道徳地獄

室小木 寧

道徳地獄



「ダメよ、そんなのは不道徳だわ」


 それは私が中学二年生だった秋のこと。十一月二十四日、土曜日の昼下がりの出来事だと今でもしっかりはっきりと覚えている。

 芳江さんのブラウスが薄いクリーム色だったのも、あの日はスカートではなく濃い色のブルージーンズをはいていたことも。束ねた長い黒髪が数本、解れておでこに張り付いて細い線を描いていたのも。

 よく磨かれたシンクが銀色に光って、台所の横に置いていた水栽培のローズマリーが匂っていたことも。

 芳江さんの怒ったような悲しいような寂しいような、子供を咎める大人の顔で、本当は地獄から連れ出してほしい女の顔を必死に隠していた。あの痛みに耐えるような表情も。

 私はすべて覚えている。いや、忘れられないのだ。

 何故ならそれが私が最後に見た、生きた「鈴井芳江」の姿なのだから。


 鈴井芳江は私の兄の妻であり、歳は私の五つ上、当時はまだ十九歳だった。いま思えば彼女はとても若く、そしてまだ少女と呼んでも良い年頃であったのだろう……しかし、それでも母を早くに亡くした私にとって彼女は初めて身近に感じた大人の女性であり、そして初めて美しいと思った女性でもあった。

 芳江さんと兄が何故結婚したのか、理由は今でもわからない。あの男がどこからどうやって、年下の、身寄りのない芳江さんを見つけたのかは最期まで教えてくれはしなかったが、あの頃、幼い私はずっと恋愛の末に結ばれたものであると信じていた。いや、そうであって欲しかったのだ。私はまだ子供であったから、この姉のような母のような芳江さんが、まだ若い芳江さんが狭く小さい我が家にてその青春を、兄と私と病床の父との世話と家の守りで消費しているなど、家に帰らず芳江さんの方を省みない兄をただ家で待ち続けるそんな日々を過ごすなど、二人の間に愛がなければ、せめて愛情という名の陳腐で薄っぺらい免罪符でもなければ、その仕打ちは許されないと思っていた。


 我が家に嫁いでからというもの芳江さんの顔色は次第に紙のように白くなり、その顔は憂いに染まっていった。私は芳江さんの気持ちを少しでも慰めるために何ができるか、常にそればかり考えていた。彼女を母のように姉のように慕い、彼女の手伝いをした。彼女が望むならば私は道化にも下男にもなったであろう。彼女を笑わせることを私は常に考えていた。たとえ彼女の心が、その全てが夫である兄のものであろうと、兄のいない間は私が彼女を支え、守る存在でありたいと思っていた。

 兄にとって芳江さんは住み込みの、セックスと内職をしてくれる若い家政婦でしか無かったのかもしれない。家事の担い手、持病が進行し、ついに寝たきりとなった父親を看病する存在が必要で、そして妻となってくれる相手を探し、彼女を見つけたのかもしれない。

 深夜、電気のついていない寝室で一人「騙された」と呟きながら泣いている芳江さんの、白く、ぼうっと浮かび上がるその幽霊のような痛ましい姿。新婚であるはずの兄が、他所に恋人をこさえていると知ったのはそれから一ヶ月後の事だった。


 私は兄を憎んだ。彼女という存在が側にいながら不義理を働く兄を。もしもそれが許されるならば、私は兄を殺し芳江さんを奪い、彼女を連れて遠く、どこか遠くの誰も私たちの事を知らない土地にて、彼女を私の妻にしたであろう。私は彼女を永遠に守り、あの男に付けられた傷を、踏みにじられた尊厳を癒すためにすべてを捧げ、彼女の事を誰よりも愛するだろう……しかし、それはまだ中学生の私には不可能であった。私はまだ無知であり、非力であった。


 私は芳江さんに恋をしていた。それは地獄の恋であった。地獄の炎はわが胸に宿り、彼女を慕えば慕うほど火鼠のように荒れ狂い私を苦しめた。

 この家は地獄である。芳江さんという人が居ながらも、彼女を蔑ろにし、他所の女と恋をする不誠実な兄。病の臭いをぷんぷんさせ、日々衰弱し、死に近づいていく父。兄という悪漢に捕まり、未来を摘み取られ若さと美しさを腐らせてただただ削れていく芳江さん。そんな芳江さに恋をする子供である私。

 逃げたかった。私はこの家から逃げ出したかった。ここにいてはいけない。ともに逃げようと私はあの日芳江さんに迫ったのだ。

そして芳江さんは


「そんなのは、不道徳というものだわ」


と言ったのだ。


 芳江さんが死んだのは翌日の昼、電車が迫る踏み切りに一人飛び込んだのだという。

 兄は涙すら流さなかった。それどころか、心なしかまるで「迷惑な死にかたを選びやがって」という顔をしていた。

 私は芳江さんの死を受け入れられなかった。遺書が見付からなかったから、顔も体もぐちゃぐちゃに砕かれた彼女は直ぐに焼かれて骨となり、彼女が帰ってきたときはすでに一抱えの小さな壺に納められていたから。こんな小さなものが初めて抱いた、ずっと私が抱きたかった「鈴井芳江」。白い布でくるまれた彼女を抱き締めると、ほんのりとあたたかいような気がした。

 この壺の中に入っているのは芳江さんではなくふらりと町に現れた芳江さんに背格好の似た誰かで、本当の芳江さんはその誰かと入れ替わりに町を出ていったのでは……そんな夢想をしたところで、芳江さんはもう会えないのだ。


 芳江さんが死んだ後、直ぐに、本当に直ぐに兄は恋人を家に連れてきた。兄よりも年上の派手な女。彼女は一方的に父を嫌ったため、兄は彼女を連れて家を出た。それから程なくして父は入院した。病がすでに身体中を蝕みつくしていて、もう家では十分な面倒を看れなくなってしまっていた。強い痛み止や栄養剤、その他様々な名前の点滴の管を枯れ枝のような身体中に纏った父は病室の隅でこんこんと眠り続け、眠ったまま、家に帰ることもなくそのまま亡くなった。葬式にも現れなかった兄夫婦は遺産と家を受け取り、私は残りの取り分で遠方の大学へ入学した。



 「不道徳」とは何の事だろうか。



 道徳に反すること。アンモラルな行為。不義。不貞。


 汝殺すなかれ。


 汝姦淫するなかれ。


 汝盗むなかれ。


 

 道徳とは人が人として、社会という集団のなかで安泰に生き続ける上で守るべき判断基準である。それに反する行動が“不道徳”であり、不道徳な行為が忌まわしいものとされるのは、それを許せば社会が成り立たなくなるからだ。人は自らの命を、安寧を守るために不道徳を忌み、排除する。

 彼女は、芳江さんが死んでも守りたかったものははたして「道徳」であったのだろうか。彼女のおかれている立場は死んでも守るべきものなのだろうか。彼女はまだ若かった。その気になればあの家を飛び出してなんとでも生きていくことができるだろう。自分を愛さず奴隷として扱う男など捨ててさっさと他の男を探すなり、どこか一人で自由きままに暮らすなりできたはずだ。生き延びるために逃げることは、夫とその家族を捨てることは「道徳」に反した行為だろうか。たとえそれが道徳的に反していたところで、それは自死をもってしても守るものだろうか。

 自分が生きるためのものを守って自分が死ぬとは、なんとも馬鹿馬鹿しい話ではないだろうか。芳江さんを裏切った兄は不道徳であり、不誠実であったがのうのうと生きているではないか。

 

 もしかしたら「不道徳」な兄に対抗するために芳江さんは死ぬまで兄と家に尽くし貞淑な妻を演じていたのではないだろうか。不道徳な男に騙されて嫁いだあわれな娘。愛した男に裏切られ、それでも彼を裏切らず、悲しみと絶望の末に死んだ女。だれかがその姿を知っていれば、彼女はいつまでも清く悲しい存在でいられる。しかしそれは果たして「道徳をつらぬいた」と言えるのだろうか。それは一種の社会と兄に対する復讐であり、命をかけた呪詛的行動ではなかろうか。



 私は夢を見た。今はすでに取り壊された実家の、なにもない仏間に白木の棺がおかれている。

 それは芳江さんの棺であった。棺の蓋を開けるとその中にはみっちりと細切れになった芳江さんが詰まっている。

 私はまだ温もりのある肉の海に足を浸す。ずぶずぶと体が埋もれていく。

 私の体は芳江さんに包まれている。まるで母の胎内に戻ったような安心感。私が求めていた世界が棺のなかに構築されていた。

 私の鼓動ともうひとつ。芳江さんの鼓動が聞こえる。この海は生きているのだ。私は彼女の心臓を見つけるために桃色の肉を掻き分けて泳ぐ、体を動かせばふるりふるりと揺れる肉たち。肉の海の中で小さな心臓を捕まえ、掬い上げる。

 心臓だと思ったそれは両手にすっぽり包み込まれるほどの大きさの流金であった、赤くまるっこいからだを震わせぴちぴちと跳ねている。パクパクとあえぐ口が、私を見つめる光る目が、ぱたりぱたりと震える尾びれが、そのどれもがなまめかしく可愛らしい。

 

 私にはその流金が芳江さんの正体に思えてならなかった。どこからか、多くの金魚の中から適当に選ばれ連れてかれた安い金魚。一人きり水槽の中に押し込められ、水の中でしか生きていけなかった。跳ねた拍子に水槽から落ちた哀れな流金。

 

 「愛してる。芳江さん、僕はあなたの事を誰よりも愛しています」私の告白に応えるように、手の中で金魚は体を跳ねさせる。

 私は大きく口をあけ、それをつるりと飲み込んだ。

 



──ああ、最初からこうしとけば良かったんだ。


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