第16話14章



【14】




 チェスター。



 名を呼ぶ。

 既に心で呼んでいるのか口で呼んでいるのかも分からなかった。

 大剣を手に、走る。

 走り続ける。

 出血も気にならなかった。

 急かすような胸の奥。その痛みの方が強い。


 先ほどチェスターと別れた場所まで戻る。


 部屋に飛び込み、荒い呼吸で室内を見たバートラムは目を見開く。


 チェスターが長く吼えた。

 その吼え声は弱い。

 

 先ほどまで元気だったバートラムの片割れは、全身に深い傷を負い、出血していた。

 床に伏せた姿勢。

 伸びた前足に光が纏う。

 魔力の光。

 竜を封じる、呪文。


「チェスター!!」


 叫んで駆け寄る。



 チェスターが許される範囲で顔を上げ、吼えた。

 危険を訴える声。


 何も考えずに反応のみで左側に剣を構えた。

 衝撃。

 剣を持つ手までが冷える感触に、氷の呪文だと悟る。


 チェスターまでまだ少し距離がある。

 だが敵の姿を確認せぬまま動けない。

 バートラムはそこで動きを止める。


「誰だっ!」


 柱が何本も並ぶ。

 その一本の背後に誰かがいる。

 僅かに身体を出しただけ。全身を見る事が出来ない。

 片手が柱から完全に出ていた。その手には、広げた巻物を持っている。

 巻物の表面、書かれた文字が幾つか光を放っていた。恐らく、チェスターを戒めている光もこれだ。


「てめぇ――」


 返って来た言葉は笑い。

 押し殺したものだ。

 低い、わざわざ歪めたような声。


「――“神殿”所属、位は魔術士。暴走した愚かな神官に裁きを与えに」。


 名乗りに、バートラムは一瞬だけその言葉を理解出来なかった。

 覚悟はしていた。

 だが、何故――


「なんでチェスターに傷を負わせた」

「片割れを失って飛竜だけが残るのは哀れだ。先に処刑を行おうとしたが、思ったより到着が早かったな、バートラム」


 魔術士と名乗った人物はそれが何か面白い冗談のように身体を震わせ、笑う。

 細い手首が器用に動き、巻物を動かす。

 もう一段、伸びた。

 新たな文字が光り輝く。



「今すぐチェスターの魔法を解け」

「生き残るつもりか、バートラム?」

「死ぬ時はてめぇの手なんぞ借りずに死ぬ」

「そうかそうか」


 笑い、魔術師は微かに何かを呟く。

 巻物の上で文字が幾つか消えた。

 

 横目でチェスターを見る。

 身体の上を走っていた光が消えた。

 呼吸も少し楽になった。

 それでも傷は重い。


「――黙ってろよ」


 片割れにそう言葉を投げ、魔術師を見た。

 魔術師はいまだ柱の陰。

 笑い声だけが微かに届く。


 まだ勇者を殺していない。

 チェスターの無事が確認出来たのなら、此処を切り抜け、再度動かなければならない。

 まだ大丈夫だ。

 此処を、切り抜けられれば。


 しかし――と、柱の影の細い手を見る。


 あざな持ちが動くとは思えなかった。

 

 これは処刑だ。

 先ほど魔術士が言ったように、処刑なのだ。



「何の弁明もさせずに処刑ってパターンは珍しいな、しかもお前が出陣と来た」

「お前の罪は重い」


 魔術師の声は楽しげだ。

 何がそんなに楽しいのか。


「どう重いって言うんだ? このシルスティンを滅ぼした罪か? 罪無い一般市民を黒竜に食い殺させた罪か? 仲間を裏切った罪か?」

「そんな事はどうでもいい。些細な事だ。――ただお前は場を揃え過ぎた」

「……?」


 場?

 

 何を言ってるんだ?



「黒竜に冥王の部下――そして器。女神の魂さえも用意して、これでは冥王を作り出す絶好の場所だ」

「待て、何の話だ?」


 器は来ている。

 それは間違いない。


 だが――女神の魂?


 そんなものは知らない。

 魂とは化身の事か?

 女神の魂の一部を受け継いだ女たち。

 第一、まだ生き残っているのか?


 女神の化身は全部始末した筈だ。

 女神本来の姿を真似た、幼い少女の肉を持った神々の裏切り者。堕ちた存在。それならば、もう幾人も始末した筈だ。


 自身の力に耐え切れず、自ら朽ちた者もいる。

 他のまったく関係無い者に殺された女神の化身もいた。


 だからもうこの大陸にはニセモノの女神はいない。


 しかし――生き残っているのか?


「此処はシルスティン。堕ちた女神をいまだ崇める愚か者の国。女神の加護もいまだに在る」


 故に。



 魔術師はやはり笑って言った。


「冥王が目覚める。――冥王と言う存在に至る」

「……器が、選ばれるのか?」


 魔術師は答えず笑う。

 ただバートラムの名を呼んだ。


「お前はもういい。皆がお前の始末を決めた。――何、後はこちらに任せて死ね」


 死ね。


 もう一度、繰り返す。

 広げた巻物の文字が輝く。


 幾つもの氷の矢が浮いた。

 術者の魔力に比例するそれは、既に十を超えている。

 全弾は避けきれない。急所のみを避けて魔術師に近付く。

 胸の傷は痛む。

 だが、あそこまでは辿り付ける。

 

 辿り付かねば、殺される。


 魔術士の接近戦は大した事が無い。剣は一応扱えるらしいが児戯に等しい。


 しかし接近戦に持ち込めねば、同じ事だ。



 氷の矢が動いた。

 魔術師の指先ひとつで、走り出す。



 バートラム、と、微かな声が彼を呼ぶ。

 その声に一瞬動きを止めたバートラムの前を、火炎が走った。


 チェスターのブレス。

 炎は氷の矢を溶かし尽くす。

 バートラムの前に何の障害も無い。


 炎の壁が消えると同時に走った。

 柱の陰へ、真っ直ぐに。


「ふ――ふざけるなっ!!」


 魔術師が叫んだ。


 巻物が光るのが見えた。

 同時に炎が巻き起こる。

 チェスターのブレスよりと等しい、爆発するような火炎。


 その爆発は、バートラムの目の前で起こった。


 身体が大きく飛んだ。

 壁に叩き付けられ、止まる。


 チェスターが鳴いた。

 バートラムの名を呼んでいる。

 それに答えてやろうとしたが、既に声も出なかった。

 視界が狭い。

 胸の傷の痛みは分からなかった。

 全身が、痛い。



 自分の手足はちゃんと残っているのだろうか。

 それどころか生きているのだろうか。


 魔術師が立った。

 チェスターに向かい手を――


 やめろ、の声は届かなかった。


 光の矢。

 

 ブレスは無かった。

 チェスターは傷だらけだった。

 先ほどのブレスでもう力は尽くした。


 喰らう。

 矢を。

 何本も、何本も。

 喰らい続ける。


 チェスターの頭が落ちるのが見えた。


 魔術師がこちらを見る。

 笑う。

 その顔は既に見えない。

 すべてが闇に落ち行く。


「――愚か者」


 笑う声が言う。


「お前は結局何もしていない。場所をそろえた愚か者。愚か者は愚か者らしく、潔く死ぬが良い。――お前の名は国を滅ぼした大罪人として永遠に刻まれる」



 それだけだ、それだけだ。



 笑って、魔術師は何かをこちらに放り投げてきた。

 手の近くに落ちたそれを握り締める。

 小さな弾丸。

 

 傷の痛み以上の不快感を覚えた。


 これは――?


「滅竜式弾丸」


 笑う、声。


「お前だけが死に、竜が残るのは哀れだろう。それを喰らわせてやれ。竜は跡形も無く腐り果てる」



 魔術師が笑う。

 歩き出す、音。




 それから、沈黙。





 沈黙の中、微かな音。

 引きずる音。


 見ずとも分かる。

 チェスターが傷付いた身体を這わせ、こちらに近付いてくるのだ。

 床に置いたままの滅竜式弾丸を持った手に、チェスターが顔を寄せた。

 手を、上げる。

 自分の身体ではないように動かない手を、ゆっくり、上げる。

 チェスターを撫でてやろうと思った。


 だが、そこまでの動きはもう無理だった。


 持ち上がった手が膝の上に落ちた。

 それしか持ち上がらなかったのだ。


 バートラムは笑うしかない。


 何なのだろう、この馬鹿話は。

 喜劇だ。

 本当に、喜劇だ。


 何も果たせなかった。

 


 シルスティンが辿るだろう滅びの道を、ほんの少し早めただけ。

 堕ちた女神を崇める国。

 この国を――既に“神殿”は不要と判断している。

 何らかの手段を用いて滅ぼされる。

 時が来れば、バートラムはその尖兵として戦う筈だった。


 だからこの国に入り込んだ。

 当時は神聖騎士団の一員として。

 竜を得てからは竜騎士として。

 

 しかし、許せなかった。

 勇者に従うのだけは。

 あれは――冥王よりも性質が悪い。

 もっとも恐るべき存在。


 どうせこの国は滅ぼされる。

 一個の命も残らずに殺される。

 ならば、それに勇者の命を加えても問題は無い。


 

 バートラムは微かに息を吐いた。



 この大騒ぎを起こさなくとも、きっと自分は処刑されていただろう。

 命令を無視した。

 何度も、何度も。


 シズハを始末しろと言う命令。

 何度も、無視した。

 それどころか守った。

 逃がそうと動きさえした。




 ――馬鹿野郎。


 バートラムは笑う。


 テオドールやキリコを思い出した。

 小さな小さな手を伸ばし、笑う、赤子のシズハを思い出した。

 家族、の、ようなものだ。

 

 殺せる訳が、ない。

 


 心で呟いて、笑った。


 



 視界が暗い。

 ますます暗くなる。

 闇のような視界の中、チェスターの存在のみを感じる。

 何もかも消えていく。


 これが死か。


 随分と……恐ろしい。



 チェスター。

 


 呼ぶ。



 片割れを、呼ぶ。



 頼む、チェスター。




 俺を、殺してくれ。




 怖い。

 死が怖い。

 こんな無様な俺なんか、早く殺してくれ、チェスター。



 動く気配。





 ――分かった。

 



 チェスターの声が心に響く。




 片割れよ――願いは聞き届けた。



 バートラムは今度こそしっかりと唇に笑みを与えた。




 その彼に、竜の牙が食い込んだ。

 肉が裂かれ、骨が断たれ――人体が破壊される音が、沈黙の場所に響いた。









 チェスターは口元を血に塗れさせ、ゆっくりと頭部を床に落とした。


 顎の下には下半身だけとなった己の片割れがある。

 その亡骸を守るように身を寄せた。


 瞳を閉じる。


 バートラムの身体と共に彼が持っていた弾丸を喰らった。

 胃の中に熱がある。


 内側からでも弾丸は竜を殺す。

 間もなく、己は死ぬ。



 バートラム。


 呼び掛け、瞳を開く。



 愚か者。

 愚かな私の片割れ。


 全ての人間はお前を罪人と言うだろう。

 狂人と、悪人と。

 誰一人としてお前を赦す者などいないだろう。


 だが私は知っている。

 お前の痛みも、悲しみも、迷いも、すべて。


 だから私はお前を赦そう。

 他の誰が赦さずとも、私はお前の全てを赦そう。


 そして共に眠ろう。

 お前の罪を止められなかった罪を、私は背負おう。



 バートラム。



 呼び掛けと共に、火竜の腹部が腐り落ちる。変色した内臓が床に重い音を立てて散らばった。

 紅い鱗を腐敗の色が辿っていく。


 それでもまだ、火竜の片方だけの目には理性の色があった。



 首まで、腐敗が進む。



 バートラム――




 呼び掛けを最後に、火竜は瞳を閉じた。



 そして腐敗は全てを覆った。




 残されたのは残骸の屍体と、飛竜の骨がひとつだけだった。

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