第一章 加藤心愛 11

『自殺大百科』は≪鍋島浩之≫が中学生になる頃に発売されたベストセラーだ。当時はまだ有害図書に対する規定がゆるゆるで、中学生でも高校生でも自由に読めた。というか、なぜか高校の図書室に置かれていて、俺も健一も読んだことがある。内容は本当に死に方で、首つり、飛び降り、溺死、ガス中毒など考えられるありとあらゆる自殺の方法が苦しさやインパクトなどの評価付きで載っている。それだけだ。読者に自殺を促す言葉も阻止する言葉も載っていない。ただ単純に、「この死に方は楽だが準備に時間がかかる」とか「この死に方は美しいが死ぬまでの時間がかなりかかる」とかそういうことがかなり客観的に載っているのだ。

 オレンジ色のカーペットの上、マカロンクッションを抱えたココアが下を向いて黙っている。さっきまでワイワイガヤガヤ賑やかだったのにまるでお通夜の会場みたいだ。ライトは俺の隣でドン引きした顔で固まっているし、俺も俺で引いているし呆れている。俺は昔懐かしい『自殺大百科』をパラパラ捲り、丸テーブルを隔てた向こうにいるココアに問いかける。

「おい、お前。この本、どうしたんだよ」

 少し高圧的に問いかける俺。ココアは答えない。ライトが俺とココアの顔を交互に見ては困惑している。

 俺はまた同じことを聞く。

「この本、どうしたんだよ」

 ココアはマカロンクッションを抱きしめたまま固まっていて、一言も話さない。ぴくりともしない。うんともすんとも言わない。俺は結構短気だ。それを知っているライトは、両手をあわあわさせながら心配そうに俺を見ている。一度たりともこっちを見ようとしないココアに俺は少しイライラする。清美そっくりだ。都合が悪くなると清美はいつも黙る。意味もなく『自殺大百科』の表紙を指先で叩く。俺は顎先を上げて、言う。

「おい――」

「通販で買ったの!」

 俺が完全に言い切る前にココアが叫ぶ。

「検索していたらあったの! 百円で買えたから、だから買ったの! そっちの、他の本も全部そう!」

 堰を切ったように叫ぶココアの顔は、未だクッションに埋もれたままだ。俺を止めようとするライトの両手をすり抜けて俺は立ち上がり、本棚の下に散らばっている別の本も回収する。付箋がつけてあるページを捲る。『入水自殺のやり方』後ろから覗き込んできたライトがひっ、と小さく悲鳴を上げる。

 俺はページを開いたまま振り向いて、クッションに顔を埋めて居るココアに問う。

「何、お前そんなに死にたかったの」

 ココアはクッションに顔を埋めたまま唸るように首を振る。

「じゃあなんでこんな本買ってるんだよ。この本、有害図書に指定されてるから、今は殆ど手に入らないはずだろ」

 これは本当。近年青少年保護育成条例の改正に基づき、各種様々な漫画や本が青少年に悪影響を与えるとされ、どんどん本屋から消えていった。本屋になんてあるはずがない。というか、まずメディアにこの本の名前が挙がることがない。俺でさえ今の今まで忘れていたこんな本が、どうして今平成のこの世界を生きているココアが知り、持つことになったのだろうか。

 クッションに顔を押し付けていたココアが少しだけ顔を上げ、呟く。

「……教えてもらったの」

「誰に」

「……自殺サイト」

「自殺サイト?」

 聞きなれない名前に俺とライトは顔を見合わせる。そしてココアが顔を上げ、のろのろ漸く立ち上がる。行きついたのはパソコンの前で、ゆっくりと、ひどく緩慢な様子で立ち上げる。打ち込まれるパスワード。ロック画面はうまそうなケーキだ。その、ケーキが消えて、画面全体が真っ黒でおどろおどろしいものに変わる。

 画面上に気持ちの悪い文字でこう書かれている。

『自殺志願者交流版』

 スクロールすると色んな注意書きが書いてある。ナンパは禁止、警察の人が見ているということを忘れないで、個人情報のやり取りは禁止、などなど。エンターを押すと、チャット画面が表示される。


【今日も親に怒られた。死にたい】

【全然仕事がうまくいかない。失敗ばかり。死ね死ね死ね死ね死ね死ね……】

【もうやだ。全部無理。なんで生まれてきちゃったんだろう。死にたいのに自分で死ぬほどの勇気もない。誰か殺して……】


 なんて、ぐちゃぐちゃの泥水よりも濃くてセメントよりも重い悪意よりも強烈なものがディスプレイの向こう側から俺たちに襲い掛かってくる。強烈な呪怨。とんでもない負のパワーだ。一気に飲まれそうになる。俺は顔を青くしてパソコンから一歩引くのだけれど、ライトは完全にやられたらしく、口を押えてばたばたと廊下に出ていく。多分向かう先はトイレだろう。暫くして、ザー、という水を流す音が聞こえてきた。

 ココアは冷たい顔でマウスを動かしていたのだけれど、ある書き込みを見つけてスクロールをやめる。画面を覗き込み、俺は問う。

「この、ミルクココアってお前?」

 こくん、とココアが頷く。


【みんなヤダ。親も先生もみんな嫌い。友達なんて頼りにならない。早く死にたい。なんでこんな世の中に生まれてきちゃったんだろう。生きてたっていいことなんて全然ない。でも死に方なんてわかんない。どうすれば楽に死ねるんだろう】

【ミルクココアさん初めまして。わたしもそうです。でもいい本を見つけました。今この本で、どの死に方が一番いいか研究をしています】

【ケチャップマンさん初めまして。それはどんな本ですか?】

【自殺大百科という本です。だいぶ昔の本で、今は殆ど手に入れることはできませんが、おそらく通販なら手に入れることができますよ】


 俺は頭が痛くなる。馬鹿みたいだ。というか、馬鹿じゃないのかこいつ。おい、健一。お前の娘、お前が汗水たらして稼いだ金で、こんな馬鹿なことしてるんだぞ。

「それでお前、こんな馬鹿みたいな本買ったのか」

「……馬鹿じゃないよ。ネットで探したら百円で、だから買ったの」

「馬鹿だよ。手数料考えたら百円じゃ済まないだろうが。そんなもん、マルコシでファミリーパックの菓子買ったほうがましだ」

 俺はあーあと呟いて、『自殺大百科』を放り投げる。放り投げたそれがばさばさばさと音を立ててベッドに落ちた。ココアの顔が険しくなる。

「それ、わたしの本だよ。乱暴にしないで」

「乱暴にするわこんなもん。腹の足しにもならない」

 後姿のココアが少し怒っているのがわかる。でも俺はやめない。俺は少しばかり乱暴にその場に座り込んで、続ける。ライトはまだこない。多分トイレで死んでいる。この雰囲気を変えるやつがいないことを知っていて、俺は言う。

「この本読んで、雨の中あんな汚い川に飛び込もうとして、そんで失敗したんだろ。それのどこが無駄なんだよ。無駄以外の何物でもないだろ」

 そしてココアがキレる。目を見開いて、キレたときの健一そっくりの顔で、怒鳴る。

「辰巳くんにはわかんない!」

 ココアが放った弾丸は俺の顔をめがけてやってくるのだが、どうやら俺には効果がなかったらしく俺の体を素通りして、トイレから戻ってきたライトに直撃し、ライトの腹に風穴を空ける。鬼のような形相のココアと涼しい顔で胡坐をかいている俺。倒れ込むライト。階段から「どうかしたのー?」という心配そうな清美の声が聞こえてきた。ココアの怒鳴り声が下まで響いていたのだろう。ライトが慌てて起き上り、階段下に向かって叫ぶ。

「大丈夫ですー。すいませんー、ゲームの話ですー」

 ライトのよくわからない説明で納得したのかなんなのか、それ以降清美の声は聞こえない。ナイスアシストライト。今清美に、ここまで来てもらっては困るのだ。

 ココアと睨み合うこと、どれくらいだろう。十秒か、二十秒か、もしくはもっと長いか、短かったのかもしれない。

 ココアの顔を見飽きた俺は、テーブルに置いていた開けっ放しのコーラを飲み干す。まずい。炭酸が抜けきって、本当にただの砂糖水だ。薬品みたいな匂いがする。それから、まだ俺を睨み続けているココアに思いつきで提案する。

「じゃあ俺とする?」

「は?」

「自殺」

「……はぁ?」

 俺の適当な提案に、ココアが阿保みたいな顔で阿保みたいな声を上げる。後ろを振り向くと、まだ立ち続けているライトも口を開けて阿保みたいな表情をしているので、俺は思わず笑ってしまった。


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