第2話・7章
――そして、彼らが知らない物語。
竜の翼の音を聞き、老人は顔を上げる。
火山の裾野に広がる荒野。そこに存在する唯一の街。
その街に、見慣れた飛竜が降り立つ。
幻だろうか。
真紅の身体を持つ火竜の筈であるその竜が、一瞬、真っ白な体躯を持つ竜に見えた。
老人は目を擦る。
再び見た竜は、やはり見慣れた真紅の竜だ。
竜は両足で岩を持っている。
老人は近付き、竜に合図を送った。
「そのまま落としてくれ!」
竜は老人の言葉を聞いて岩を落とした。
落とされた岩に顔を近付け、老人は眺める。
黒っぽい火山岩の隙間に、炎のように揺らめく石が埋まっている。
紅蓮石。
炎の属性を秘めた、魔力石だ。
これを防具や装身具に埋め込めば、炎に対する攻撃から身を守る。
逆に武器に埋め込めば、炎を弱点とする魔物に大ダメージを与えられる。
貴重な宝石ではあるが、これは火口近くでないと採掘出来ない。
あの辺りに人が行く事は不可能だ。
強力な防御の魔法を使うなら可能だが、そんな魔法を使えるものは限られている。
だから老人は感謝する。
この火竜と――その主人に。
「ジャック」
老人は首を捻り、背後に声を掛けた。
「ちょっと来てくれ。良い石が来たぞ」
「はい」
奥の作業場から男が出てくる。
平凡な顔立ちをした男だ。
ただ、その平凡な顔には多くの傷跡が残っている。耳も片方が千切れてない。指も一本ばかり足りなかった。
何、それがどうした。
元々器用な男だったのだろう。
人より指の数が一本足りなくとも、十年も修行を積めば立派な作り手だ。
もう十年修行を積んだら、この工房を譲ってやってもいい、と老人は考えている。
最初の時は驚いた。
野生の火竜はこの辺りに多く住んでいる。
妙に街の近くで騒いでいると見てみれば、吼える火竜と傷だらけのこの男が倒れていた。
竜は人に危害を加えようとしなかった。運ばれる男を心配そうに見つめていた。
男は竜騎士なのだろう。
酷い怪我をしていた。
空中で魔物に襲われたか。地上で何か争いがあったのか。
命からがら逃げてきた、と言う所かと考えた。
街の医者に運び込んで男の手当てをした。
何度も死に掛けた男を、心配そうに窓から覗きこむ火竜の姿は、ちょっとした名物になった。
男はやがて意識を取り戻す。
しかし、男は記憶を全て失っていた。
常に傍に居る火竜の名前は勿論、自分の名前も、過去も。
何故このような傷を負ったのかも、まったく。
男を最初に見つけたのは老人だった。
行く場所も無く、呆然としている男が哀れに思え、家に来るようにと誘った。
男は散々迷ったが、やがておとなしく頭を下げた。
それから十年。
男の記憶はいまだ戻らない。
ジャックと言うのは医者が適当にカルテに記した名前だったが、そのまま男の名前となった。
竜の名前はまだ無い。
男が思い出そうとしているようだが、思い出せぬまま、時が流れた。
岩から紅蓮石を掘り出す。
男二人掛かりで工房へと運び込む。
「さて――昼にするか、ジャック」
「はい」
「あぁ、用意はワシがする。お前は竜の相手をしてこい」
「親方さん」
「いいって。頑張って来たのは竜だ。ちゃんと褒めてやらんとな」
有難うございます、と、男は頭を下げる。
「そういや――ジャック、竜の名前はまだ思い出せないのか?」
「……はい」
男は頭に片手を当てた。
「昔を思い出そうとすると、白い霧が頭の中に流れてくるんです。それで意識がふぅっと遠くなって――」
「あぁ、無理はするな、無理は」
老人は男の背中を叩いた。
「十年掛かっても思い出せないんだ。――こう言っちゃ悪いが、お前の過去は思い出さなくて良い過去かもしれん」
「……」
「無理はするな」
「はい」
「でも、竜の名前が無いのは可哀相だな。何か考えてやったらどうだ?」
「それは」
男が少し笑う。
「昨夜……ふっと名前が思いついたんです。それを、ヤツに付けてやろうかと」
「おお、どんな名前だ?」
「竜に最初に教えますんで、少し、待って下さい」
「そうかそうか」
老人は笑い、男の背を叩いた。
竜の待つ外へ、送り出す。
その後姿を見送り、老人は何となく嬉しくなる。
――最近、イイ顔になってきたんじゃないか。
昔は平凡極まりない、何処か呆けたような顔だった。
しかし此処最近どうだ。顔に深みが出てきたような気がする。
これも職人としての修行の成果か。
人は心に育てたものが自然、顔に出てくるものだろうし。
悪くない跡継ぎが出来た。
老人は満足そうに何度も頷くと、昼食の用意をする為に奥へと引っ込んだ。
竜は黙って騎士を待つ。
遠くから竜の鳴き声がする。野生の火竜だ。
この辺りは竜が多い。街の中にも、風竜が一匹、騎士と住んでいる。
この辺りでは、竜は珍しくない。
――そう、よっぽど珍しい竜でも増えない限り、目立ちはしない。
火竜が一匹増えたぐらいで、人は、気にしない。
良い場所を選んだ、と、竜は思う。
此処でなら竜の騎士も余計な苦労を背負わずに済む。
幻の有効範囲は竜の力に比例する。
この街全体ぐらいは完全に包み込める。
自分の姿を街の人々に違う認識させるぐらいは、簡単な事だ。
騎士の姿も幻で変えた。
やっぱり元の姿が恋しくて、十年掛かって少しずつ戻してみた。
人は違和感を覚えないだろう。
それぐらい、上手にやっている。
そして――騎士の、記憶も。
これでいい。
これで幸せだ。
変な迷いも苦労も無い。
だって、騎士は幸せそうに笑うではないか。
ならば、良い。
ただひとつ寂しいのは――
「――おい」
呼び声に顔をそちらに向ける。
騎士が立っていた。
翼を広げ、喜びを表現する。
火竜は首が大して長くは無い。だから身体全体で擦り寄るようにする。
騎士が抱きとめてくれる。
笑う声が耳を打つ。
ああ、幸せそうな笑い声だ。
「今日もよく頑張ったな」
当たり前だ。
騎士の為だ。
そして、自分自身の為だ。
我らの幸福の為、何でもしよう。
「――そうだ。お前の名前を考えた」
名前?
「十年間、名無しですまなかった」
騎士は苦笑する。
「いつか……思い出せると思ったのだが……無理そうだ」
思い出さなくていい。
竜は顔を摺り寄せる。
「新しい名前だ。前の名前と違っても許して欲しい」
ただひとつ寂しいのは――あの名前で呼んで貰えぬ事。
優しい響きの名を、竜は、騎士の声で呼ばれるのが大好きだった。
その寂しさぐらい何でもない。
共に在れればいい。
それで、いいのだ。
竜は顔を摺り寄せ、瞳を閉じる。
再度瞳を開けば、その瞳に映るのは彼らの最期の風景かもしれない。
竜は首を切られ、騎士は傷だらけ。
これから死に行くだけの、哀れな姿かもしれない。
だが、もしもそうだとしたも、竜は新たな幻を生む。
全ての現実を幻に。
全ての幻を現実に。
何度でも繰り返す。
何度でも。
己たちの幸福の為に。
騎士が口を開く。
新たな名を、竜は瞳を閉じて、待つ。
終
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