第四章 鍋島のどか 5
HRが終わるとすぐに桑原亮二に声をかけられる。
「なあ、今日の放課後、練習しようぜ」
あまりにも明るい声で言う桑原にこいつは一体何を言っているんだと思う。
桑原の右頬には大きめの絆創膏が張られていて、右腕にもまた絆創膏、左腕には小さな瘡蓋と痣がいくつも重なったような複雑な模様がついていて、こいつは一体、普段部活動にてどんなプレイをしているんだ。
「なんだって?」
「だから練習! リレーの練習。今日サッカー部ないしさぁ、ちょっと練習しておいたほうがいいかなーって」
「……あー、そーなの」
気のない返事を返す俺。後ろの席に座っているライトがなんとも嫌そうな顔をしている。そうだよな、俺達帰宅部は早く帰ることが部活だもんな。が、桑原はそんな俺達に気が付くことなく続ける。
「藤崎はいいって! じゃ、今日の放課後よろしくな!」
なんて勝手に決めて勝手に言って去っていく桑原はまるで秋風のように爽やかだ。とんでもなく軽快で、憎らしい。
恨めしそうにライトがぼやく。
「……あいつ、人生楽しそうだな」
そうだな。
でもああいうやつが意外と人生うまくいっちゃったりもするのだ。例えば、二十歳そこそこで子供ができて結婚したりとか。
「テル、体操着持ってきた?」
「昨日使ったやつがそのまま。ライトは?」
「俺も」
なんて机にへばりついて脱力をする俺達のところに、ココアがやってくる。
「テル君、ライトくん、今日の帰りにリレーの練習するの?」
なんて言うココアの頭にはもう花のカチューシャはついていない。
「うん。加藤、カチューシャは? 折角似合ってたのに」
というライトの問いかけに、ココアは恥ずかしそうに髪の毛を抑えた。
「うん、うれしかったけど、ずっとつけてると汚しちゃうかなって。特別なとき用にしようかな、なんて」
照れたように笑うココアはやっぱり可愛い。けれどその表情も、今は俺の心に傷をつける一つの要因しかない。
動揺を隠して真顔を貫く俺の代わりに、ライトが応答する。
「へー。そっかー、かわいかったもんな」
「ありがとう。ねぇ、わたし知らなかったんだけど」
「へ?」
「リレーの選手。二人とも、足速かったんだね」
俺とライトは顔を見合せて、ああ、と思う。
体力測定が行われたのは四月の中旬で、ココアが学校に来始めたのは六月の終わりだったから知らないんだ。体育も男女別で行うし、そもそも去年違うクラスで全く接点がなかったので知らないことだってまだまだ沢山あるんだ。いくら全て知っているような気になっていても。
「百メートルだったらライトのほうが早いよ」
「長距離はテルじゃん。なぁ加藤、こいつ去年の持久走大会で転んだんだぜ」
「えっ」
なんてココアがひどく驚いた顔で俺を見る。俺は意味もなく頬杖を突いて
「途中で靴紐が切れて転んだ」
「え、そうなの?」
「うん。途中までは結構上位だったんだけど、突然ブチィって」
「びっくりしたよなー。俺がゴールしたらテルが保護者席でおばさんに手当て受けてるんだもん」
いかにも、なんてライトが話を大きくするものだから、俺は少し居心地の悪い思いをする。
「大した怪我じゃなかったんだよ。適当に水道水で洗えばよかったのに、母さんがたまたま見に来てて、そんで保護者席で消毒液ぶしゃーって」
「いや、結構血ィ出てたじゃん。膝と掌」
「大した事ないって」
あんなの、トラックに撥ねられたときに比べれば。
キャッチボールするみたいに会話をする俺とライト。ココアは暫く楽しそうに眺めていたのだけれど、ふと、思いついたように口を開いた。
「テル君のママ、体育祭来るの?」
ココアの問いかけに俺は少し考えて、首を振る。
「こないと思う。今、仕事忙しそうだし。去年もこなかったし」
「でも、今持久走大会って」
「あれはたまたま」
本当。去年の持久走大会のときは、本当にたまたま偶然休暇が重なったから来れた。真美子は基本、小学校の時から運動会や親子参加の芋掘り大会等々の行事イベントには出席していない。でも、真美子は入学式や卒業式、三者面談には来てくれる。俺は真美子が好きだ。真美子は俺を育てるために懸命に働いてくれているのだ。不満なんてどこにもない。俺には父親はいないけど、いないだけだ。家族の形は様々。人それぞれ、家族の形だけ存在するんだ。花野の言う通り。
ふと顔を上げると、先ほどまで浮かれて花を飛ばしていたココアがしょんぼりと曇った表情をしている。真美子のことを気にしているのだ。こんなこと、ココアが気にする必要はないのに。
尻尾と耳が垂れ下がった猫みたいになっているココアの機嫌を直すため、俺は話題を変える。
「そういえばさ、どうかした? 何か用だったんじゃないのかよ」
俺の問いかけに、ココアが少し下を向く。それから、もじもじとスカートの前で指遊びをしながらしどろもどろに答えていく。
「あ、あのね……もし、もしよかったらなんだけど、その、時間があったら、今度の……」
なかなか本題に辿り着かないココアの話をじっと待ち続けるライトと俺。しかし、そのじれったい空気を桑原の「清水ー!」という弾丸みたいな声を切り裂いていく。はっ、と顔を上げるココア。嘘だろという表情をする俺達。
弾丸の飛んできた方向に顔を向けると、秋晴れの空みたいな顔をした桑原がこちらに向かって手を振っている。
「呼んでるよー!」
なんて叫ぶ桑原の顔は一点の曇りも存在しないし、俺達の邪魔をしたことなんて一ミリも気が付いていないだろう。すごいなこいつ、空気の読めない天才かよ。
呼ばれたライトが桑原の顔を見て、ココアの顔を見て、右往左往する。
「行けよライト」
と俺が促したことにより、後ろ髪惹かれるようにしててろてろとやる気なさそうに桑原の元に移動していく。ナメクジみたいだ。
その、巨大なナメクジみたいなライトの後姿が見えない誰かと話しているのを眺めながら、俺はココアと向かい合う。
「今度、何?」
と、話を続けようとする俺。どもるココア。
ココアは暫く上を向いて下を向いて指と指と擦り合わせたり髪の毛を触ったり落ち着かない態度を取っていたのだけれど、廊下の向こうで誰かと話していたライトが戻ってくる。
「テル、昼休みにのどかちゃんが職員室来いって」
「なんで」
「この前出された国語の課題! 出してないの俺とお前だけなんだって」
と言って去っていくナメクジ改めライト。
課題? 課題なんて出されたっけ。そんなこと、一ミリも覚えていない。いつの話だそれ。
明後日の方向に目を向けたままぐるぐるぐると脳みそを回す俺の視界の端。俺はそこでココアがいたことを思い出す。
「あ、ごめん、なんだっけ」
と特に悪気もなく謝罪の言葉を述べると、ココアはひらひらと両手を振った。
「うん、ごめんね。大丈夫」
「でも」
「いいの。今忙しいみたいだから。また今度にするね」
なんてスカートを翻して去っていったココアが行きついたのはベリ子とブー子が寛ぐ窓際。細かい内容はよくわからないが、カーテンに包まれた状態で「いくじなし」とか「お馬鹿ー」とかそんなことを言っている。どうでもいい。
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