第13話4章・現在、異端宗教編




【4】






 彼女は嬉しくて仕方なかった。

 自分のベッドに寝かせて貰った青年の顔を間近で眺める。

 優しい顔をしている。頬のラインがとても柔らかい。今は魘されているように瞳を閉じているが、開いた瞳もきっと優しい。


 早く、と、彼女は青年の胸に手を這わせる。

 傷を癒す為に脱がした服。折れた骨も傷付いた内臓もすべて癒した。あとはゆっくり眠って疲れを取り、心を癒せば良い。

 でもそれはひと時目覚めてからでも遅くない。


 早く目覚めて欲しい。

 その瞳で私を見て欲しい。

 きっと綺麗な黒い瞳。


 紅い欲が見えない、深い湖のような瞳で、私を見て。



 青年の瞼が動く。

 目覚める、動き。



 彼女はとびきりの笑顔で微笑んだ。








 くすぐったい。

 シズハの意識が覚醒に向かうきっかけはそれ。

 何かが身体の上を這っている。

 イルノリアだろうか。目覚めぬシズハに焦れて、舐めているのだろうか。

 いつもは顔なのに、変な場所を。

 頼り無い動きのそれを振り払い、目を開く。

 

 見下ろす紅い瞳と視線が合った。


 可愛らしい笑顔を浮かべている少女。

 まだ10歳前後ぐらいだろう。頼り無い細い身体をしている、シズハから見ても分かるほどの美少女だ。

 殆ど色の無い長い髪は白銀。肌の色も白い。瞳だけが血のように紅だった。


 アルビノ。

 アルビノの美少女が、目覚めたシズハに向けて微笑み掛けている。



 咄嗟に何か分からなかった。


 淡いピンクの唇が動く。



「はじめまして――私の王子様」



 可愛らしい声が、嬉しそうに、そう呼びかける。



 シズハはますます混乱した。








 寝ながら会話と言うのも変なので、軋む身体を無理やり起こす。この軋む感覚には覚えがあった。癒しの呪文で身体を治した時の感覚だ。


 少女の小さな手がシズハの身体に触れ、支える。

 そこで初めて上半身が裸なのに気付いた。


 咄嗟に服を探す。

 頭にあったのは自分の背中。翼の残骸だ。


 少女は心配そうにシズハを見やる。


「まだ、治したばかりなの。痛いところはありませんか、王子様」

「だ――大丈夫です」


 シズハの言葉に微笑んだ少女に、疑問をぶつける。


「此処は何処ですか。それに俺の仲間たちは。貴方は? それと――」


 言い難そうに。


「……王子様、って?」

「一度に言わないで」


 少女は少しだけ困ったように、それでも嬉しそうに笑って、言った。


「貴方は私の王子様。ずっと待ってた。逢える日を、ずっと、待ってた」

「………」


 少女の大きな瞳は涙で潤んでいる。

 感激のあまりに涙が浮かんできた、と言う様子だ。


「王子様――」

「シズハです」

「そう、呼んでもいいの?」

「えぇ」

「……シズハ」


 宝物をもらったように少女はシズハの名を呟く。


 白い頬が上気するように染まった。

 少女はうっすらと頬を染めて、シズハを見た。


「シズハ、背中の傷も癒しましょうか?」

「……これは」


 身体を守るように、抱く。

 背を隠せるわけも無いが咄嗟の反応。


 少女は思った以上に素早い動きでシズハの背を覗き込んだ。シズハには見えなかったが、少女の表情は哀しげなものだ。


「とても痛そう。――千切られた痛み、まだ身体が覚えているのね」

「……」


 白い手が伸びる。

 傷口に触れる。

 肩甲骨の辺り。肉が大きく抉られた場所が二箇所。翼を切られた、と言うよりも引き千切られた状態。肉ごと持っていかれた傷は、いまだ癒えてないように赤い内側を見せている。

 

 右側の翼だけは、その台の部分を残しているが、ほんの僅かだ。殆どの部分が抉り取られたような傷跡になっていた。



「痛みはありません」

「……本当?」

「えぇ。痛そうなのは見た目だけです」


 事実だ。

 強く殴られでもしない限り、痛みは無い。


「痛かったら言って。癒すのは得意だから」

「有難うございます」

「ううん」


 少女は笑う。


「これしか、私はできないから……」


 俯く仕草。

 それは少しだけ哀しげに見えた。



 少女が再び顔を上げるまで、シズハは言葉を見失う。


「――他の、質問。何からお答えすればいいの?」

「此処は何処ですか?」

「教会」

「教会? どの神様の?」

「神様じゃないの」


 少女は自分の胸に手を置く。


「私の」

「……君の?」

「私は女神様なんだって」

「……」


 必死に頭を巡らす。

 この少女は癒しの力を持っているようだ。シズハの怪我も癒したと言っていた。あの奇妙な猫に使われた力と与えられた痛みを思えば、骨ぐらいは簡単に折れていた筈。それを癒したとなれば、かなりの術者だ。こんな幼い少女が使える呪文ではない。

 ならば、生まれ付き癒しの力を持つのか。

 銀竜のような力を持つ人間がたまに生まれる事は知っていた。

 

 この少女は、それか。


 その癒しの力に、この整った容貌を利用され、神に祭り上げられている……と言う所だろうか。


 神を崇める事は、法では禁じられていない。

 しかし、この幼い少女が好き好んで神の座にいるとは思えなかった。

 監禁や誘拐の可能性もある。



 どういう状況になっているのか。

 だいたい、どうして捕らえられたのだ。

 情報が欲しい。


「俺の仲間はどうしてます?」

「仲間?」


 初耳のようだ。


「知らない。私が欲しかったのは、貴方だけだから」

「……銀竜は見ていませんか」

「銀竜?」

「俺の片割れです」

「……」


 少女が目を丸くしてシズハを見ている。


 その顔が歪んだ。


 ぼろぼろと、大粒の涙が少女の瞳から零れ落ちる。


「え? え?」


 シズハは困惑するより無い。

 無言のまま涙を零す少女に手を差し伸べながらも、どうしていいのか分からず、戸惑う。


「どうしてそんな酷い事を言うの?」

「酷い事?」


 何を言った?

 ただ片割れの銀竜を探していると、そう言っただけだ。


 それを少女に伝えれば、彼女はよりいっそう泣き出した。それどころか、今までの大人しい様子が嘘のように、叫んだ。


「違うの! 貴方の片割れは私なのっ!」

「……は?」


 この少女は飛竜なのか?



 少女はシズハにしがみついた。

 思わず抱きとめる。驚くほど軽い身体だった。


 シズハの胸に顔を埋めて少女は泣きじゃくる。


「私たちは引き裂かれた恋人たちなの。ようやく出会えたのに、どうしてそんな酷い事を言うの?」

「………」


 何だか頭が痛くなってきた。

 幼い少女にありがちな妄想なのかもしれない。

 御伽噺によくある。引き裂かれた恋人たち。生まれ変わって再会する。そして再び恋に落ちる。少女が好みそうな物語だ。

 

 この少女が好きな物語の王子様とやらが、シズハに似ているのかもしれない。

 それで勘違いをしているだけだ。

 現実と空想の区別が付かなくなる。

 幼い子供にはよくある事だ。


 まずは落ち着かせて話を聞こう。

 それからこちらの話も聞いてもらう。

 


 ベッドが軋んだ。

 シズハは顔を上げる。


 ベッドの端に男が一人、腰掛けていた。


 短く刈り、頭頂部が跳ねたような髪型の男。髪の色は黒。珍しいとよく言われる色だ、と、シズハは自分の髪色を思う。

 よく日に焼けた……と言うよりも褐色の肌。むき出しの両腕は太い筋肉が盛り上がっている。鍛え上げられた身体だ。腰に剣を帯びているが、素手だとしても十分戦えそうだ。


 男はこちらに背を向けて、背中を震わせている。



 ……笑っている?




 男が振り返った。

 顔立ちは鋭い。獣を連想させる男。しかしまだ若い男だった。瞳の色は真紅――ではない、黒だ。なのに何故かその瞳の奥に紅を見る。

 血のような。炎のような。狂気のような、紅を。


「――早速姫さんを泣かせるとは、たいした女泣かせだな、お前さん?」

「好きで泣かせた訳じゃない」

「そうかそうか」


 男は嬉しそうに肩を震わせる。


「姫さん、その男はなーんも知っちゃいないぜ?」

「いいの! そのうち全部分かってくれる!」


 だって、と、少女は男に食いつくような勢いで叫ぶ。


「シズハは私の王子様なんだもの!」

「シズハ、ね」


 男がシズハを見る。


「名前?」

「はい」

「俺はアギ」


 短い音の名前は砂漠の民の特徴だ。

 褐色の肌も合わせて、恐らく、そちらの出身であるのは間違いない。

 ただ――今更気付く。

 この男はいつの間に部屋に入って来た?

 最初から部屋にいたとしても、ベッドの端に腰掛けられるまで気付かなかった。


「姫君の騎士で、それから――屠殺役だ」


 不吉な単語を己に与えてから、男は親指で少女を示す。


「その姫君は――イブ」

「……」


 まだシズハに縋りついたままの少女を見る。



「……イブ?」

「ぁ……」


 少女が目に涙を溜めたまま微笑んだ。

 呼ばれた名に瞳を輝かせる。

 甘える猫のように、シズハに抱きついてきた。


「もっと呼んで、ねぇ、もっと」

「……え、その――」

「おねがい、イブって呼んで、おねがい」


 思わずアギを見る。


 アギは笑っている。

 助けてくれる気は無いようだ。


「な、何か勘違いしていませんか、その、俺は――」

「お前がどう思おうとも、姫さんにとっての真実はこの教会の真実だ」


 つまり。


「お前は姫さんの運命の恋人。――馬鹿みてぇだが、そういう話」


 アギは軽く舌を打った。


 顔を上げる。



「なぁ、オッサン?」

「――……」


 そちらに扉があった。

 扉の前に男。

 気付かなかった。

 

 その男の顔に見覚えがあった。


「ゲオルグ殿!」


 シズハは思わず叫ぶ。

 見覚えがある所ではない。共に出陣した事もあった。

 シルスティンが誇る最強の戦力、神聖騎士団。そのナンバー2とも言える男が、ドアの前に立っていた。


 真面目な男だ。どうも好きになれない神聖騎士団の人たちの中で、数少ない信頼出来る騎士だった。

 40代半ばと言うその年齢も、シズハにとっては付き合い易かった。


 岩から掘り出したようなゲオルグの顔が、苦虫を噛み潰したように歪んでいる。



「久しぶりだな、シズハ」

「はい。……何故、貴方が此処に?」


 戸惑いながらのシズハの言葉にアギが言う。

 嘲るような笑いを存分に含ませた声。


「そのオッサンが教会の代表。この姫さんを見つけてきて、教会作り上げたんだよ」

「馬鹿な!」


 シズハはアギを睨んだ。

 馬鹿な話だ。

 神聖騎士団に属する騎士たちはすべて聖母の信者。他の神を崇める事など許されない。


 アギはシズハの視線に笑いながら肩を竦める。

 ゲオルグを見る。



「オッサン、よく分かってないようだから教えてやってやれよ」

「――間違いない」


 ゲオルグの低い声がシズハを見たまま、言う。


「私の神は姫だけだ」

「……」



 呆然とその告白をするゲオルグを見る。

 まさか、と、それしか考えられない。



「神の望みだ。――シズハ、お前も此処の一員になって貰う」

「……嫌です!! 納得できません! 貴方は誰よりも純粋な聖母様の信者では無かったですか!! なのに、どうして!」

「あまり言いたくないが、こちらには人質がいる」

「………」

「銀竜は殺さないでおこう。お前の精神が壊れてしまっては元も子も無い」


 だが、と、ゲオルグは目を逸らした。

 酷い苦痛を味わっているような顔で、彼は言う。


「翼や手足を失っても、まだ飛竜は生きていられるぞ」

「イルノリアを傷付けたら許さないっ」

「お前次第だ」


 ゲオルグの言葉。


「お前の仲間たちもいる。男一人と猫一匹。こいつらの生命も惜しかろう?」


 ならば従え。


「悪いようにはしない。姫の望みに反しない限り、お前の願いも叶えられる」

「いいねぇ、酒池肉林」

「アギ、黙れ」

「はいはい」


 それから、と、ゲオルグは目を細めた。

 ぶつけられたのは殺気。

 アギは嬉しそうに目を細めたが、シズハは全身に鳥肌が立つのを止められない。


「念の為に言っておくが……姫に危害を加えようなどと考えるな。もしも万が一の事があれば――覚悟しろ。お前の目の前であの銀竜を生きたまま解体する」

「……分かった」


 シズハはゲオルグを睨み付ける。

 仕方ない、と、今にもゲオルグに殴りかかりそうな自分の身体を抑え、低い声を出す。


「今は従う。だから、俺の仲間たちに手を出すな」

「今は、ねぇ」


 アギが笑った。


「気に入った」

「アギ、黙れと――」

「はいはい」


 シズハは強く握り拳を作る。

 アギの軽口など耳に入っていない。

 イルノリアの存在を取引に出された時点で、シズハにとって今のゲオルグは怒りの対象だ。


「良い目だ」


 ゲオルグの評価。


「それでこそ――姫の恋人だ」


 ゲオルグは背を向ける。

 別れの言葉も無く部屋から出て行った。


 残されたのはシズハと、いまだその胸に縋り付いているイブ。それとにやにやと笑っているアギだ。


 アギはその笑みのまま口を開く。


「まぁ何か頼みがあれば俺に言えよ?」

「……何も無い」

「そうかそうか」


 姫さん、と、アギは言う。


「少し眠らせてやった方がいいぜ。シズハ、顔色最悪」

「ぅ、うん」


 小さな手がシズハの胸を押した。


「眠って」

「……」


 己の体力を考える。

 休んだ方がいいのは事実だ。

 大人しく従う。


 姫の手が横になったシズハの黒髪を撫でた。


 可愛らしい声が、ゆっくりとしたメロディの曲を歌う。

 子守唄。


 シズハは瞳を閉じる。

 眠りは、すぐに訪れる。






 眠るシズハと子守唄を歌うイブ。

 その二人を見つめるアギの目は、先ほどの笑みが嘘のように冷え切っていた。

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