この子から知らせを聞いて来ました」
「そうですか」
のどかは俺の両肩を掴み、少し屈んで俺と視線を合わせた。
「あなたはお母さんの傍へ。私は後からついていくから、大丈夫だから」
俺は頷く。頷くだけで精一杯だった。
沢山の野次馬に見送られ、2DKのアパートを後にする。冷たい真美子の手。酸素呼吸器のつけられた真美子の顔。俺は真美子の手を握ったまま目を閉じ、いるんだかいないんだかわからないような神に祈る。
救急車なんて、二度と乗りたくなかった。しかも、こんな形でなんて最悪だ。
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