第一章 加藤心愛 9
「なぁ、加藤んち行ってみない?」
放課後、昇降口にて。ライトから出された予想外の提案に、俺はぽかんと口を開けた。
「加藤? って、加藤心愛?」
「そう、加藤。昨日、俺、家でゲームの続きしてたんだけどさ。なかなかうまくいかなくて」
「ゲームの続き? って、DEVIL EATER?」
「そう。難易度10のベリアルで死んでる」
俺は下駄箱から靴を出して放り投げると、
「別にいいけどさ。なんで加藤んち? お前んちは?」
靴を履きながら言う俺に、ライトが全力で首を振る。
「冗談! お前も知ってるだろ? 俺んち、昨日から一番上の兄貴一家が来てて超うるさいんだよ。姪っ子と甥っ子がテレビを占領するどころか、俺の部屋まで完全に乗っ取られてるんだから! 俺昨日どこで寝たと思う? 台所だよ台所!」
清水家におけるライトのヒエラルヒーは圧倒的に底辺で、兄姉だけではなく姪っ子甥っ子にさえも馬鹿にされる。下手すれば庭で飼ってる犬のベスにも勝てない。
「じゃあ俺んちは?」
するとライトはなぜか顔を赤らめて視線を落とした。俺たちの横を、運動部のやつらがやかましく通り過ぎていく。そいつらが遠くなり完全に消え去ったあと、ライトは俺の耳元に口を寄せ、小声で言った。
「昨日、加藤とLINEしたんだ。ゲームがクリアできない、って言ったらじゃあうちくれば、他にも色んなゲームあるよ、って」
へぇ。ライト、お前、わかりやすいやつだったんだな。
「いいけどさ。でも俺、加藤んち知らないよ」
「大丈夫、聞いたから。スーパーマルコシの裏だって」
「スーパーマルコシって、星屑川の近くの?」
「そう。表札が出てるからすぐにわかるってよ」
ふーん。
俺は半ば駆け足で帰路を行くライトにくっついて、いつもより早めに家に帰る。パーカーとジーパンに着替え、ワンショルダーの中に財布と携帯、それとラッキーアイテムの旅行雑誌「るぶぶ」を突っ込み家を出る。自転車に乗り「スーパーマルコシ」に向かうとそこにはすでにシャツとハーフパンツのライトが待機していて、俺のことを驚かせた。
「早かったな」
「うん。急いできたから」
スーパーマルコシの裏には家が三件並んでいて、一軒一軒表札がついている。加藤の家は一番右端の茶色い家。
『加藤健一』
その名前に俺は思わず、うん? と首を傾げる。健一。加藤健一、って、あの健一だよな。まさか、そんな。
なんて俺がぐるぐる考えている間にライトが勝手に呼び出し鈴を押す。
『はぁい』
インターホンから漏れる聞き覚えのある女の声に、俺は思わず反応を示す。
「もしもし。俺たち、加藤さんの友達なんですけど」
ライトの言葉に、女がインターホン越しでもわかるくらい困惑した声を出した。
『あら……心愛の?』
「はい。俺たち、昨日から約束してたんですけど」
それから家の中からぱたぱたというスリッパの音が聞こえてきて、施錠が開いた。がちゃり。そこから出てきた顔に俺は驚く。
「いらっしゃい」
清美だ。
俺の、鍋島浩之の彼女だった女だ。
阿部清美とは大学二年のときにバイト先のドーナツ屋で知り合った。
その時の清美はまだ入ったばかりの新人で、気が弱くていまいち頼りなくて社員のお局に嫌味を言われたりお釣りをよく間違えたりしてバイト終わりによく泣いていた。俺は最初随分頼りない子が入ってきたなとあまりよく思っていなかったのだけれど、あるとき清美が従業員の間で有名なセクハラ親父にクレームを受けていて、それを俺が助けたことで清美から告白されて、付き合い始めた。
「ごめんなさいね。今、心愛少し出かけていて。すぐに戻ると思うから」
リビングに通され、俺とライトは清美からおもてなしを受ける。
よく掃除のされた綺麗な部屋だ。ソファ、テーブル、カーペットのどこにも、埃のひとつも落ちていない。大きな窓からはてかてかと日差しが降り注いで、飾られた植物を照らしている。
俺もライトも普段めったにお目にかかることのないテーブルクロスの上に置かれたコースターと、白いカップ。薫り高い紅茶がスーパーマルコシで三百円で売っている代物でないことは俺でもわかる。ライトなんて少し震えている。
「知らなかったわ。心愛にボーイフレンドが二人もいるなんて」
十五年ぶりの清美。
お盆にクッキーを乗せて持ってきた清美は完全に主婦だ。茶色かった髪が黒くなり、落ち着きが出た。痩せた気がする。俺の知っている清美は少しばかりぽっちゃりしていたからだ。老けたな、と思う。当たり前だ。清美はもう、三十九歳になっている。
俺は十五年ぶりの清美との対峙に少しばかり緊張していて、なんだお前、結婚したのかよ、とか、お前がココアの母親かよ、とか、旦那ってもしかしてあいつかよ、とかいつの間に結婚してたんだよとか色んな事を考えてついつい爆発しそうになるがそのたびにクッキーを食べてはそれに耐える。そして、この場に清水頼人がいることを心から感謝する。ライトはライトで、「同級生の女の子の母親」にかなり緊張しているらしいがそれでもいないよりマシだ。もしこの場にライトが存在しなかったら、俺は一体、どうしていたかわからない。
俺とライトは、清美に話題を振られるままぽつりぽつりと会話をして、五枚目のクッキーに手を伸ばしたところでココアが帰ってくる。廊下からリビングを覗いて俺たちがいることにびっくりしたらしい心愛は目を開いた。
「おかえりなさい、心愛ちゃん」
「……ただいま」
「お友達が来てるわよ」
「そんなの見てわかるよ。わたしが呼んだの」
清美の一言一言に、ココアはひどく面倒くさそうに相槌を打った。それから、ひょいと俺たちの方を向いて
「ねぇ、わたしの部屋来なよ。ジュースは買ってきたから。ペットボトルだけど、いいよね」
テーブルの真ん中に置かれたクッキーの皿を持って、速足気味にリビングを出ていくココア。置き去りにされた俺たち。清美は胸の前で両手を合わせて、なんとも心細げに佇んでいる。俺とライトがどうしていいかわからず座っていると、階段の上辺りからココアに呼ばれる。
「早くー」
その声に慌てて立ち上がり、リビングを出る。肩越しに振り向くと、清美が寂しそうに笑っていた。
「ゆっくりしていってね」
その表情に俺はつい立ち止まってしまうのだけれど、再度二階から聞こえてきた呼び声に階段を登り始めた。
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