第2話・5章
――外の霧は深い。
「ダインさん」
若い男が不安そうに身を引きつつ、ダインを呼ぶ。
弓使いはクロスボウを構えたまま、周囲を油断なく見回している。
ダインはズボンのポケットに手を入れた。
ネックレスの皮紐に触れる。
左手にそれを、右手に竜のナイフを持つ。
姿を隠すと霧のブレス。
同時に出来ない筈だ。
故に、霧を晴らせば、竜の姿は見える。
弓使いに眼で合図を送る。
無言で頷く男の前で、ダインはネックレスを取り出した。
皮紐の先。
緑色の大きな飾り。
それは、竜の鱗だ。
ナイフで、鱗を大きく切り裂く。
爆発。
そうとさえ思えるのは、鱗を中心に巻き起こった強風だ。
緑の鱗は風を操る風竜の鱗。
その鱗は破壊された瞬間、風の力を解き放つ。
霧が、晴れる。
「――見えた!」
正面、僅か横。
木の陰に白い身体が見えた。
霧が解かれると思っていなかったのだろう。驚いたように動きを止めている。
再度、竜が動き始めるまでほんの一瞬。
しかし、風が止み、竜が動き出す一瞬の間。
既に発射準備が完了されているクロスボウは、その一瞬で、矢を放つ。
機械仕掛けの弓が放つ矢は。
白い竜に突き刺さる。
凄まじい悲鳴に、流石のダインも顔を歪める。
弓使いだけが平然とした顔でクロスボウを下げた。次の発射準備を行うために巻上げをしている。まだ暫く、次の発射まで時間が掛かるだろう。
だが竜は逃げる様子は無い。
びくびくと身体が揺れるのでまだ生きてはいるのだろうが。
「――眼を狙った」
弓使いが口を開く。
「かなりの激痛だ。もう幻は使えん」
「さすが」
ダインは口笛を吹きそうな表情で倒れる白竜に近付く。
裏切り者の始末の報酬は、白竜の身体丸ごと。
随分と奮発したものだ。
新しいナイフを作るのもいい。
白竜は爪が小さいから、牙がいいだろう。
ダインが踏み出した一歩。
「――……」
彼は咄嗟に振り返った。
廃屋入り口。
ようやくと言った様子だが、ブロウが立っている。
左肩に安物のナイフが根元まで突き刺さっていた。
痛みに勝る痛み。
それで無理やりに身体を動かす。
若い男が短剣を構える。
弓使いはまだ準備が出来ない。
ダインはその二人は視線で止める。
ブロウは既に三人を見ていない。
「――マール?」
倒れた、竜しか見ていない。
よろめく足で歩く。
竜までの距離。
短い、その距離でさえ、今にも倒れそうな様子で歩き切る。
竜の真横で力が抜けたように座り込んだ。
「マール?」
白い竜の長い首を抱き起こす。
「マール?」
呼び掛けに、竜が蒼い瞳を開く。
ブロウを確かに見た。
片方だけの瞳。
右目に根元まで矢が刺さっている。
「……私に、近付くなと、言った……はずだ」
マールは小首を傾げる。
分からない、と言うように。
顔を寄せて、ブロウの傷だらけの顔に、口を触れさせる。
「――本当、忠誠心溢れる生き物だなぁ、竜は」
ダインが近付く。
マールを庇うように前に出るが、軽く払われる。
腕の一撃でブロウは吹っ飛ばされた。
痛みの中、必死に身体を起こすブロウの前で、ダインは遠慮なく竜のナイフを閃かせる。
マールの長い首が真横に切り裂かれ、紅い血が、散った。
大きな痙攣が一度、二度。
それでマールは動かなくなる。
「マールっ!!」
手で地面を殴るように動く。
前へ。
マールに一歩でも近付く。
ダインはにやにや笑って身体を引いた。
マールの頭を再度、抱き上げる。
瞳に既に力は無い。
それでも、ぐるりと動いたそれが、ブロウの姿を認めた。
マールの口が小さく開き、息を、吐いた。
「――ブロウっ!」
怒声のようなその呼び声に、最初に反応したのはダインだ。
立っているのは金髪の男。
手に緑色に輝く刃の剣を持っている。
顔は何度か見た。
「――アルタット?」
まさか。
いつからそこに居た?
怒りが滲むその顔で、剣を構える。
「ブロウ、助けに来たぞ」
遅くなった、と、アルタットが謝罪をする。
若い男が短剣を構えた。
その男が切りかかるより先に、アルタットが動く。
若い男の胸を刃が貫いた。
心臓。
一撃だ。
若い男は声も無く倒れる。
弓使いがクロスボウを構える。
その瞬間、白竜が小さく咳き込むようなしぐさをした。
勇者の姿が、掠れる。
幻だけを疑うな。
現実さえも疑え。
「――マール」
ブロウはマールの顔を抱き締める。
「いい、もういい。――私に幻など見せなくて良い。もう助かりたいなど思っていない」
瞳に力を失いつつ、それでも霧のブレスを吐く愛竜を抱き締め、ブロウは言う。
「もう――いい。もう、いいから」
血だらけの頬を拭うように涙が伝う。
「……有難う、マール。もう、いい、もう――無理をしなくていい」
マールはそれから二度咳き込み、霧を吐くのを止めた。
勇者の姿は大きく揺れ、そして、消えた。
ダインは舌を打ち、勇者の幻に心臓を貫かれた若い男に近付く。
倒れたままの男を調べるが――既に息絶えていた。
心臓を貫かれた幻があまりにもリアルで、死んだと思い込んだのだ。
これが白竜の力か。
「さすがだなぁ、お前の竜」
ブロウは白竜の首を抱いたまま動かない。
珍しい事だ。
あの男が、泣いている。
泣き顔を隠そうともせず、愛竜を抱いて涙を零している。
「なぁ、オイ」
真横に立ち、呼びかけた。
「――殺せ」
「おお、そのつもりだ」
竜のナイフを背後から、ブロウの首に当てる。
あとは横に引くだけ。
「お前の骨でナイフでも作ろうかな? 人骨のナイフってどうだと思う?」
「………」
「白竜のナイフと対で使ってやるよ」
ブロウは答えない。
瞳をただ白竜に向けている。
「――ダイン」
弓使いの男が戸惑うような声を上げた。
「んぁ?」
「あれは――幻か?」
「はぁ?」
言われた先を見る。
――みゃん、と。
黒猫が茂みから飛び出した。
緑の瞳の黒猫は、周囲をぐるりと見回し、もう一度、みゃあん、と高く鳴く。
そして、続いて現れたのは、先ほども見た、勇者の姿だった。
ただその表情に怒りは無い。
静かなものだ。
白竜を見る。
動かない。
「本物だ」
ダインはブロウの首からナイフを外す。
ブロウを蹴飛ばし、構えた。
弓使いが準備を終えていたクロスボウを打つ――。
が、矢が発射されない。
驚く男の足元で、みゃん、と猫が鳴いた。
何時の間に。
先ほどまで勇者の足元に居た筈だ。
慌てて猫を追い払おうと右手を振るった男の指先が、ばらばらと関節ごとに千切れて落ちる。
前足を軽く払った猫の爪は、血塗れだった。
猫は、その血塗れの爪を、弓使いの男の頭に向けて、大きく振るった。
「勇者様――ちょっと遅かったんじゃないか?」
ダインは左手の親指で白竜を示す。
「竜は死んじまった」
「……」
勇者――アルタットは歩を進める。
ダインの構えたナイフなど見えないように。
ダインは舌を打つ。
「俺は無視ですか――って!!」
低く身構え、走る。
寸前で動きを止めて、フェイント。刃の動きを読んでから切りかかる。
ダインに見えたのは緑の光。
真横に一閃。それだけだ。
構えていた竜のナイフも。
ダイン自身の胴も。
真横に全て断ち切る、緑の光だけだった。
「――ぁ?」
身体が地面に投げ出される。
アルタットが歩いていく。
「おい、おいっ! 此処まで無視か、お――」
喉にせり上がってくる何かに言葉を封じられる。
苦しさに吐き出したのは血の塊だ。
視線を向ける。
千切れた胴の向こう、見慣れた下半身が壊れた玩具のように投げ出されていた。
ぎりぎり繋がっていた腸の上を、黒猫がみゃん、と踏みつける。
猫の爪で腸が千切れる。
「――……」
既に声も無く。
ダインは絶命した。
「――ブロウ」
呼び掛けにもブロウは顔を上げない。
血で汚れてしまったマールの顔を折れた指でなぞっている。
「ブロウ、遅れて済まなかった」
一度は街を出た。
しかし――それでもやはり、アルタットはこの街に戻ってきた。
ブロウが死ぬと分かっていて、自分だけが助かる道など選びたくなかった。
黒猫のヴィーの協力もあって、何とか此処を見つけ出したが――遅過ぎた。
ぴくりとも動かない白竜を見る。
そして、生気が微塵も感じられないブロウの顔を見た。
遅過ぎた。
それでも――
「ブロウ。手当てを――」
回復の魔法なら幾つか使える。
命があるのなら、傷を十分に癒せる。
「ブロウ――」
無言で、ブロウは首を左右に振った。
ようやく上げられた顔。
そこにある瞳は、これが生者のものかと疑いたくなるような色だった。
「マールが死んだ。――私も死ぬべきだ」
「ブロウ、お前はまだ生きてるんだ。死ぬとかそういう言葉は言うものじゃない」
「違う」
「違うのだ、アルタット殿」
「我々は、そういうものではない」
「不自然だ」
「竜が死に、騎士が生きているのは、不自然だ」
魂のつながりは、片方が死ねば終わりと――そういうものではない。
アルタットは背筋が寒くなる。
ブロウの瞳は――既に死んでいる。
それでも口を開く。
諦められない。
もうこれ以上、失いたくない。
「俺が――俺が世界を救ったのは、仲間を失う為じゃない」
頼む。
「頼む――ブロウ、死なないでくれ。俺はこれ以上、仲間を失いたくない」
「それは貴方の我侭だ、アルタット殿」
ブロウはただアルタットを見る。
「命を失った私に生きろと命じるのは、貴方の我侭だ、アルタット殿」
「貴方は世界の勇者かもしれない。世界を救った、人々の希望かもしれない」
「だが――真実の貴方はどうだ? 仲間を誰一人守れず、自分自身さえも守れず――今は、死者の私に我侭を突きつける」
「……っ……」
アルタットの顔が歪む。
苦痛。
「な――なら、どうすればいいって言うんだ?! 俺にお前を殺せと言うのか?」
「それが可能ならば」
右手の刃を、今更ながらアルタットは恐ろしいものがそこにあるように視線を落とす。
顔が恐怖に引きつっている。
「だが無理なようだな」
ブロウが笑った。
左肩に突き刺さっていたナイフを抜き取る。
「ブロウっ!」
「貴方の我侭はもう沢山だ」
「勇者殿――貴方との旅は楽しかった」
「だが、もう沢山だ」
この世は死者には辛過ぎる。
自身の血で汚れたナイフで、ブロウは迷うことなく喉を裂く。
「ブロウっ!!!」
叫びは、もう届かない。
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