孤独同士で珈琲を(後)

この部屋は元々、僕と彼女の部屋だった。二人だけの空間だった。

僕は彼女が笑ってくれてさえいれば幸せだったし、他に何もいらなかった。


だがある日、彼女は突然居なくなった。


『貴方といると苦しい』

という一文だけを残して消えた。

気が付いたら僕は、首に縄をかけていた。


あれから何年経ったのだろうか。 よく分からない。

何人かこの部屋に引っ越しをして来たけれど、全員脅かして追い出してやった。


ここは僕と彼女の部屋なんだから。 想い出の場所なんだから。他人の匂いや空気で乱暴に汚されるのなんて、そんなの嫌だ。


この部屋は僕の大事な棺なのだ。

そうして暫くの間、僕の棺は誰かに荒らされることなく、静かに、健やかに、時が過ぎていった。


……あのオンナが来るまでは。


今回やって来た墓荒らしは、図々しく、手強く、そして飄々としていた。

奴は部屋に入って来た途端、僕と目が合うなりこう言った。


「あー、どうりで家賃が安いわけだわぁ」


何度金縛りにあわせようと、何度首吊りを実演して見せようと、オンナはアッケラカンとこう言い放つのだ。


「ごめんね、明日仕事が早いの。 生きてる人間って大変なのよ」


そういったやり取りが続く内、日が経つにつれて、心が徐々に折れていくのを強く感じた。


このオンナ、変だ。


抵抗する気力も尽きて、僕は部屋の隅で膝を抱えて過ごす様になった。


オンナはこちらを気にかける様子もなく、テレビをみたり、飯を食ったり、本を読んだり……好き放題している。 もう腹も立たない。


どんな育ち方をしたら、こんな図太い神経を持った人間になるのだろうか。


ある日、奴は突然、ニコニコと笑いながら僕に話しかけてきた。

「こたつに入れ」と。

正気じゃないと思った。薄気味悪さすら感じた。


なんだかもうヤケになって「お前なんか嫌いだ」だとか「早くここから出て行け」だとか、子どもじみた罵声を浴びせかけてみたたが、オンナはそれでもニコニコとしている。


そんな呑気な顔を見ていたら、腹立たしくて悔しくて、自分の今までの人生と恨み辛みを綯い交ぜにした真っ黒な全てを吐きかけてやりたくなったのだ。


命を捨てても構わない程の好きな人がいたこと。

そして、そんな大事な人からアッサリと捨てられたこと。

あとは文字通り、そのまま命を捨ててしまったこと。

ありったけの呪いを全て目の前の女にぶつけてやった。


が、


「命を捨てても構わないと想える程、人を好きになれるなんて、素敵なことだ」


インスタントコーヒーをカップに移しながら、オンナはゆったり答えた。


どうせ「失恋くらいで死ぬなんて、女々しい男だ」と鼻で笑われるだろうと思っていた。

全く想像だにしなかった返答に、僕はただただ呆然とするしかなかった。


女は軽い口調で続ける。


「私は壊れるものに興味が無い。 だから人を心の底から好きになることは無い。 他の何よりも、最期まで手元にある自分が大事だ」


満たされたカップをこちらに差し出す彼女が、なんだか空っぽに見えた。


「孤独な者同士、たまにはこうしてコーヒーを飲もう」


湯気立つカップを眺めながら、宇宙人めいた彼女の言葉を聞く。


唯一の大事なものから捨てられた僕と、唯一の大事なものが自分だけの彼女。


形は違えど、僕らは独りだ。


ああ、思えば、人と話したのは何年ぶりだろう。

こんなに自分のことを話したのは、あの人以外では初めてだ。


「孤独な者同士」。

もしかしたら、この豪胆な女も心の底から他人に興味が持てない自分に寂しさを感じているのかもしれない。


たまになら、コーヒーに付き合うくらいしてやってもいい。 出来るなら早く、ここから出て行って欲しいけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る