第一章 加藤心愛 20(自殺旅行編4)

 そのあと、島を散策したり波打ち際でぱしゃぱしゃと遊んだりしているうちにあっという間に時間は過ぎる。もう、夕暮れだ。サーファーたちが服を着て、帰り支度を始めている。少し寒くなってきた。俺は腰に巻いていた長袖のパーカーに腕を通す。赤く染まった空の向こうにほんの少しの群青が混じり、夜と昼の境界線を作っている。

「楽しかったー!」

 弁天橋の柵に腕を置き、ココアがぐーんと体を伸ばした。今日のココアは感情表現が豊かだった。部屋でゲームをしているときより、もっとずっと笑ったり、怒ったり、喜んだり、驚いたりして、すごくよかった。今こうして、夕焼けをバックに海を見ているその姿だって、まるで映画のワンシーンみたいで素敵じゃないか。

「俺も楽しかったよ。水族館て久しぶりに来た」

 これも本当。久しぶりって、二十年ぶりくらいだけど。

 ライトが、柵に寄りかかっていた俺の背中に乗ってくる。重い。

「俺も俺も! 水族館なんて小学校以来だけど、結構楽しめた」

「お前、鮫の肉っておいしいのかな、なんて言ってた癖に」

「言ってたけど!」

「すっぽんは食べれるけど海亀ってうまいのかななんて言ってた癖に」

「言ってたけど!」

 ゲラゲラゲラ。

 海の向こうに消えていく太陽が、俺たちの顔を照らしている。小さな漁船が鈍い音を立てながら地平線の上を通り過ぎる。海が奇麗だ。すぐ隣にココアがいる。睫毛が長くて、唇がつんと尖ったココアの横顔。緩い風が吹いて、ココアの前髪を揺らしていく。俺はそのココアの前髪を眺めながら問いかける。

「ココアさぁ」

「なぁにぃ?」

「まだ、死にたい?」

 俺の質問に、ココアは少し驚いたような顔をする。鳩が豆鉄砲を食らったような、間抜けな顔だ。ココアはぐっと瞳孔を開いて、それから柵を握りしめて、猫みたいに思い切り体を伸ばす。

「うぅ~ん」

 考えを固めるように何度も何度も体を捻り、ココアは話し始めた。

「あのねぇ」

「ああ」

「わたしねぇ」

「うん」

「山田先生と付き合ってたの」

「……はぁ?」

 突然の告白にきょとんとする俺。度肝抜かれるライト。

 ココアは、そんな俺たちの表情を見て少し面白そうに口角を上げて、話を続ける。

「だからね、担任の山田先生。今、休職してるんでしょ? わたし、山田先生と付き合ってたの」

 なんでもないような口調でそう言うココアに、俺は少しひきつった笑いを返す。山田、山田ってあれか。去年ココアの担任で、今年からうちのクラスの担任になったけど、すぐに休職に入りその代わりにのどかが来た。

「去年ねぇ。うちのクラスの副担、山田先生でねぇー。学級委員してたから色々話す機会も多くてさぁ。そしたらなんか、変な空気になっちゃってさぁー……最初はねぇ、全然そんなつもりはなかったんだ。色んな相談に乗ってもらって、いい先生だな、って思って。でも途中で、あれ、あれれーって」

 あはは、なんてココアが笑う。こんな話、全然何も面白くない。山田は二十代後半の男性教諭で、ちょっと太っていて冗談がうまくて、男子にも女子にも人気があった。いつも生徒に囲まれていた。

「あれ? 山田って、奥さんと子供いただろ? 去年の冬に二人目が生まれて、新しい車買ったって言ってた。確か、ワゴンかなんか」

 思い出したようなライトと思わず顔を顰める俺。ココアが頷く。

「いるよ。だから別れたの。でも、その後もしつこくてさー。奥さんも子供もいるのにね。ほんと、馬鹿みたい」

 ココアが柵の上で腕を組み、地平線の向こうを見る。

「そしたら先生、学校こなくなっちゃったでしょ? わたしのせいなの。変なLINEいっぱいきたから。全部無視して、学校行って、そしたら学校、行きたくなくなって、みんな、私のこと見て、嫌なこと言っている気がしちゃって。そしたら、なんか、全部嫌になっちゃって」

 俺はいつかの川辺苺の言葉を思い出す。『山田チャンが生徒に手を出してクビになったって本当?』川辺は知っていたのだ。川辺だけじゃない、多分川辺の友達の西本希来里も、学年の何人かも、もしかして、のどかも。

「そしたらさー。死にたくなっちゃったんだー。こんな世界に生きてるくらいなら、さっさと死んで、あの世に行っちゃった方がましだー、って」

 だからココアは、『自殺志願者交流版』なんてものにアクセスをして、『自殺大百科』なんてものを知り、ネット通販で購入し、あの雨の日、橋の上から川の中へ飛び降りようなんてしていたんだ。

「うちのママ見たでしょ? 人の顔色伺ってばっかり。パパだってそうだよ。何も、何も言わないの。知らないうちに帰ってきて知らないうちに出掛けていくの。あんな人たちに、わたしは一体どうやって頼ったらいいの?」

 俺はまた思い出す。加藤家を訪れた時の清美の態度。確かに一見優しそうな、奇麗な母親に見えた。でもところどころ、ちょっとした態度や表情がおかしくはなかったか? 親子なのに、どこか腫れ物に触るかのような、そんな妙な雰囲気を醸し出してはいなかったか? 馬鹿清美。馬鹿健一。お前ら一体何してるんだよ。

「うちのパパとママね、できちゃった婚なんだって」

「……へ」

「ママには他に好きな人がいたんだけど、わたしができたから仕方なく結婚したの。だからパパもママも、わたしのことなんてどうでもいいの」

 ココアの発言に、俺は思わず言葉を失くす。俺はショックだった。俺が予想していたことが恐らく事実であろうことが、そしてそれをココアが知っているということが、それによりココアが傷ついているということがショックでならなかった。

「で、でもさぁ、だからって加藤のことをどうでもいいとか、そんなこと思うわけないじゃん。だって、親だぜ? 子供のことを大切に思わない親が、一体どこにいるんだよ」

 あわあわと無意味に両手を動かしながら懸命にフォローを入れるライトは優しい。

「ありがとう。うちのパパとママも、ライトくんのお母さんみたいだったらよかったのに」

 夕暮れの海、沈んでいく太陽に照らされるココアは蛍の光みたいに儚くて綺麗だ。純粋で、傷つきやすく、繊細。自分を守ることに精一杯で、簡単に自分の殻に閉じこもる。

 弁天橋の柵の上、両肘を置いてその間に顔を埋め、ココアはまた、悩むようにして、うーん、と背骨を伸ばした。

「だからねぇ、もう、嫌で、全部全部、嫌で嫌で仕方がなくて、もう死のうって、もう死んじゃおうって思ってて。でも、でもねぇ。今日、すごく楽しくて、海が奇麗で、風がすごい気持ちよくて――」

 瀬乃島の海、地平線の向こうに赤い太陽が沈んでいく。寄せては返す漣が俺たちに優しく語り掛け、緩やかな風が頬を撫でた。

「まだ、死ななくてもいいかなぁー」

 ココアの視線の先、赤と黒のグラデーションに半分の月が鈍く光っている。もう、あと数十分で日が暮れる。一日が終わる。俺たちの自殺旅行が、終わるのだ。



 ガタンゴトンと電車に乗って勅使河原まで帰る。

 完全に疲れきったココアとライトは二度と起きないんじゃないかっていうくらい健やかに睡眠を行い俺のことを心配させる。休日の夕方の電車はそれなりに人が多い。スーツ姿のサラリーマンや楽器を背負ったバンドマン、部活帰りらしいジャージ帰りの学生たち。座れたことが奇跡だ。ココアもライトもなぜか俺を真ん中にして座るので、二人とも寄りかかってきて両肩が重い。ちょっと鬱陶しいけど構わない。流石の俺もちょっと疲れて欠伸を繰り返す。ふと、ココアのショルダーバッグが目に入り、このぱんぱんの鞄の中には一体何が入っているのだろうと気になるのだが、やめる。縄が入ってようとカッターが入ってようとライターが入ってようと構わない。それらはきっと、使われることはないだろう。多分、恐らく、暫くの間は。俺は両肩に二人分の重さと体温を感じながら、この平穏ができるだけ長く続くことを願う。この、「心」に「愛」なんて素敵な名前を持つ女の子が、心の底から信頼できる誰かを見つけるまで、『自殺大百科』なんて頭のおかしい本を必要としなくなるまで。『生きていたい』と心の底から思えるようになるまで。

 そんなことを考えながら、俺もまた目を閉じる。俺だって疲れているし、明日は学校だし、俺もライトも学校に行って定期テストを受けなければならない。多分ココアはまだ学校には来ないだろうけど、俺達の時間は明日も明後日もその次も、まだまだずっと続いているのだ。

 俺は安心していた。

 この瞬間の俺はココアが橋の上に立つことも『自殺志願者交流版』を開くことも暫くはないだろうと感じていたし、それを信じきっていた。

 だからこそ忘れていたし気が付かなかったんだ。

 事件というのは、自分の意志とは全く関係のないところから突然やってくるということを。



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