第2話・4章

 幻だけを疑うな。

 現実さえも疑え。


 白竜であるマールを傍に置くようになってから、一度だけ会話した竜騎士がそんな事を言っていた。

 その竜騎士は表の人間だったので、会話をしたのは一度きり。

 言葉の意味さえ尋ねられなかった。

 何となく、白竜の能力の事について言っているのだろうとは思った。

 白竜は幻を操る。

 己の姿を消し、白い霧を持って気付かれぬままに他者を幻で包む。

 幻だけを疑うな。

 現実さえ疑え。

 だが、今は確かに現実だと、痛みを持って、ブロウは認識する。



 水を掛けられて眼が覚めた。

 一瞬何か分からなくて身体を起こそうとし――刃のような傷みに呻く。

 こちらの顔を覗き込んでいるのは、ダインの部下らしい男だ。随分と若く見える。まだ十代にさえ見えた。


「眼、覚めたみたいですよ」

「あ、そ」


 ダインはつまらなそうに壁に寄り掛かり、指に引っ掛けたネックレスを回して遊んでいる。

 皮紐にビーズを繋げたように見えるそのネックレスの尖端には、緑の大きな飾りが付いていた。

 何かよく分からない。

 確認する前に、ブロウの視線に気付いたダインが、それをズボンのポケットに押し込んでしまった。


「余裕あんなぁ、さすが」

「でもコイツ」


 若い男がブロウの顔を蹴る。


「悲鳴上げないだけですぐさま気絶しちまいますよ?」

「そーいう風に躾けられてんの」


 ダインはケケケと声を出す。


「捕まって拷問された時に、余計な事を言う前に気絶しちまえるように鍛えてんだわ。一瞬でも意識失えば、それだけでも体力回復出来るしな」

「へぇ」

「だから、気絶しても気にすんな」


 あぁ、でも。


「殺すなよ」


 まだ、とダインが続けた。

 壁に寄り掛かる。


 入り口間際にもう一人男。

 弓を持っている。

 外を見ている。

 助けなど来ないだろう。

 第一、誰が助けに来る?

 アルタットはこの街を出ただろう。

 臆病なマールが単身、此処にやってくるとは思えない。

 この廃屋が何処にあるのかも分からない。

 目隠しをして連れ込まれた。

 何故か意識を奪われなかったので、移動時間は覚えている。

 同じ街の中だとは思うが――何処なのだろう。

 逃げる気など無かったが。


「――おーい」


 若い男がこちらの顔を手で打った。


「どれぐらい意識あんだよ、お前?」


 ダインの視線の前に、男が手に持ったものをぶら下げる。


「これ、何か分かる?」


 指。

 根元から千切り取られたような、指。

 ――あぁ。

 先ほど、指を切られて気絶したのか。

 自分の身体が好きな訳ではない。

 それでも長い付き合いのそれが放り投げられるのは、何だか酷く寂しい事に思えた。


「ダインさん、次、何処行きます?」

「あー……」


 ダインは天井を見上げた。


「爪でも剥いどけ」

「はい」

「あぁ、それから」

 ダインが続ける。「指は切るんじゃなくて折った方がキツイぜ」


 覚えておけ、と、ダインは大きな欠伸をした。



 拷問は続く。

 右手の指は一本無く、その他の指は玩具のようにでたらめの方向を向いていた。

 昼が終わり、夜が来る。

 左の手には釘が打ち込まれた。

 夜が終わり、朝が来る。

 目玉を抉ろうとした若い男は、ダインの「腐り易いからやめとけ」の発言に耳に狙いを変更した。

 朝が終わり――

 その頃、気付く。

 ダインは、こちらを殺す気は無い。

 痛め付けているのを楽しんでいる様子も無い。

 むしろ退屈そうだ。

 気付くと若い男が居なくて、入り口横の弓使いの男と、ダインだけが部屋に居た。

 背もたれを前にした椅子に腰掛け、ダインは心から退屈そうにこちらを見ていた。

 見上げる気力も無い。

 だが、位置的に必然、ダインの顔を見た。

 何が狙いかと問おうとして、声が出ないのに気付く。


「あぁ――悪ィ。悲鳴はうるせぇから、喉は昨日潰した」


 覚えてねぇの? と、椅子から立ち上がる。

 目の前にダインが屈みこむ。

 こちらの顔、耳のあった辺りに触れる。


「傷口焼いたのはきつかったんだろ」


 ダインは傷口を指で弾き、笑いながら身体を起こした。


「質問、だいたい分かってる。――何が狙いだ、って? いや、まぁ。――お前を生かしておけば、救出に来るかって思っていたんだが、無理そうだなぁ」


 アルタットが狙いか。

 当たり前だ。

 アルタットは街を出ている筈だ。

 それに――アルタットがブロウを探し出す方法は無い。

 此処に辿り着けない。


「うちの若いのも拷問に疲れてきているみたいだしなぁ。そろそろ――死んどく?」


 ドアが開いた。

 若い男が帰ってくる。

 確かに顔に疲れが見える。

 どれだけの悪人でも、何日間にも渡って人の身体を傷付け続けるのは難しい。

 だから拷問士や処刑人は幼い頃から鍛錬を積むのだ。

 人の身体を効率的に傷付ける方法ではなく、人を傷付けても己の心が傷付かぬ方法を、鍛錬するのだ。


「ダインさん」

「ん?」

「妙に、霧が出てきました」


 霧。

 その言葉に弓兵の男が動いた。

 手に持っていたのは弓ではない。

 クロスボウだ。

 弓よりも反動が大きい武器だが、堅い鎧でさえも貫く弓の一種。

 竜の鱗でさえも貫く――武器。


 ――まさか。


 ダインが外を見た。

 その顔に、明瞭に浮かぶ笑み。


「来たか」


 見下ろす。

 呆然と見るブロウに笑いかける。


「囚われの王子様を助けにお姫様がやってきたみたいだぜ?」


 手を伸ばす。

 ダインのズボンを掴んだ。

 違う。

 マールは違う。

 もう私とは関係が無い。


「散々お前の痕跡を残してきたんだから――竜なら追ってこれるだろ」


 騎士と心を繋ぐ竜。

 違う。

 それでも違う。


「――い、ん」

「お? もう話せんの?」

「だ、いん、ち、が、う――」


 乾いた口内で必死に。


「わたしの、りゅう、じゃない」

「あー、そう」


 簡単に答える。

 空いた足がブロウの手を踏み潰した。

 骨が砕ける音が体内で、ちぎられた耳で響く。


「お前の竜とかそういうのじゃなくて、別にいいの。知ってるか? 白竜の体内に霧を溜め込む袋があるんだってよ。幻を見せる霧が高濃度で溜め込まれている袋」


 ダインは楽しげに笑っている。


「粉状のそれを、人間が一舐めすりゃあ、それだけで天国のとびきりの麻薬さ。天井知らずの値が付く。まぁその他にも、竜の身体は使い道は色々あるがな」


 腰に帯びている竜の爪から掘り出したナイフをひとつ叩いて、ダインは歩き出した。


 ダインが待っていた助けはアルタットではない。

 マールなのだ。

 白竜の、マールだ。


 ぼろぼろの手を見る。

 指は千切れ、骨は折れ、爪は無い。

 ダインも、弓使いも、若い男も居ない。

 視線を動かす。

 痛みに身体が動かない。

 失神を繰り返した身体は既に痛みに竦んでいる。

 視線の端に何かが光った。


 ナイフ。

 血の付いた、ナイフ。


 右手を伸ばす。

 握る事でさえ激痛になる。

 奥歯を噛み締めてナイフを引き寄せた。


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