シバルナ

ポール石橋

シバルナ


 1


 闇の中にいる。どこまでも深く、落ちていきそうな、延々と伸び続ける黒い闇。周りには何もない。ただその空間だけが、ちっぽけな俺を嘲笑うかの如く広がりを見せ、引くでも迫るでもなくそこにある。音はなかった。そこら一体を、そもそもその広さすらも闇のために認識できないのではあるが、確かにだだっ広い一つの空間を、もしくは連続したいくつもの空間を、ずっと静寂が支配していた。風もなかった。ここが屋外なのか屋内なのかも分からないが、何故風が吹いていないのか俺は酷く気になった。それは自分の体そのものの存在に対する確信を抱きたいがためかもしれない。風が吹けば俺の肌はそれを感じ取り、その現象そのものによって、俺は自分の体がここにあるということを認識できる。しかし、それは今は叶わぬことであった。今ここにいる俺は、俺という人間の何であろう?周りの世界には『生』も感じられなければ、『死』も感じられない。その言い方には矛盾を含んでいるかもしれないが、ここに『有る』のは『無』のみであった。

 その時、初めて誰かの声が聞こえた。それはとても正気を保っているとは思えぬほどの奇声であった。泣き叫んでいるようでもあれば、笑っているようでもあった。助けを求めているようでもあれば、怒りをぶちまけているようでもあった。声ともつかぬその声は、この空間に反射するように四方八方から鳴り響き続け、遂には俺の耳を形作った。そしてその声をしばらく聞いているうちに俺の頭が現象し、その中でキーンという嫌な音が刺激を始めた。不快だ。

 と、前方に何かが現れた。人だ。誰かがそこにいる。そして、そいつこそがこの声をあげているのだ。遠くにいるために、顔は見えない。だが、奴が何かに縛られていることは分かった。奴の体は幾本もの縄でぐるぐるに縛られ、身動きが出来ないでいた。何故、奴が縛られているのか俺には分からない。しかし、それに同情することはなかった。奴の今の状態をやすやすと受け入れることが出来た。奴は叫んでいる。人とも野獣ともつかない、理性を失った声。恐らく、その顔にはこれでもかと言うほど見開き切って充血した目と、歯をむき出しにしたがために汚らしく涎を垂らした口とがあるのだろう。可哀想な奴だ。それは同情ではなく、侮蔑だった。


 2


 俺はゆっくりと目を開けると、いつもの天井をその視界に認めた。隅の方にある特徴的な形をしたシミは、ここに住み始めたころには女の顔のように見えて気味悪がっていたものだが、今ではそんな恐怖も疾うに薄れ、寧ろこの部屋に潜むうら寂しさを紛らわせてくれる同居人と化していた。彼女の自然なままにのばされた艶のある髪は美しく、俺はただただ見とれていた。どうにかして彼女と触れ合い、お互いの空しい心を満たせないことだろうか。しかし、彼女はこちらに下りてくることは出来ないし、俺もまたそこにこの手を届けることが出来ない。俺たち二人はまさしく現代の織姫と彦星としてこの部屋にいた。

 こうしたどうしようもない妄想とも思考ともつかぬ考え事をしては自分自身に嫌気がさした。何の成長もないまま青森での三年間の高校生活を終え、行きついた先はここ、宮城県仙台市。この地の大学に通って、既に半年が過ぎていた。一人暮らしには慣れる気もしないが、大した不便もない。誰にも邪魔されずに生活が出来るのは悪くない。何せ、自分で選んだ道だ。後悔はしていない。していないのだ。あのしみったれた人生から抜け出すことが出来たのだから。

高校二年生の時に、俺は寺山修司の『家出のすすめ』を読んだ。その時の衝撃をどう表したら良いだろう。自分という存在それ自体の否定、もしくはそれまで感じていた不快なる違和感への気づきとでも言おうか、それは当時の俺の心にロンギヌスの槍のごとき鋭利さを持って突き刺さった。それこそが真理であった。どうしてそれまで気付かずにいたのか自分を責め、蔑んだ。そうだ、俺はずっと縛られていたのだ。親子、兄弟、教師、学校、友情、道徳、常識、人間、全てが俺を縛り付ける無情の鎖であった。そしてそれに何の抵抗もなかった。ああ、何と冷酷非情な世界、俺は俺自身とその周りの全てを嫌った。そして決めた。俺はここから脱出せねばならぬと。そう考えれば大学受験は絶好の機会であった。大学に行くという口実の下で家を脱し、一人暮らしを始めることが出来る。親も特に渋る様子がなかったから、俺はこの仙台の大学へとやってきた。初めは東京に行くことも考えたが、丁度良い学力の大学もなかったし、いきなり東京まで行くのは少し気が引けた。

 最早俺は何にも縛られない。一つの自由な生命体としてここにある。俺はやっとこの世に生を受けた気がした。もっとも、そう思ったのも束の間のことではあった。

 壁にかかっている時計を見ると十一時二十四分を指していた。今日の授業が始まるのは十三時から。一時間以上も余裕がある。俺は重い体を起こして台所へと向かい、カップ麺を一つ取り出した。


 3


 薄気味悪く曇天に包まれたキャンパスは、いつも通り人で溢れていた。男と女、それに国際化を謳うだけあって外国人の姿もあり、一見すると多種多様な人々がいるようであるが、俺の目にはどいつもこいつも同じ顔に映った。彼らの多くはその心に鬱屈とした感情の一欠けらもなく、この社会という濁流の中で何の抵抗もなく流されていく小石として生きていて、それをそのまま受け入れていた。いや、その表現は些か間違っている。受け入れるも何も、彼らは認識していないのだ。自分たちが非力で無意味で無用の存在と見なされていることにも、自然の中にただ立ち尽くすだけの人生に置かれていることにも気付いていないのだ。俺とは違う。彼らは正に社会の鎖に縛られていた。そしてそれを知らぬままに生きていくのだ。誰も彼もが同じだ。決まりきった生き方と決まりきった社会規範、奴らはマシーンの如く決まりきった動きを俺に見せた。俺は彼らを助けるべきだろうか?いいや、俺は縛られて生きる者に同情はしない。ただ憐れむだけだ。

 キャンパスには三つの棟があった。A棟、B棟、C棟、これら縦長の棟が川の字になるように並び、それぞれが一階と二階の渡り廊下で繋がっている。A棟とC棟は四階建てで、それぞれ小教室を三十二部屋、階段教室を一部屋ずつ持つ。一方、B棟は二階建てで、大教室が八部屋、階段教室を一部屋持っていた。俺が入学する前にイメージしていた所謂大学の授業というのは階段教室での授業であったが、実際にはここで行われる授業はそう多くなく、どことなく苛立ちを感じた。小教室などは高校までの教室と大して変わらず、何と言おうか、進歩を感じられなかった。大教室も広さだけは小教室の二倍ほどあるものの、あの黒板の位置だとか、教卓の見栄えだとか、机と椅子の配置だとか、どれもこれも見知ったもの、イメージ通りのものであった。それは俺の心を侮辱しているようだった。

 間違いなく、俺は大学という奴に到底超えることの出来ぬような期待を抱いていた。それまでとは違った、新たな世界がそこに開いていると思っていた。学生だって、きっと自分と同じような自由を求める人間が少なからずいると信じていた。そこに自分が立っている明日を夢見て、俺は受験という地獄を乗り越えてやって来たのだ。だが、実際のところはどうであろう。結局、ほとんどのことが変わりはしなかった。いつもの空気が生きていた。場所が変わろうと、親元から離れようと、世界は変わっていなかった。絶望はしなかった。俺は世界に失望した。この世界に出来る限りの軽蔑をした。

 さて、今日の最初の授業は、その数少ない階段教室での授業の一つであった。俺はC棟に入ると憂鬱な気分を引きずったまま二階へと上がり、「C200」という名を与えられたその教室に入った。扉は階段教室の一番上に繫がっている。右側、真ん中、左側それぞれに長机が順々に教卓のある階下の空間から今俺のいる室内の頂上まで並べられおり、机の間は人が通れるようになっている。真ん中の列のものはそのまま正面を向いているが、右側と左側の机たちはそれぞれが斜めって教卓の方を向いている。多くの席が既に埋まっていて、特に後ろの方の席はもう空きがなかった。そいつらに一瞥をくれてやることもなく、俺は冷たい顔をしながら緩やかな階段を下りて行き、真ん中の列の前から五列目、そこの右端に座った。重たいリュックサックを左隣の席に置いて、そこから筆記用具と教科書を出す。心理学の本だ。

 授業が始まるまではあと三分程か、どうせこの授業の教授は遅れてやってくる。まだ余裕はある。他の学生たちの大半はスマートフォンを眺めているが、俺はそんなことはせずパラパラと教科書をめくる。どれもこれも大して面白そうに見えず、頬杖を突いて上がっている俺の左頬は、一層冷ややかなものになった。が、あるページにふと目が留まった。それは『夢』に関して書かれているページである。『夢』というものが心理学的に見てどういった意味があるかが書かれているが、そう言ったことはさして重要でない。俺はそれを見て単に昨夜見ていた夢のことを思い出したのだ。俺は何かよく分からない暗闇の中にいて、そこには最初何も無かった。自分自身すらも感じられなかった。だが特に恐怖を感じることもなかった。そして、その中に何かが現れたのだ。それは…。

「おはよう」

 突然に右の方から声がした。顔を向けるとそこには見知った女が一人いた。

「葉子か」

 俺は席を一つ左にずらし、葉子の席を空けてやった。彼女は俺と同じ高校からこの大学にやってきた唯一の人物であった。学部も同じで、元から友人であったため、今もこうして付き合いがある。俺は大学に来てからサークルに入ることもしていないし、特に交友関係を広げていない。そのため、おそらく彼女が最も近しい友人と言える存在だ。一方、彼女の方は何人かの学生とそれなりに新しい友情を育んでいるようだが、そのうちでこの授業を取っているのは彼女だけらしく、いつも唯一見知った顔の俺の隣にやってくる。

「危うく遅刻するとこだったあ。まあこの授業なら遅刻しても問題ないだろうけど」

「そうだな。何なら欠席でも問題ないだろう」

「でも私一応心理学専攻希望だしさ、授業は受けておきたいのよ」

 俺は「そうか」と一言だけ言うとまた頬杖をついて、教科書を眺め始めた。隣で葉子は上着を脱いでひざ掛けの代わりにしている。そして小さめのハンドバッグから筆記用具と教科書を取り出した。

「何のページ読んでるの?」

「ん、いや、別に」

「別にってことはないじゃない。教えてよ」

「…『夢』のとこだよ」

「『夢』?ふうん」

 食い下がって聞いてきた割には興味のなさそうな声であった。そして葉子は羽織っていた黒のジャケットからスマートフォンを取り出すとそれを濁った眼で見つめ始めた。

「そんなもの見るのやめろよ」

 俺は葉子に言ってやった。彼女は不思議そうな顔になるが、あくまでもその眼はスマートフォンに向いている。

「どうして?いいじゃん。まだ先生も来てないし」

「それじゃ他の奴らと一緒だぞ。何も考えてない頭の空っぽなこいつらと一緒じゃいやだろ。俺はお前だから言ってやってるんだ。周りに流されるんじゃない。しっかりと自分の意志で…」

「私は自分の意志でこうやってスマホ見てるわけ。別に流されるとかじゃなく」

「お前は知らないうちに縛られてるんだぞ?暇な時間にはスマホを眺めるっていう、まるで現代の固定概念のような意識に…」

「ああ!もううるさいなあ!私の勝手でしょ!」

 何故葉子は怒っているのだろう。俺は親切心から忠告してやっているのだ。自分が縛られていることに気付かれぬまま死んでいくのは最も恥ずべき行為だ。このままではこいつはそれを何のためらいもなく行ってしまうだろう。何とかして助けてやれぬだろうか。数少ない友人だ。どうにか手助けをしてやりたい。

 そして再び声をかけようとした時、丁度教授がやってきて、葉子はスマートフォンをしまった。俺の口が馬鹿みたいに開いたまま授業が始まった。


 4


 三時限目が終わった後、葉子はそそくさと部屋を出て次の授業へと向かった。俺は四時限目に授業を入れていなかった。五時限目には授業がある。それまでの九十分間が空き時間だ。所謂空きコマである。大抵の人間はこれを自習時間として使う。だが、俺は違う。折角の空き時間だ。体を机に向けて固まったままでいるのは勿体がない。俺は散歩に出ることにした。


 外に出ると冷たい風が吹きすさび、俺の肌は痛みとしてそれを受け取った。俺はポケットに手を入れて肩をすぼめると、一先ずキャンパスの敷地から出ようと思い、門の方に足を向けた。はてさて、散歩のコースはどうしたものか。出来れば、あまり街中の方には行きたくない。かと言って、この山の中にあるキャンパスより更に上の方の、嫌になるほど草々が茂った所にも行きたくない。俺は傾斜の大きい下り坂を歩きながら考える。この下り坂をこのまま行けば、まずT字路に行きつく。そこを左に行くと美術館、右に行けば博物館や仙台城跡に行くことが出来る。だが、そのどちらを以てしても今の俺の心に訴えかけることは出来ず、どうにも魅力に欠けていた。それらはどこか一定の目的を持っていた。「博物館に行く」だとか「美術館で絵を見る」だとか、そうした一つの目的を達しようという心の中にあるのだ。俺が現在望んでいるのはそうしたありきたりの時間の使い方ではなく、もっと自然で、偶然的である行為だ。特別な目的はいらない。

 そう考えているうちに俺はT字路を右に曲がり、そのまま道なりに歩いていた。道路を挟んで右手には博物館が見える。鬱蒼とした林の中に硬質的なその建物がドスンと居座っていた。やはりそこに求めているものは見つからない。俺は博物館の前を通り過ぎると、橋に足をかけた。その橋の名は『大橋』と言う。名前程大きくもなく、ごくごく普通の橋だ。この下には広瀬川が流れており、河原には時折サギなどの野鳥も見える。川はいつも通り清らかさを持っておらず、どことなく濁って見えた。俺から見て左から右へと流れている。仙台の地に来てから名前だけは何度となく聞いてきたが、この広瀬川のことを俺は良く知らない。確か有名な歌の歌詞にも入っていたと思うが、俺にはこの地の人々がこの川にどんな特別な思いを抱いているかなど、全く見当もつかなかった。

 ふと思った。そうだ、広瀬川沿いに流れと共に歩いてやろう。これはなかなか面白そうだ。俺は大橋を渡り切るとすぐある横断歩道を渡り、わき道に入った。右手に広瀬川を見ながら歩いて行く。我ながら、なかなかに風情がある。心なしか歩く速度が速まった。広瀬川の水面はゆらゆらと揺れながら、どこかうざったい日の光を反射しながら流れていた。俺はそれを右手に見ながらただただ歩く。それだけだ。だが、それがいい。俺は固定概念に縛られず、他の人間とは違った動きをしていた。冷たい風も、眩しい太陽も、濁った川の水も、全てが俺を喜ばせた。この時だけは自由を感じていた。心の中に一つの充足感が生じ、俺の体を安心させた。顔には笑みがこぼれた。

 しかし、しばらく歩いているうちに、俺を不快にさせるものが目の前に現れた。緩やかなカーブを描いていた広瀬川は段々にその角度を強めていき、遂には迂回する。その丁度迂回する点、そこに何やら大きな建物があった。一体何だろうと俺は不思議に思っていたが、すぐに分かった。向こうからやってくる車、妙にスピードが遅い。運転席と助手席、それぞれに男が座っている。前者には若者、後者には中年だ。そしてその車の正面のナンバープレートの横、そこには確かに『講習中』という字が書かれていた。そこは自動車学校だったのだ。近づくと確かに運転練習コースもあり、そこでは若い女性が運転を、また、ガレージのようなところでは整備士の講習を受けているらしい若者たちもいた。

 俺は酷くうんざりした。折角の心地よい気持ちが無遠慮に土足で荒らされたような気分になった。大学でよく免許を取ったかどうか、という話を聞くともなく聞いてしまう。俺はそれを聞くたびに深々とため息をついた。どうやら彼らは自動車が運転したくて免許を取りに行っているわけではないらしい。ただ就職活動の時に不利にならぬよう取っていると言うのだ。私は思う。彼らは自分自身という人間の意思決定すら不可能な、出来損ないの人形なのだ。何故やりたくないと思うことを、社会的に必要なものだからと言ってやらねばならぬのだ。何故そこに一欠けらの疑惑も抱かぬのか。まさしくこの固定化された社会の奴隷ではないか。俺は絶対にそんなことはしない。どれだけ親から自動車学校に通うよう言われようと、自分で必要だと思った時にしか行こうとは思わない。本来、人というものはそうあるべきなのだ。

 さて、そうした不愉快な思いをしながらも俺は更に歩いた。広瀬川という奴は思っていた以上に曲がりくねっていた。だが、それはかえって普通でないことをしているという感触を強めてくれた。どうやらこの先の川の左側は切り立った崖のようになっているので、俺は一旦右側に移ることとした。どこにでもありそうな普通の橋を渡る。その下を流れる広瀬川はやはり濁っていて、河原には汚らしく変な色をした、蔦のような植物が氾濫していた。俺はそれから数分ほど川を左に見ながら歩いた。途中、何やら二羽の小さな鳥が低空飛行をしてきて、そのまま川に着水した。彼らはそのまま流れに身を任せてじっとしている。

 崖の部分が終わった後、俺は再び橋を渡って川の左側に行く。周りの風景は精肉店や曇ったガラスが張られた酒屋など、如何にも下町然としたものになっていく。そこに入ってみるのも悪くないとは思ったが、少し面倒な気分がして結局歩みを進めた。この辺りから河原のすぐそばを通る道ができており、俺はそこを歩くこととした。川が流れる音が聞こえてきそうなものであったが、実際には少ししか聞こえなかったので、仕方なく自分の頭の中で補完してやった。

 歩く。左に工業高校が見えた。何やら弓道場らしいところから威勢の良い掛け声が聞こえてくる。酷く耳障りだ。

 俺は段々と飽き始めていた。何に?歩くことに。もう十分に歩いた気がするし、十分に自由を感じた気がする。腕時計を見ると、キャンパスを出てから四十分ほど経っていた。そろそろ足も疲れてきたところであったし、この後の授業もある。ここいらで切り上げて戻ることにしよう。そう思っていると、目の前に少し開けた砂場のような場所が現れた。川がすぐ隣を走っている横で、そのちょっとした広場は得意げに存在していた。ベンチも二つ置いてある。家々が建ち並んでいる団地と川とに挟まれており、普通であればこの場所の存在に気づきそうにない。

 そして、その団地の方にも公園らしくフェンスで囲まれた場所があり、そこがこの広場と繋がっていた。何やら東屋のような屋根のかかった建物もあるようだ。どれ、あそこで少し休んでから帰ることとしよう。俺はその公園へと向かった。


 そこは公園ではなかった。また、俺が東屋だと思ったものも、違った。俺は目を疑い、背筋にひやりと冷たいものが走るのを感じた。俺が今まで見たことのない、異形のものがそこには居座っていた。

 屋根の下、ひっそりとそこにいたのは、赤い頭巾と赤い前掛けを着けた地蔵であった。その前には花瓶が二つ置かれ、どちらにも新しく瑞々しいピンク色をした花が添えられていた。だが、何よりも目を引くのはそんなことではない。何とその地蔵は幾本もの縄でグルグルに縛られているのだった。それは子供の悪戯のような幼稚で可愛らしいものではなく、明らかに強い意志の元で強固に、それでいてその縄が何本も、それこそ地蔵の胴体が全く見えなくなるくらいに彼を縛っているのだ。

 その光景を見た俺は眉をひそめた。一体この地蔵は何なのだ?何故この地蔵はこんなにも多くの縄で縛られ、自由を失っているのだろう。自分自身の意志を否定され、その存在そのものを何か薄暗い場所へと押し込まれているというのに、何故彼は平気な顔をしているのだ。

 俺は吐き気を催し、すぐにそこを去ることにした。広場の方とは逆の、道路の方に出入り口がある。俺は口を押えながらそこを出た。もうあの地蔵を見たくない。道路に面して、何やらあの地蔵の由来らしきものが書かれた板が立ててあったが、俺はそこに目もくれず、キャンパスへと向かった。


 5


 息を切らしながら着いたのは、既に授業が始まって三分ほど経った頃だった。小教室の前のドアから入ると、中にいた二十人くらいの生徒たちの目が一気に俺に注がれた。教師も同じように俺の方をちらと見ると、手元に置いてあったプリントを一つ取って無言のまま渡してきた。俺はそれを軽く礼をしながら受け取り、すぐ近くの席に座った。

 プリントには自分のライフキャリアを考えよう、というようなことが書かれている。何となくためになるかと思って取った、人生設計の授業だ。もっとも、今となってはそれを後悔している。

「大学に入ったからと言って就職が簡単になるわけではなく…」

 白髪の教師が喋っている。この授業で言われることは大抵俺をうんざりさせる、つまらない、くだらない情報だ。大学での生活についてだとか、大学を出てからどうするかだとか、そんなことは俺にとっては学ぶ必要のないことだ。何故ならもう既に理解しているからである。俺はそのことを高校の時から自分の頭で考え、自分の頭で正解を導き出したのだ。全く持って無意味である。

「それじゃあ、今日は隣の人とペアを組んで話し合ってもらいたいと思います。今の自分の生活を見直してみて、今後就職に向けて大学生活をどうするか話し合ってください」

 俺の隣の男は血色のよい、眼鏡をかけた男だった。目元が妙にきつく、それが薄い唇と合わさって意地の悪そうな印象を受ける。

「どうも、よろしく。文学部一年の佐藤です」

 意外にもその男は同じ学部であった。俺はそいつを別の授業で見たことがなかった。

「ああ、よろしく。俺も文学部だ」

「へえ!そうなんだ。よろしく。出身は?」

 俺は何故こいつに出身地を言わねばならぬのかと少し不快に思ったが、結局「青森だ」とだけ言った。すると佐藤は少しおどけたような表情になった。

「へえ!いいねえ、青森。僕行ったことないけどさ、行ってみたいんだよね。寺山修司が好きでさ。確か三沢に記念館があるでしょ。アレ、行ってみたいんだよね」

 寺山の名を聞いて俺が黙っているわけにはいかなかった。

「あんた、寺山の作品を読むのか?」

「ああ。そんないっぱいじゃないけどさ、エッセイと戯曲、あと映画をちょっぴり、ね」

 驚いた。俺の他にしっかりと人間の進むべき道を歩む者がいるとは。どうやらこいつとは話が合いそうだ、そう思った。

「なるほどな。それでこうやって大学生になって家を出てきたわけだ。俺と一緒だな」

 俺は口元を緩ませて言った。すると佐藤は驚いたような表情を見せたのち、不敵に笑った。

「いや、勘違いしてるみたいだけど、僕は実家暮らしだよ。仙台生まれなんだ」

 上手く言葉が呑み込めなかった。こいつは何を言ってるんだ?確かに実家に住んでいると言ったのか?それとも俺が聞き間違えたのか?

「お前、寺山の作品が好きなんだよな?」

「ああ、好きさ」

「…それなのに、お前はまだ実家に住んで、親と共に暮らしているのか?」

「ああ、そうさ」

「…ふざけるな!」

 俺は立ち上がった。瞬間、教室内の目の全てが俺へと向けられる。

「お前は何を考えているんだ?何故家から出ようとしていないんだ?おかしいだろう!お前は一体寺山から何を感じ取ったんだ?何で自由になろうとしていないんだ!お前は縛られているんだぞ、お前の家族に、友人に、故郷に、世界に!そこから抜け出すチャンスを折角得たというのに、何故それをみすみす捨ててしまったのだ!何故だ!」

 俺は怒りをあらわにして佐藤に迫った。今ここでこいつの全てを否定してやらねば気が済まなかった。いや、せねばならぬのだ。それは俺がここに存在するために必要なのだ。きっと俺の顔は今までないほどに醜く歪み、目の前にいる男をこれ以上ない侮蔑の目で睨みつけているだろう。だが、佐藤は涼しげな顔で、馬鹿にしたように笑いながら、事も無げにこう言った。

「もう少し自分の今の状況を考えてみたらどうだい?本当に君が自由になっているのかどうなのか。ひょっとしたら君は『縛られたくない』という考えそれ自体に縛られているのかもね」


 6


 俺は見慣れた天井を見つめていた。今日の授業をすべて終え、この俺の『家』に戻って来て、披露しきった体をベッドの上に投げ出した。天井には相変わらず彼女がいて、その魅力的な髪を俺に見せつけている。だが、今の俺にはそれはどうでもよい些末な出来事であった。

 この一日、様々なことがあった気がする。なかったような気もする。だが、そんなことはどうでもいい。俺の頭の中には佐藤の言葉だけが延々と鳴り続け、こめかみのあたりを痛めつけた。あいつは俺が縛られていると言った。そんなことはあるのか?この俺が縛られているだと?まさか、ありえない。あいつは間違ったことを言っているんだ。そんな訳がないんだ…。

 スマートフォンが鳴った。誰かから電話が来たようだ。画面を見る。母親からだった。仕送りに関してのことだろうか、それとも実家に届いいたであろう俺の成績のことについてだろうか。今ここで電話に出るべきだろうか。もし、俺が家族という鎖に縛られているのだとすれば、また、反対に縛られず自由に生きているのだとすれば、俺はここで電話に出るのだろうか、それとも無視するのだろうか。もし電話に出れば、そこには俺の母親という一人の人間がいて、何かしら小言のようなことを言ってくるに違いない。それを聞くことは縛られているということだろうか?いや、そもそも電話がかかってきてしまう時点で俺は縛られているのではないか?このスマートフォンの契約代も、俺は一文も払っちゃいない。この部屋の家賃も、大学の学費も、そこには俺の金は一つとしてない。だが、俺はアルバイトすらしていない。大学生はアルバイトをする、そんな固まりきった考えに縛られたくはないから…。本当にそうだろうか?俺はただ理由をつけて逃げているのではないか?いや、まさか、そんなはずはない。だが、バイトをしなければ、それは俺が経済的自立をしたとは言えず、結局は未だにこの心の奥底に揺るがぬ楔を打ち込まれているのではないか?

 もう、何も分からなくなってしまった。何も考えたくない。俺は、この世界に生まれてくるにはあまりにも繊細で高尚過ぎたのだ。改めて、俺はこの世界を憎む。この鎖だらけの、人々を縛り付け、苦しめる世界を。

 スマートフォンをゴミ箱に投げ捨てて、目をつぶって眠りに落ちた。


 7


 闇の中にいた。紛うことなき、純粋な闇。今俺という人間は確かにそこにいて、闇の中にただ一つの異端のものとしてあった。俺の目には闇が映っている。鼻にはどことなく腐ったような臭いが届いている。風もあった。俺の全身がそれを感じていた。音もある。この耳に響くのは、川のさざ波の音。清く、安らかな気分を引き起こす。

 目の前に一人の人間がいた。無様な顔をして、そいつは泣き、叫び、助けを求めていた。体を何本もの縄で縛られ、まるで身動きができないでいた。

 これと似た風景を前にも見た気がする。ああ、そうか。あの地蔵だ。ちょうどあれとそっくりだ。俺が今日(昨日?)の午後に広瀬川の横で見た、あの薄気味悪い地蔵。ああ、彼は一体何故あんな寂しいところにいたのだろう。何故縛られるがままでいたのだろう。あの地蔵に関する説明をしっかりと読んでおけばよかった。今になって後悔している。

 もっとも、今目の前にいるのはその地蔵ではなく、間違いなく一人の人間であった。そいつの眼には悲しさと、怒りと、諦めがあった。俺は心の底から同情した。同情せずにはいられなかった。もうこれ以上縛らないでくれ、奴の体全体がそう言っていた。

 俺は、もうここから出たくないと思った。

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シバルナ ポール石橋 @DavidMcCartney

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