第一章 加藤心愛 13
玄関から出た瞬間、ライトは弾丸のように走り出した。それこそ「ばいばい」「さよなら」を言う前にあっという間に小さくなるものだから驚きだ。どれだけ焦っているのだろうと思うのだけれど、あの母親ならやりかねない。大家族ならではの悩みがあるのだろう。ココアはココアで、ライトのあまりの速さに呆気に取られていて、口が真ん丸になっている。それから「じゃあ帰るわ」「うん」「ばいばい」「ばいばい」なんて他愛無い会話をして俺は帰ることにする。別れる直前、
「ねぇ!」
と、割と大きな声で呼び止められて俺は肩越しに振り返る。するとココアが
「わたしもテル君て呼んでいい?」
なんて言うから、Vサインで答えてやる。
ピカピカの月と星が照らしてくれている道を辿り、俺は2DKのアパートに帰る。財布につけている鍵を使って開けると家の中は外よりもずっとずっと暗くて静かで、誰も知らない海の底みたいだ。電気をつけてその眩しさに目を細め、靴を脱ぐ。台所にかけられているホワイトボードには真美子からの伝言が書かれていて、
『仕事行ってきます。ちゃんと勉強しておきなさい。美人のママより』
宿題忘れてた。うっかりしてたな。なんて思いながらも俺の腹は正直だ。ぐー、という音を合図に冷蔵庫を開けてロールパンを口に放り込む。そしたら鍋に水と鍋の素、適当に切ったキャベツともやしとしめじ、それと短冊に切った油揚げを入れて火にかける。キャベツが何となく透き通ってきたら冷凍のうどんを入れて蓋を閉めて五分待つ。麺がほぐれたら本出汁と味の素を適当に入れて卵を投入、これで完成。これは俺が発明した超簡単料理で、今世で最も役に立つことの一つ。真美子に初めて作ったときは泣かれた。真美子はこの超簡単鍋焼きうどん(鍋のまま食べるから鍋焼きうどん)を、≪
そのとき俺は受験生でのどかが六歳で保育園に通っていて両親は共働きで、俺は自分のことで忙しいのにのどかに飯を食わせておけと言われてちょっと拗ねる。その時の俺は馬鹿で餓鬼だったし思春期真っただ中で年の離れた妹なんて面倒くさい以外になかったのだけれど、流石に二十時を過ぎてロールパン一つしか食べてない幼児を見て見ぬふりすることはできなかった。だから考えた。簡単に素早くできる料理。これは本当に役に立った。キャベツがなければ白菜でもいいし、しめじがなかったらえのきでもいい。もやしは大体いつもある。幸いのどかはなんでも食べる幼児だったので、俺の作った適当なうどんを「おいしい」「おいしい」と言ってよく食べた。
そんなことを考えながら一人で食べる鍋焼きうどんはやっぱりちょっと味気なくてテレビをつける。瞬間、津島花野のドアップが映り俺のことを驚かせる。ドラマの宣伝を兼ねたバラエティらしい。本当、毎日出てるなこいつ。いつ学校に行ってるんだよ。
うどんを食べ終わって鍋を洗っていると、ライトからLINEが入る。
『お前本気?』
本気? って、なんの話だ?
俺は濡れた手をタオルで拭いて返信する。
『なんの話?』
ライトからの返事はすぐに来る。暇だなこいつ。
『自殺の話だよ』
ああ。
俺は濡れたままの食器を拭くこともせず椅子に座り、返信する態勢を取る。
『さぁ。本気なんじゃない』
『さぁ、って言い出しっぺはお前だろ』
『言い出したのは俺だけど、それに乗ったのは加藤だよ』
今度の返信は少し空く。お? 終わりか? と思った頃に返信が来る。
『本当に死ぬの?』
知らない。多分ココア次第。
『わかんない』
『わかんないってなんだよ』
『お前はどうなの? 死ぬの?』
多分死なないと思うけど。
俺は続けて返信を打つ。
『来たくなければ来なくていいよ』
もう来ないかな、もう終わりかな、というときに、俺のスマホがまたピコンと鳴る。
『テル、お前加藤にLINE教えなかっただろ。俺のところに来たぞ。テル君のLINE教えてって』
そういえば忘れてた。うっかりしてたな。謝罪の言葉を打っている途中、またライトからLINEが入る。
『お前、いつの間にテル君なんて呼ばれるようになったんだよ』
そこかよ。
ライトの怒りの矛先が『テルくん呼び』に向かっていることに気が付いて、俺は返信することをやめる。スマホはまだピコンピコンなっているけど、ライトと遊ぶ時間は終わった。俺は真美子が帰ってくる前に、この濡れた鍋とか汚れた流しをきちんと奇麗に片づけておかねばならない。
風呂に入ってホワイトボードに真美子への返事を書いて宿題をしていると、ココアからLINEが来る。ていうか、みんなLINE大好きだな。俺と清美だってこんな頻繁にメールのやり取りしなかったぞ。
『加藤です。清水くんから聞きました。テル君ですか?』
なんて返信するべきか俺は少し考えて、簡潔に返す。
『うん』
既読がついてすぐにうさぎが親指を立てているスタンプが押される。かわいい。
『テル君、教えてくれないんだもん。今何してるの?』
『宿題』
『私はゲームしてる。マリコカートシスターズ』
スーファミか。懐かしいな。
『ねぇ、本当にいいの?』
『なにが?』
『瀬の島』
俺は少し考える。目覚まし時計の短針がまるっと一周するのを見守ってから返事をする。
『いいよ』
暫く待って返信が来ないので、俺はスマホを裏にして宿題の続きをやる。数学は好きじゃない。三十分くらいかけて課題を終わらせて、俺は再びスマホを見る。ココアから返事が来ている。
『ありがとう』
それで終わり。
俺は台所で水を飲むついでに冷蔵庫に貼ってある真美子のシフトを確認する。『自殺旅行』、なるべくだったら真美子が日勤の時がいい。もう少ししたら梅雨になるから、その前がいい。今は五月、暑すぎもせず寒すぎもせず、旅行にはいい季節だ。たとえそれが、自殺目的だとしても。
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