第四章 鍋島のどか 10

 どうやら見逃した山羊座の運勢はあまりよろしくなかったらしく、放課後俺は一人理科室に取り残される。

 理科の教師曰く、

「この間の課題出してないのお前だけ」

 らしいのだけれど、先生、俺蛙の解剖とかあんまり好きじゃないんですよ。昔トラックに轢かれたときのこと思い出すから。

 しかし授業でこの実験を行ったときは「ぎゃー、蛙キモーい」とか「無理ー」とかクラス中から阿鼻叫喚が飛び交ったものなのだが、提出をしていないのが俺一人だということには驚いた。俺一人だということはつまり、阿保で有名なライトも馬鹿で名の知られている桑原も提出しているということだ。なんということだ。驚きだ。ライトも桑原もそんなこと一言も言っていなかった。喧嘩しているやつに言うことなんてなにもないけど。

 俺が今やっているのは先週行われた蛙の解剖の課題。蛙の体を解剖して筋肉や内臓、体の仕組みを知るということ。こんな時代遅れな授業しているのなんて、日本広しと言えどうちの学校くらいだろう。だだっ広くてやたら白いテーブルに置かれているノートは二冊で、俺のノートと藤崎のノート。帰り際、理科の教師に宣告をされ途方に暮れている俺を哀れに思ったらしい通りかかりの藤崎がノートを貸してくれたのだ。

「お前、しっかりしてるように見えても抜けてるんだな」

 うるさいな。

 今日は桑原によるリレーの練習はなかった。

 理由は、今日はサッカー部の練習があったのと、藤崎の用事。これは非常に幸運なことだった。今の俺にはライトからのバトンなんて取れやしない。多分、信頼がないと言っていた藤崎よりも。

 放課後の理科室は非常に静かだ。聞こえるのはノートの上に走らせるシャーペンの音だけ。時々そこにグラウンドから響いてくる運動部の掛け声や歓声が混ざり、この世界に俺が一人でいるわけではないと教えてくれる。顔を上げるとそこにいるのは人体模型と骨格標本の二人だけで、まるで俺がさぼらないように見張っているかのようでもあった。

 俺はノートを書き写しながら気まぐれに骨格標本や人体模型に話しかけ、窓を向いては外の世界に思いを馳せた。涼しくなった。日が暮れるのも早くなった。つい先ほどまであんなにてかてか晴れていたのに、もう夕焼けだ。遠くの空はすでに暗く、もう、数を数える間もなく濃紺のカーテンが空全体を覆うだろう。真美子は今日は帰ってくるのだろうか。わからない。帰ってくるかもしれないし帰ってこないかもしれない。もしかして俺のいない昼間のうちに帰ってきてはまた出かけているのかもしれないが、わからない。看護師とは、そういう職業だと思っている。

 ココアからLINEが入る。

『お疲れ様! 今日はベリーちゃんとキラリちゃんとクレープ屋さんに寄って帰りました。とってもおいしかった! 今度三人で一緒に行こうね!』

 三人ね。

 ライトからの連絡はない。当たり前だ。だって俺が傷つけたんだから。

 ライトとは一年の時、席が前後になり知り合った。

『俺、清水頼人っていうの。頼る人、って書いてライトね。お前は?』

 というのが第一コンタクト。その時は、こりゃあよくあるタイプのキラキラネームだ頭の軽そうなやつだなぁというのが第一印象で、ライトの社交性の高さや人の好さであれよあれよと仲良くなった。疑うことを知らない、嘘を吐くことのできないライトはまさに子供の象徴であり、そこはライトの長所でありまた短所でもあった。俺は桑原の言葉を思い出す。

『お前らって、十年後もずっとそうしていそうだもん』

 人間というものは必ず変わる。

 十年後も二十年後もずっと同じでいられないことは、俺が一番わかっているのだ。

 ライトは変わるだろう。今はまだ嘘もつけない子供だけれど、そのうち、嘘のつき方や人の疑い方欺き方を覚える。きっと、かなりうまいやり方で。ココアもそうだ。ココアなんてなんて頭がいいから、近い将来、大人数の中でいかにうまく自分が立ち回る方法を知ることになるだろう。

 そう遠くない将来、二人がそれぞれ大人としての術を身に着けたとき、今と全く同じ関係でいられるのだろうか。無理だろう。いられるはずがない。

 俺は怖い。二人が大人としての術を身に着け、俺の知らないうちに、俺を裏切ってしまうということが。

 空を覆うオレンジ色のカーテンの上からきらきらと星の散らばった濃紺のカーテンが敷かれた辺りで、それまで微動だにしなかった理科室の扉を誰かが開ける。

「あらやだ……辰巳君、まだいたの?」

 のどかだ。

「何してるの? 居残りで課題?」

 ダークグレイのパンツスーツを着たのどかは、腕を組んでいかにも教師然とした顔で俺の手元を覗き込んできた。

「そう。俺だけ課題出してなかったから。居残り」

 ぶすくれた俺の言葉に、のどかが、ふっ、と目を細めた。全くしょうがないというようにして。

「清水君と喧嘩してるんだって?」

 のどかの質問に、俺は嫌な気持ちになる。もう、今日何度も聞かれたことだ。

「先生には関係ないよ」

 ノートから顔も上げずに答える俺。のどかは呆れたような心配しているかのようなそのような表情を浮かべ、髪を揺らした。

「早く仲直りしなさいよ。君達、いいコンビだったじゃない」

 いいコンビだったからって、いつまでも仲良くいられるわけじゃない。

 けれどそれは言わない。言わないでノートにペンを走らせていく。

 無言で背中を丸める俺に、のどかが何を思ったのかわからない。ただ、無言の時間をほんの数分過ごしただけだ。

「もう、暗くなるから。早く帰りなさい。お母さん、心配するよ」

 どうかな。

 遠くなるのどかの足音を聞きながら、漸く俺は顔を上げる。人体模型と骨格標本が、一人ぼっちの俺に同情するかのように生気のない瞳で俺を見ていた。そんな顔をしないでほしい、俺だって寂しいのは充分承知なんだ。


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