第一章 加藤心愛 8

 朝起きると雨は完全に止んでいた。

 泥酔して帰ってきた真美子はまだ寝ていて、俺はパンと紅茶の簡単な朝食を摂りながら『モーニングタイム』を視聴する。我が山羊座が五位。ラッキーアイテムは旅行雑誌。そういえばこの前、真美子が職場から貰ってきたものがある。

 雨上がりの朝はとても綺麗だ。淀んだ空気が雨で洗浄されたかのように澄んでいて、木の葉に乗った雫が太陽を反射しキラキラ光る。道路を封鎖する水たまりを鏡代わりに、ランドセルを背負った女の子が前髪を懸命に直していた。かわいい。ほのぼのとした気持ちでそれを眺めていると、後ろからブォオォオォというエンジン音が聞こえてきたので慌てて避ける。予想通り車の車輪が大きな水たまりに突っ込んで、水を跳ねた。

「わっ!」

 悲鳴が聞こえて振り向くと、びしゃびしゃのライトが泣きそうな顔で立っていた。おいライト、お前もしかして、水難の相でも出てるんじゃないのか?


「今日の獅子座一位だった」

 なんて言いながら今日もまたジャージに着替えるライトを、河辺苺と西本希来里がまた馬鹿にする。

「水難の相出てるよあんた」

「一位って何? 下から一位の間違いでしょ?」

「男のくせに占いなんて信じるからいけないんだよ」

 誰かの机に座り誰かの椅子を恐らく一度も洗っていないであろう上履きで蹴飛ばす河辺と西本のパンツはやっぱり見えているのだけれど、俺の心はやっぱりぴくりとも動かない。それ以上に気になったのは河辺が座っている誰かの席。誰の席だったか思い出せずに見つめていると、何を勘違いしたのか河辺がにやにや笑う。

「やだテルル。パンツ見ないでよスケベ」

 見てねーよ。

 チャイムが鳴る少し前にのどかがやってきて教壇に立つ。長い髪を項の辺りで纏めたのどかはダークグレイのスーツを着ていて、ちゃんとした教師に見える。のどかの両手は名簿の上に置かれていて、それを開いて出席を始める。

 阿部義彦。上野元久。小田美咲。

 出席番号十五番の俺は少し先なので欠伸をするくらいの余裕がある。俺の心は未だ半分夢の中で、気を抜けばいつでも飛び立てる。けれど、その、飛び立とうとしている俺の意識をのどかが止める。

「加藤心愛さん」

 まだぎこちないのどかの呼名に、俺は知る。俺は気が付く。あれはココアだ。先ほど、パンツ丸出しの川辺が座っていた誰かの席はココアの席なんだ。でものどかは、そんな俺の発見や感動を知ることもなく緊張した面持ちで出席を取り続ける。

「辰巳輝大さん」

 はい。

 のどか先生担当の国語はつつがなく進む。春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の補足たなびきたる。

「あけぼのというのは夜がほのぼのと明けようとしている頃をいいます。日が昇るにつれて暗かった空が白んでいく、山際の、つまり――」

 のどかの緊張しきった声を聴きながら、俺は窓の外を見る。

 GWが終わったばかりの五月の空はすこーんと抜けるくらいの青が広がり、そこをふわふわとしたクジラが泳いでいる。時折飛行機が横切り長い線を残していくその場所には、悩みも迷いも何もない。飛んでは周りまた飛んでいく鳥を束縛するものは何もない。自由だ。あまりにも自由すぎる。それに比べて教室はなんだ。俺たちの方こそ籠の鳥だ。欠伸をして目を閉じて涙を擦ってまた目を開く。ココアの席が見えた。誰もいない、あるだけの席。当たり前だ、そこにあるだけなんだから。でも、今日からは違う。昨日までは「ただそこにあるだけの席」だったのが「加藤心愛の席」になる。これはなかなか重要だ。少なくとも、俺にとっては。

 暖かな日差しとメトロノームのようなのどかの声に、俺の意識は徐々に徐々に沈んでいく。まったくいい日だ。静かで、のんびりしていて、落ち着いていて……

「……のどかだよなぁ」

 夢現の俺が発した呟きを、前の席でペン回しをしていたライトが拾う。

「ねぇ、のどかちゃん。のどかちゃんて春生まれなのー?」

 ライトの言葉に、黒板にチョークを走らせる手を止めることなくのどかが答える。

「鍋島先生でしょ」

「ナベシマセンセーは春生まれなの?」

 ライトの質問に、枕草子に飽きていたクラスメイトが乗る。

「ライトお前なんでそんなこと聞いてんの?」

「だって春の日のことをのどかっていうじゃん」

「今春じゃねーし。もうすぐ夏だし」

「でも今日の気候は春に近い」

 なんて好き勝手騒ぎだした中学生はなかなか手強い。のどかも「静かにー」とか「授業中でしょー」とか言ってるけど、まどかは実年齢より若く見えるし実際教師の中ではまだまだ若い。更に昨日今日入った人間なので俺たち生徒に完全に舐められている。人間なんてそんなもんだ。ひとりひとりじゃ弱いくせに、集団になると途端に強くなった気分になる。

 のどかは暫く困ったような顔をしていたが、それから心を決めたように両手を叩いた。

「はいはい静かに。お察しの通り、先生は春生まれです。答えてあげるからノート取ってね」

 そう言って再び板書を始めるのどかの背中に、クラスの誰かが声を飛ばした。

「何月?」

「四月よ」

「何日?」

「十九日」

「血液型は?」

「A型です……それ関係ないでしょう?」

 そこで笑い声。でも、笑いながらも大体みんなちゃんとノートを取っている。

「先生は今から三十年前の四月十九日に生まれました。まんまるとした健康なかわいいかわいい女の子です」

「えー、自分で言う?」

 ノートを取るどころか授業を受ける気すらない川辺の机の上には、教科書もノートも何もない。あるのはプリクラとスマホ、ファンデとビューラーのはみ出た化粧ポーチ。

「言います。生まれたときはね、皆が皆かわいいのよ。勿論あなたもね」

 なんて大人の余裕を持ってのどかが言うから、川辺が少し、面食らったような、面白くなさそうな表情をする。

「ねぇセンセー。のどか、って名前、誰がつけたの? まどか、って子なら知ってるけどさ。のどか、ってちょっと珍しいよね」

 誰かのその質問に、のどかが肩越しに振り向いて、ちょっと恥ずかしいような、嬉しいような、それでいて少し照れたような、そんな顔をする。でも決してチョークを動かす手はやめない。カリカリカリとチョークの先で黒板を引っかきながら答えた。

「お兄ちゃんだよ」






 ああ、そうだ。

「のどか」の名前は俺がつけた。

 のどかが生まれたとき、≪《俺》鍋島浩之≫はまだ九歳で小学三年生で、「のどか」という単語の意味を理解習得したばかりだった。うららかな春の日。静かでのんびりしている様。青い空も白い雲も太陽の光に透ける木々も全部が全部、キラキラ綺麗に輝いて見えた。病院へ向かう途中、車の中から見た光景はまさしくのどかな光景で、もし赤ちゃんが女の子なら、名前は絶対のどかにしようと俺は心に決めていたのだ。

「のどかって名前がいい」という俺の提案に、父さんと母さんは少し渋った。特に父さん。愛娘の誕生に浮かれていた父さんは、女の子の名前を大量に用意していたらしい。でも、父さんが名前を決めるよりも先に九歳の俺が「のどか」「のどか」と呼びながらあやしたり抱っこをしたりしてしまったので、もう「のどか」以外の選択肢がなくなってしまい、泣く泣く折れたのだ。






 今年三十歳を迎えた鍋島先生はそれ以上話す気はないようで、「センセーお兄ちゃんいるのー?」とか「お兄さんどんなひとなのー?」とかいう野次をすべてかわす。そしてチョークを置き手を叩いて両手の粉を落とし、振り返った。

「この話は終わり。早くノート移さないと、消すからね」

 その瞬間、俺の中の「小さなのどか」が消えて三十歳の「鍋島先生」に変わる。一斉に下を向きノートを広げる級友たちは完全に囚人だ。窓の外、青い空を一匹の鳥が飛んでいく。俺はそいつらが見えなくなるまで見送って、シャーペンを手に取った。


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