第2話・3章
「――ブロウ」
アルタットの足元で、彼が拾った黒猫がうろついている。
ブロウの顔を見上げ、何か悟ったのだろう。
行儀良く、その場に座り込んだ。
綺麗なグリーンアイがブロウを見つめている。
アルタットは黒猫を見て、それからブロウに視線を戻した。
そのアルタットの瞳に浮かぶ色を見て、咄嗟、ブロウは瞳を伏せた。
本当に、これがアルタットか。
冥王との戦いでも――あの、命を失いかねない戦いでも、仲間たちを支え、守った勇者なのか。
瞳に歪んだ色がある。
殺意。憤怒。恐怖。
そして、人はそれを狂気と呼ぶ。
アルタットはブロウの名を一度呼んだきり、緊張を解かない。
武器を構えこそしなかったが、ブロウが何か敵対行動を行えば、すぐさま武器を抜くだろう。
「俺を追って来たのか?」
「あぁ」
「お前も、俺を殺しにか?」
「……」
アルタットの声。
微かな笑いさえ含ませた軋んだ声に、この三ヶ月の間、何があったかを考える。
考え――ブロウは伏せていた瞳を上げる。
狂った緑の瞳から視線を逸らさない。
せめて、と思う。
せめて――と。
「貴方を助けたい」
ブロウは微かな声を出す。
ぎりぎりと胸の奥で、今でさえ後悔が動いている。
それでも――。
この勇者を殺せないと思った。
右手を差し出す。
指の間に一枚の紙が挟まれていた。
アルタットはブロウの瞳を見つつ、それでもその紙に手を伸ばし、受け取る。
「この街に行ってくれ。――私の古い知り合いが居る。その男は人の肉体を変化させる術に長けている。外の大陸に行く手段も用意してくれるだろう」
「そして?」
「アルタットの名と身体を捨ててくれ」
「それで俺を追う人間が消えるのか?」
アルタットが笑う。
紙を軽くひらつかせる。
紙が鳴る。
「貴方の痕跡は今現在、私が知りうる限りすべて消し去った」
「……」
「少しは持つ。貴方が、その街に行き着くぐらいは」
顔を変えたのなら追跡は難しい。
そして、外の大陸に行けば――もう追えない。
大陸の外に、この大陸の法は通じない。
アルタットは紙を見た。
「――ひとつ、聞きたい。どうして、俺を助けるんだ?」
「仲間を助けるのに理由が要るのか?」
アルタットは不思議な言葉を聞いたようにブロウを見る。
子供のような驚きの色が浮かんだ顔を、真っ向から見つめ返す。
「仲間か」
「私を仲間と呼んでくれた貴方の言葉は忘れない」
「そうか」
少しだけ。
少しだけ、アルタットが笑った。
三ヶ月前。
あの時に見た笑みを思い出す――薄いが、確かに、そんな笑みだった。
「――仲間、か」
ぽつん、と、呟く。
「皆、死んでしまった」
「……あぁ」
「残ったのは――」
みゃあ、と猫が鳴いた。
アルタットが猫を見る。
口元、僅かな笑み。
「あぁ……ヴィーと、ブロウだけだな」
「……」
「俺は」
アルタットが猫を抱いた。
猫はブロウを見る。
アルタットもブロウを見た。
二組のグリーンアイ。
「俺は――もう仲間を失わなくていいのか?」
「……」
ブロウ、と。
「お前は、どうする気なんだ?」
「……」
「俺を助けて、お前は、どうなるんだ?」
「三日が限度だ。私が幾ら情報を操作しても、貴方の痕跡を隠せるのは三日が限度だ」
「ブロウ」
「三日間でその街に行き着き、男に会って欲しい。術自体はすぐ終わる。その後は、その男に任せればいい」
「ブロウ!」
叫び。
「だから、お前はどうするんだ、ブロウ!」
「三日の後、私はすべてを報告する」
ブロウは微かに笑った。
「その後の事は――分からない」
嘘だ。
裏切り者に与えられる事など決まっている。
腕を引かれた。
アルタットの手が、こちらの腕を掴んでいる。
痛いほどの力だ。
落とされた黒猫のヴィーは地面の上からブロウを見た。
「お前も行くぞ」
「アルタット殿」
「二人で逃げればいい。一人よりもずっと簡単だ」
「……」
「別の大陸に行くって言ったな? そこで冒険者をやればいい」
無理だ。
首を左右に振る。
アルタットは言葉を続ける。
「俺とお前と、ヴィーと、マールで。――大丈夫。きっと巧く行く」
「すまん」
「何故?」
握る力はとても強い。
それに手を掛け、指を一本ずつ、剥がしていく。
「私は国を裏切る」
ダインが言うように、ゴミのような人間だったブロウに、手を差し伸べてくれた最初の存在。
それを、裏切る。
他の誰がこの行為を許そうとも。
ブロウ自身が、己を許せなかった。
「その責任を、取るべきだ」
「ブロウ」
「いや、取らせてくれ」
頼む。
右手の指を、振り解く。
一歩、下がった。
アルタットの手が届かない範囲へと、逃げる。
「――三日だ。三日で、全てを完了させてくれ」
「嫌だ」
「頼む、アルタット殿。もう私は動いてしまった。貴方の痕跡を幾つも消した」
どうやっても裏切り者だ。
「私の行った事を無駄にしないで欲しい」
一歩、下がる。
闇に、溶ける。
――アルタットは追って来なかった。
闇の中、ブロウは独り歩く。
微かな羽音。
マールが足を止めたブロウの横に降り立つ。
いつものように長い首を絡め、擦り寄って来る。
自分だけはブロウの傍に居る。
そう宣言するように。
手を伸ばし、長い首に触れ、撫でる。
そのまま指先を滑らせ、鞍に触れる。
幾つかの金属を外せば、鞍は地面に落ちた。
音に、マールが驚いたように身体をびくつかせた。
「マール」
淡いブルーの瞳を見る。
「命令だ」
マールは黙って言葉を聞く。
「私の元から消えろ。二度と私に近付くな」
シャウ、と、マールが鳴く。
小首を傾げる。
よく分からないらしい。
困ったように地面に落ちた鞍を見る。
首を振っている間に手綱まで解けてしまった。
落ちた鞍と手綱を間に、おろおろと左右を見回す。
そのマールに背を向けた。
歩き出す。
マールは慌てて追ってきた。
ブロウの前に降り立つ。
ぺたり、と、地面に這う。
背に乗れ、と言うのだ。
ブロウは首を振る。
否定の動きに、マールは上目遣いにこちらを見た。
困っている。
「私は恐らく死ぬ。ただの死ではない。楽には殺して貰えん。私の傍に居れば、お前にまで被害が及ぶ」
分かるか? と問い掛ける。マールはブロウの言葉を聞いている。
「恐らく、苦しい死だ。――臆病なお前に耐え切れるか?」
ゆっくりとマールが身体を起こす。
「人が好きならば新たな相棒を探せ。お前にならきっと良いパートナーが見つかる」
ただ、と、マールの首筋を撫でた。
顔を寄せてきたマールの頬に当たる位置に、唇を押し付ける。
マールは泣いていた。
大粒の涙を幾つも零している。
ブロウはやはり泣かなかった。
「ただ――今度は表世界で生きている人間を選ぶといい」
もう一度マールの頬に口付けて、身体を離した。
ブロウはマールを置いて歩き出す。
後ろを振り返らなかった。
マールはきっと、蒼い瞳に涙を浮かべて、ブロウの背中を見つめているだろう。
最後に、と選んだ場所はマールと三ヶ月の休暇を過ごしたあの家だった。
三日間。
アルタットと、マールの事ばかり考えた。
――扉が開く音がした。
「――よぉ」
声。
既に反応する気力も失せていた。
それでも、条件反射のように、首がそちらを見る。
片手を上げて挨拶を送ってきたのは――ダインだった。
ブロウは座っていた椅子から立ち上がる。
「思ったより早かったな」
「お待ちかねかと思ってね」
ダインが近付く。
ブロウは動かない。
「アルタットは何処へ行った? 物の見事に追跡不可能になってるぞ」
「……」
ブロウは何も答えずに笑う。
「白竜も……何処へやった? 気配がねぇぞ?」
やはりブロウは笑う。
ダインが大げさに舌を打ち、その右手が握り締められる。
次の瞬間、殴られていた。
遠慮のない拳の一撃。
床に倒れて、口の中の違和感を吐き出せば、血の中に白いものが数本混じっていた。
歯だ。
「覚悟してた、って訳か」
了解、と、ダインがぞっとするような良い笑みを浮かべる。
「ご期待に答えてやるよ」
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