第三章 津島花野 8

 最高気温三十五度を記録した勅使河原市は夜になってもまだまだ暑くて、蒸し風呂みたいだ。けれど空に輝くのは灼熱の太陽ではなく銀色の月と星なので、昼間とはまるで天と地の差だ。

 勅使河原市なんて田舎だし高いビルもネオンも何もないから夜になればこの世から誰もいなくなったんじゃないかっていうくらい静かなんだけど、夏休みだからか気温のせいか人々のテンションもちょっと上がっているらしく、夜になってもどこか空気が騒がしい。夜風に乗ってやってくるのはサンダルが地面を擦る音と子供達の笑い声。普段、カップルとホームレスしかいないような夜のまるた公園に家族連れがいる。背の高い色黒の父親と髪の長い綺麗な母親。漸くランドセルが背負えるくらいの男の子と黄色いスモッグが似合いそうな女の子の兄妹が花火を持ってはしゃいでいた。

 そんな理想の家族みたいなものを眺めながら俺と花野は低いブランコに跨っている。地獄かよ。

「悪かったと思ってるわ」

 と花野が言う。

「あなたが誘拐されてあんな危険な目にあったのはわたしのせい。わたしが巻き込んだ。わたしに関わらなかったらこんなことにはならなかった。弁解の余地なんてどこにもないわ」

 あまりにも高飛車な態度と口調に、俺はそれが謝罪の言葉であると理解するまで少しばかり時間がかかる。

「それ、謝ってんのか」

 という疑問に、花野が馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「だから、そう言ってるでしょう」

 あっそう。ほんと、プライドの高い奴だ。

「随分元気そうだな」

 と俺は言う。すると花野は低いブランコをギィギィ鳴らしながら

「ええ。おかげさまで。少し熱中症気味だったけど、それだけ」

「俺が塩タブ持ってたおかげだろ」

 喧嘩腰の俺の言葉に、花野が鼻の先をふっと鳴らす。

「そうかもね。あと、あの緑の子」

 緑の子?

「茶畑光太郎のことか?」

「茶畑光太郎? 茶畑光太郎っていうの?」

 花野がグロスの塗られた唇をタコみたいにきゅっと突き出した。

「わたし、あの子のグッズ探したのよ。でも、どこのお店にも置いてないの」

 探したのかよ。やっぱり気に入ってたんじゃないか。

「あれ、静岡のゆるキャラだぞ。ライトがお土産で買ってきたんだ。だから、静岡辺りまで出ないとないんじゃないか。あとは通販とか。知らないけど」

「らいと?」

「俺の友達。湖で引き上げられたとき一緒にいただろ」

「虎のTシャツを着てた子?」

「そう」

 花野がいくらかしょんぼり気味にブランコを揺らす。それから

「次の撮影でその近くに行くから、買ってくるわ」

 と答えた。撮影ね。これだから芸能人様は。

 真っ直ぐに前を向いた花野の瞳の先に子供達が騒いでいる。花火を握りしめたまま走り回り、喧嘩をして、親に咎められている。理想の家族だ。優しく、温かく、見たもの全てを幸せにさせる。羨ましささえ感じてしまうくらいに。その、幸せの塊みたいな光景を眺めながら、花野が呟く。

「……わたし本当は、もう、駄目なんだろうなって思った」

 駄目?

「誘拐されたとき。あなたと一緒に監禁されたとき。逃げてる途中も、運転をしているときも……湖に落ちたときが一番、ああ、もう、駄目なんだな、死ぬんだなって、何度も何度も諦めたわ」

 小さな子供の指の先に灯っていた七色の光が失われ、地べたに落ちた。ごねるように体をくねらせる女の子。すると母親が袋の中から小さな花火を取り出して、火をつけた。

「でも、諦めなかった。諦められなかったの。不思議ね。もう、死んでもいいってくらいに思ってたのにね」

 バチバチバチと広がる線香花火は人間の人生にも等しい。ぱっと火をつけて懸命に輝き、そして朽ちる。残るのは燃えカスとほんの少しの香りだけ。虚しいものだ。

 俺はギィギィと油の切れたブランコを扱ぎながら、問いかける。

「捕まったらしいな」

 花野のマネージャーであった樫本洋子は、多額の借金を背負っていた。それが雪だるま式に膨らみ、返せなくなって、ついには実の子のように思っていた花野を誘拐して事務所と花野の実の両親から金を取ろうと目論んだ。一緒にいた赤いシャツとアロハシャツの男は悪徳金融の下っ端。そこから金融会社自体に警察のメスが入り、かなりの逮捕者が出るであろうとここ数日メディアを騒がせている。

「……樫本さんは、もうずっと、十年近く私のマネージャーをしてくれていた人なの。お母さんみたいに、お母さんよりもずっとわたしの近くにいて、わたしを大切にしてくれていたわ。でも、それも、勘違いだったみたいだけどね」

「……本物の母親はどうしたんだよ」

「あまり家にいるのが好きじゃない人だから。お父さんも同じ。今はお仕事が楽しいみたい。仲は悪くないの。似た者同士、夫婦で仲良くやってる。感謝してるわ。ただ、それがあの人達の愛の形だから……勘違いしないで。わたしは幸せよ。幸せには色んな形があるの。家族も同じ。何かが間違っていて何かが正しいわけじゃないわ。わたしの求める幸せと他の誰かが求めている幸せが違って当たり前なの」

 ブランコに乗ったまま、生まれたての羽みたいな花野の足がすっと伸びる。青いペティキュアの塗られた足は可愛いサンダルに収まっていて、そのずっと先の延長線上に家族がいる。可愛い子供。優しそうな両親。綺麗な花火。俺はそれを眺めながら考える。幸せの形。家族の形。

「あなただってそうでしょう?」

 花火の色で変わる花野の横顔は綺麗だ。ついつい見惚れてしまうくらい、惑わされてしまうような危うささえある。そうなのだろうか。俺の求めるもの。花野の求めるもの。他の誰かが求めているもの。

「……時々、不安になるの」

「不安?」

「≪昔≫のわたしと≪今≫のわたし、どっちが本当なんだろうって。本当のわたしは一体どこにいるのだろうって……そんなこと、悩んだって仕方のないことなのにね」

 バチバチと灯っていた花火が燃え尽きて、落ちる。もっとやりたいと子供達はごねているが、遊びの時間は終わりのようだ。地べたに転がっていやいやと泣いている子供を担いで、幸せの象徴が去っていく。静かになる公園。空に輝く星と月はちょっとした魔法のようですらある。未だ冷めぬことのない真夏の温度と騒めきを感じたまま、花野がすっとブランコから立ち上がる。

「帰るわ。少し話過ぎた気がする。明日も仕事なの」

 そうか、と俺は答える。誘拐事件以降、津島花野のメディア出演量は今までに加え格段に増えた。本当に、芸能人様は大変なんだ。俺達一般の中学生とは違って。

「帰るってどうやって? 電車だろ? 駅まで遠いぞ」

 まるた公園から勅使河原駅まで歩いてまるっと三十分以上かかる。昼ならまだしも、ここは田舎だし店も殆ど閉まっているし街灯だって少ないから、高校生の女の子が一人で歩くような場所ではない。

 花野が左右に首を振る。

「新しいマネージャーさんが就いたの。あそこに車が止まっているでしょう? あれ、佐々木さん。覚えておいてね」

 ぴかぴかと月光を跳ね返す花野の爪の先が示す方向、まるた公園の敷地外に白い乗用車が止まっている。そこに寄りかかるようにして、細くて背の高い眼鏡を掛けた男がこっちを見ながら煙草を吸っている。

「もう新しいマネージャーがついたのか」

「ええ。うちの会社、仕事が早くて有名なの」

 なんてさらりと長い髪をかきあげる花野。様になっている。長い髪も、緑色のワンピースも、きらきらとしたサンダルも青いペティキュアもなんだって。ボコボコのバンも廃工場も比較にならないくらいに。

「もう、誘拐されるなよ」

 俺の言葉に、花野がひょいと首を傾げて真っ白な歯を見せた。

「そしたらまた、一緒に逃げてくれるでしょ?」

 どうかな。

 佐々木マネージャーの運転する白い乗用車に乗って、花野が去っていく。蒸し暑い夏の夜、月に照らされ華やかな舞台に帰っていく天才女優。かぐや姫のお話みたいだ。闇夜に消えていくヘッドライトは花火の輝きにもよく似ていて、俺のことをほんの少しだけ寂しくさせる。

 静かなまるた公園、花野も家族連れも花火の音も匂いさえも消えてしまったその場所で、俺はブランコに乗ったまま空を見上げる。星と月はこの地球上であればどこで見てもぴかぴかと輝き美しい。そう、埼玉県勅使河原市のまるた公園で見ても、東京都中多摩群赤多摩町にある工場跡地で見たとしても。俺は星と月と花火の匂いとほんの少しのもの悲しさをまるた公園に置き去りにして、真美子の待つ2DKのアパートに帰る。今日はカレーだ。

「あら、花野ちゃん帰っちゃったの?」

 なんてあからさまに残念そうに真美子が言う。全く、我慢して頂きたい。元々花野も平介も俺達平民とは住む世界が違うんだ。例えるのならガラスの靴を履いたシンデレラか、竹から生まれたかぐや姫。平介は南瓜の馬車を用意する魔法使いってところか。俺はせいぜい平民程度。平民の幸せなんて具沢山のカレーを食べるくらいで充分なのだ。

 ハムスターみたいな勢いでカレーを食べる俺の前で、真美子がつまらなそうにテレビをつける。また花野が映ってる。俺は先ほどの花野の言葉を思い出す。

『≪昔≫のわたしと≪今≫のわたし、どっちが本当なんだろうって。本当のわたしは一体どこにいるのだろうって』

 俺は一度カレーをかき込む手を止めて、それからふるふると余計な思考を振り払う。テレビの中で花野と、知らない芸能人達がワハハワハハと笑っている。楽しいらしい。何が楽しいのか、俺には全くわからないけど。ただ、こんなくだらないテレビを見ながらがっかりした表情の真美子と具沢山のカレーを食べているということは幸せなんだと思う。それが正解。多分、きっと、俺にとっては。

 うんうんと頷きながらカレーを噛み締めている俺に、真美子が声をかけてくる。

「輝大、花野ちゃんが持ってきてくれたお菓子、食べる?」

 食べる。

 そもそも男子中学生の食欲は旺盛なんだ。どれだけ食べてもすぐに腹なんて減るんだから。質より量。でも、やっぱり高いものはおいしいだろうからぜひ食べておきたいものだ。悩んだり考え込んだりすることは後に回す。だって、今この場でカレーを食べて腹を膨らませておかなかったら、きっと後で後悔することになるのだから。俺としてはそれは絶対に避けたい問題だ。多分、花野が放ったテレビドラマで使われるようないかにも意味深て感じの長い長い台詞よりも。

 俺は空になった皿を持って立ち上がる。幸せは色々、家族の形は人それぞれ。俺は今幸せになるための一番の方法は、このカレー鍋を空っぽにすることなのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る