第16話15章


【15】





「……忘れた?」


 忘れたのかと問われ、シズハは疑問符を返す。

 自分は何を忘れたと言うのか。

 この黒竜に会った事があるのだろうか?



 シズハの言葉に黒竜は何か答えかけた。

 口の中で幾つか言葉を呟き、確かに何かを言いかけた。


 だが、その言葉は形にならなかった。


 黒竜は迷っている。


 ――我を、忘れたのか?



 問い掛けは頼りない。

 たった一匹でシルスティン竜騎士団を相手に戦った飛竜とは思えないほどの弱さ。

 まるで幼い、子供の飛竜を相手にしているような気分になる。



 シズハは思わず手を伸ばす。


「し、シズハさん……」

「大丈夫です」


 何の迷いも無く言葉が出た。

 伸ばした手に、黒竜が顔を寄せる。

 瞳を閉じたその鼻面を撫でてやった。

 指先が感じる鱗。他の飛竜と何も変わらない。他の飛竜では一度も見た事が無い艶やかな黒。それだけが違い。


 イルノリアは黒竜を見ている。

 彼女からの声は無い。

 黒竜を黙って見ている。

 

 その瞳に浮かぶ、微かな期待の色。





 あぁ、と。


 黒竜が小さく唸った。


 

 ――満ちている。満ちているのだな。



「何が……?」



 ――お前の心。お前の魂。我だけでは埋めきれぬ虚ろが、今は無い。



 黒竜が瞳を開く。

 竜が、笑った気がした。



 ――良かった……。



 ため息のような柔らかい声。

 

 思わず両腕で竜の頭を抱く。

 腕は回りきらない。

 それでも抱きしめ、顔を寄せる。


 竜が笑った。

 竜の声で、吼えるように笑う。


 瞳を閉じ、低く喉を鳴らすように。

 

 これが黒竜?


 怖くない。

 恐ろしくない。

 それどころか、不思議と懐かしい気さえする。



 どれほどの長い時、そうしていたのだろう。



 黒竜がゆっくりと身体を起こした。



 黒竜の瞳が揺れる。

 先ほどまでの理性ある色ではなく、そこにあるのは獣の色。


 唸る声。



「――来い、ボルトラック」



 黒竜が動き、その呼び名が黒竜の名だと知った。

 ボルトラック。

 口の中で小さく呟く。

 竜が闇よりも深い瞳でシズハを見た。


 だが、来いと命じた人の方へと向き直る。

 巨大な頭部を寄せ、命令を待つように瞳を閉じた。


 そのボルトラックの漆黒の鱗を撫でたのは、ヒューマだった。

 片手にボウガンを持ち、もう片方の手を黒竜に這わせる。



「――ヒューマ!」


 叫んだ名。

 真横。イルノリアが翼を広げる。威嚇の声。シズハの怒りに反応して、優しい銀竜も怒りを見せる。


 

 ヒューマは怒りを受けても動じない。

 微かに鼻を鳴らす。


「遅かったな」


 もっと早く来ると思っていた。


「ボルトラック」


 名を呼ばれ、黒竜は瞳を開く。


「少し、遊んでやれ」


 黒竜が頷いたように見えた。

 その巨大な頭がこちらを見――動いた。



 咄嗟にミカを突き飛ばし、逆側に飛ぶ。

 黒竜はその間に顔を突っ込ませた。


「痛たたたたぁ……」


 黒竜の向こう側、ミカがしりもちを付いてそんな事をうなっているのが見えた。

 シズハの背後でイルノリアがゆっくりと降り立つ。

 

 黒竜は歯を鳴らしていた。

 牙の端から唾液が垂れているのが見える。

 先ほどの人語を操った飛竜と同体とは思えぬ獣の表情。


 どうすればいいのだろうか。

 シズハは自分の武器を思う。

 ショートソード。それから――。

 視線を落とす。

 影。

 あの、黒い騎士はいまだ自分の影の中にいるのか。

 呼び出せるのか?


 黒竜が吼えた。

 顔を上げる。 

 左右。

 シズハたちとミカを、交互に見る。

 どちらが獲物に相応しいかを選択しているように。


 そして黒竜が選んだのはシズハだった。


 短い距離を這うように襲い掛かってくる。


 イルノリアの手綱を掴み、その背に乗る。上空へ飛ぶと同時にすぐ真下を黒竜が走った。

 天井が高い部屋で助かった。

 黒竜を見下ろせる位置。

 そして、黒竜はいまだ牙を鳴らし、こちらを見上げてくる。

 食べ損ねた獲物を狙っている。


 黒竜が首を伸ばした。

 黒い翼が広がる。

 上に、来る。


 幾ら広い部屋とは言え、黒竜サイズの飛竜に襲われては逃げ道が無い。

 更に上へと逃げるように手綱で合図し、上へ。


 だが、黒竜は予想よりも早い。

 すぐ真下に黒の色が見えた。


 牙が並ぶ口が見えた。

 口内は紅いのだと、そんな事を考えた。


 その奥に、黒い色。

 もっとも深い、黒。


 ――ブレス。



 近距離過ぎる。

 避けきれない。


 イルノリアが身を縮めた。

 横に避けようと身体を動かす。

 それよりも早く、ブレスは吐き出される。



 轟、と。


 耳の横で音が響いた。


 闇のブレスはシズハたちの真横を突き抜けた。

 


 ――外れた?



 視線を微かにそちらに向けて見る。

 壁に穴が開いていた。

 明るい光が差す空間。

 


 そして、魔法の光に照らされたステンドグラスが見えた。


 ――聖堂。



 記憶の通りならば聖堂は此処よりも広い。

 数百人が一度に入る場所だ。

 そして聖堂には複数の入り口が存在していた。

 逃げ道があるかもしれない。


「イルノリア」


 隙を見て聖堂へ行く。

 シズハのその考えを読み取ってくれたらしい。

 イルノリアは小さく同意の声で鳴いた。


 黒竜は唸ったまま動かない。

 シズハたちの様子を見ているような動き。


 ヒューマの言葉を思い出した。

 遊んでやれ、と。

 つまりこれは遊びか。

 シズハを殺すつもりはないのか。


 視線を床に向ければ、ヒューマは笑みで見上げてくる。

 その笑みの醜さにぞっとした。



 黒竜と視線を合わせたまま、動く。

 聖堂へと、少しずつ、移動する。


 聖堂へと開いた穴を背に確認した。

 背後の穴は既に閉じつつある。

 だが小柄なイルノリアなら十分潜り抜けられる。


 手綱を操り、方向転換。

 そのまま、小さな穴へと身を躍らせる。



 翼が軽く闇に触れた。

 イルノリアがぶるりと身を震わせる。

 宥めるように首を撫でつつ、ゆっくりと聖堂を見回した。

 銀の女神を崇める場所。


 ――冥王と呼ばれる人の男を、愛した女神。


 聖母像が飾られている。

 母と呼ばれる女神にしては幼い、あどけない顔立ちの少女像。

 

 ――少しだけイブを思い出した。


 

 聖堂は見た目は変わっていなかった。

 壁も白いまま。聖母の奇跡をモチーフにしたステンドグラスも美しいままだ。

 シズハは無意識に息を吐く。


「――シズハさん!」


 真下からの声。

 見れば、ミカが手を振っている。

 ゆっくりと並ぶ椅子の間に降り立つ。


 ミカは頬を膨らませた。


「もう勝手に行かないで下さいよ。黒竜と残されるなんて物凄いショックですから」

「スイマセン」


 謝りつつ、ミカの背後を見る。

 扉。


 指差した。


「そこから?」

「入ってきましたよ、普通に。黒竜にばれないようにこそこそ」

「では黒竜は隣の部屋に」

「いますよ。穴の前でぐるぐるしてました」


 ミカは手を打ち合わせた。

 先ほど見たケース。


 滅竜式弾丸。


「やっぱりこれを使うのが正解だと思うんですけども……」

「……」

「うー、シズハさん、いやいやばかりじゃ駄目ですよ。私たちは黒竜のご飯になるつもりはありませんから」


 ミカの手の間にはボウガンも現れる。

 光に包まれたそれを手に、ミカは言う。


「シズハさんが竜を殺すのが嫌なら私が殺します。自分の身を守る為です」

「……」

「考えている時間はそんなにありませんよ」


 ミカはボウガンに素早く弾丸をセットした。

 構え、扉へ向ける。



「――来るぞ」


 トカゲが言った。


「もう、ふーちゃんも戦ってくれない? 私一人じゃちょっと辛いよ」

「トカゲの姿で戦えるか」


 ……ふーちゃん?


 ミカの兄――ラルフは、片割れをふーちゃんと呼んでいたと聞いた。

 そして、ラルフの片割れは、フォンハード。

 

 このトカゲが……?



 扉が開いた。


 ヒューマが片手で扉を開く。

 彼の足元では影がうごめく。


 ――黒竜。


 その黒竜目掛けて、ミカは弾を放った。



 明後日の方向に。



「……ヘタクソ」

「だ、だって、武器の作成はともかく扱いは苦手なんだもの!」


 壁にめり込んだ弾丸をヒューマは不思議そうに見ている。

 

 ヒューマの片手にミカが今持つのと同系統のボウガンを見る。

 弾丸を放てるタイプのもの。

 ヒューマが武器を持っている姿を始めて見た。



 ヒューマが一歩踏み出す。

 ボウガンは既に弾が込められているようだ。

 発射口はこちらに向いている。


「――聞いてやろう」


 笑う、声。


「何をしに来た、シズハ?」

「……皆を、助けに」

「皆? 具体的には誰だ?」

「女王陛下やバートラム殿――」


 名前を続けようとしたシズハは、ヒューマの爆笑でその声を中断される。

 壊れたように笑う声。

 何があったのかとヒューマを見る。

 イルノリアが身体を寄せた。シズハを庇うように半身、前に出る。


「バートラムを助ける――助ける、か」

「何がおかしい」

「この城に黒竜とその使い手を招きいれたのは、バートラムだぞ?」



 言われた言葉の意味を、シズハは理解出来なかった。



「私はこの国を――いや、世界を統べるだけの力が欲しかった。バートラムが欲しかったのは勇者の命。あの男は、勇者を滅ぼしたがっていた」


 バートラムは勇者嫌いだ。

 だが勇者嫌いな騎士などたくさんいる。

 その一人だと思っていた。


「バートラムは言った。シズハと勇者が共に行動している。ならシズハの友人を逃がしてやれば、必ず情報は勇者に至る。勇者が、此処に乗り込んでくる」


 バダ。

 彼に逃げろと命じたのは誰だったのか。

 記憶から取り出された情報を思い出す。


 ヒューマが笑った。

 高い、女のような笑い声。


「勇者と他の仲間を引き離してやった。バートラムが言うには、勇者の力の源があるらしい。それを封じる陣も用意してやった。――今頃、勇者はバートラムに殺されているさ」

「嘘だ」

「嘘なものか」


 ヒューマはシズハの顔を楽しげに見やる。


 ミカは構えていたボウガンを既に下げていた。泣きそうな顔でシズハを見ている。

 その顔を見ただけで、シズハは今、自分がどんな表情をしているかは想像出来た。

 泣くのだけは嫌だと考える。


 こいつの前でだけは泣きたくない。


「――まぁいい。後でゆっくり話を聞かせてやろう。バートラムの口から」



 お前に話を聞く心が残っていれば。



 ボウガンがシズハに向く。


 微かにヒューマが笑った。

 笑いを堪え、身体を震わせる。


「――お前が羨ましかった」


 独り言に等しい声。


「だがそれももう終わりだ。この弾丸で終わらせる。全部、終わらせる。この、弾丸で――」

「それ、滅竜式弾丸ですね。独特の魔力、感じます」


 ミカは目を細めている。


「滅竜式弾丸は人間には効きませんよ」


 ミカが言う。

 ヒューマの顔を見て、少しだけ寂しそうに。


「人には意味の無い力です。竜を殺すためだけの武器なんです」

「分かっている」

「じゃあ、その武器をさげて下さい」

「断る」


 ボウガンの先端が変わる。

 僅かな、距離。



「狙いは、別だ」



 ――別。



 ヒューマの指先が動く。

 弾丸が、放たれる。



 機械仕掛けの弓から放たれるそれは、真っ直ぐに。



 イルノリアを狙っていた。



 シズハを庇うように半身、前に出していたイルノリア。

 咄嗟に彼女は逃げようとした。

 翼を広げる。

 微かに身体が浮いた。



 だが、遅い。




 ――イルノリア!




 叫び、動く。

 イルノリアを庇おうと、シズハは手を伸ばす。


 小さな弾丸。

 竜を殺す為だけの、武器。

 小さな、本当に小さな。


 しかし、幼いイルノリアの身体を壊すには、その小さな力で十分だった。


 


 シズハの伸ばした手指の先。



 イルノリアの胴体に食い込んだ弾丸は。



 胴を破裂させた。



 首が千切れ、飛ぶ。


 人と同じ紅い色が散る。


 小さな銀竜の身体はそのまま軽く、飛んだ。



 弾丸の威力を殺しきれず、そのまま後方へ。

 並ぶ椅子の間に嵌まりこむように、落ちた。




 ようやく音が響いた。



 イルノリアの首を失った身体が、床に落ちる音。





 血の滴る音がする。


 投げ出されたような身体が一度大きく痙攣して、止まった。




 ――地獄を見る。


 そう忠告したダークエルフの少女の言葉を思い出した。



 そう、これは地獄だ。

 これ以上の地獄があるか。



 首は千切れ。

 胴は裂け。

 血は流れる。


 イルノリアの首が。

 イルノリアの胴が。

 イルノリアの血が。



 イルノリアの命が。




 血が、シズハの手にも飛び散っていた。

 紅い色が、流れ、伝う。



 動けない。



「は――はははははははっ!!」


 爆笑。


 シズハの耳に届く声。



「やった。殺してやった。銀竜を。――これでもうお前は得意げにその銀竜を連れて歩けないぞ。どうだ? 片割れを失う気分だ? 死ぬか? 死ぬのか? そうかそうか、可哀想にな!」


 笑いの中の声。

 ヒューマはそこで一息。

 笑みに歪む顔を更に歪めて、続けた。


「――私は最高の気分だ」



 手が動いた。

 イルノリアの血が付いた手。



 腰の、剣を抜く。


 抜いた速度のまま、動く。



 ヒューマに、切りかかる。



 いまだ笑ったままヒューマが避ける。

 紙一枚の距離。

 殺し損ねた。


 思わず、声が出る。


 唸り。


「怖い怖い。そうか絶望せずに怒ったか。それもいい、それも悪くない。善人面の下にそんな顔が隠れていたのか。醜いな、醜いぞ、あぁ、楽しい」


 五月蝿い。



 声が出ない。

 掠れた音が漏れるだけ。

 まるで竜の声のようだ。

 竜の唸り。


 怒りの声。



 殺す。



 絶対に、殺す。



 死ぬまで、殺す。

 すべてが、殺意で塗り替えられる。


 殺意しかない。

 ヒューマを見る。

 笑う、姿。

 その命が止まるのを、望む。








 ミカは咄嗟にイルノリアの屍体へ駆け寄る。

 既に瞳に光を失った頭部を持ち上げ、抱き締めた。


 死んでいる。

 完全に死んでいる。


「ど、どうしよう、ふーちゃん、どうしよう」

「……どうしようもない。普通の飛竜は死んでしまえばそれで終わりだ。幾ら癒しの力が強い銀竜でも、己の死までは癒せない」

「そんな……」


 腕の中のイルノリアを見る。

 首の半ばで千切れた頭。

 半分ほど開いた瞳は既に虚ろ。


「だめだよ、イルノリアちゃん、だめだよ」


 力いっぱい、その頭を抱き締めた。


「シズハさんが――シズハさんが……」



 あんなのシズハさんじゃない。


 身体が震える。



 それが怯え故だと、ミカは、気付く。


「……イルノリアちゃん」



 抱き締めているのは屍体。

 答えは無い。








 ヒューマは笑う。

 笑い、言った。


「ボルトラック」


 彼の足元。影が膨らむ。

 這い出てくる黒竜。

 黒竜はシズハを認め、目を細めた。



「殺すなよ、ボルトラック。動きを止めろ、それだけでいい。――手足を食い千切れ。そう、まだだまだ。まだ、これからだ」



 黒竜の背後にヒューマ。

 牙を剥く飛竜に、シズハは真正面から走る。


 牙が、襲い掛かる。




 喰らい付く黒竜の牙を、影から出た黒騎士の大剣が防ぐ。


 主の命を守るために現れる存在。

 そして――この騎士は命令を待っている。


 命令など決まっていた。


 命令はひとつ。

 邪魔者を排除しろ。


 黒騎士は応の声も無かった。

 ただ剣を持って答える。


 そのまま黒騎士は黒竜の口を切り裂き、踏み込む。胴体さえも切り裂いていく。

 黒竜が霧散した。


 闇が飛び散り、地面に這う。

 黒竜は滅んではいない。

 が、再生までは時間が掛かる。








 ヒューマはその様子を呆然と見た。


 黒騎士を従えたシズハ。

 竜の血に塗れ、怒りと言うには薄い表情で剣を持つ。

 唸り声が聞こえる。


 シズハの剣が振り上げられる。



 死ねとの声も無かった。

 唸る声だけが、響く。




 剣が今にも振り下ろされる瞬間。

 黒騎士が動く。

 壁に向かって、剣を構えた。




 その壁が大きく崩れ――


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