第9話知られざる会話
「ねえねえ、ちょっと聞いてよ」
「また噂話? あんたも好きだねえ。そろそろ大概にしときなよ。全く……どこから仕入れてくるんだか」
「まあ、いいじゃないか。それよりもさ、聞いたかい。
「ええ、小耳にはさんだ程度だけどね」
「いやね、私もおかしいと思っていたのよ。言っていること無茶苦茶だし、支離滅裂だし」
「そうねえ……。でも、まだ五十八歳なんでしょ? まだまだお若いのにその年で認知症なんて。お気の毒よね……」
「そうそう。しかも結構、認知症が進んでいたらしいわよ。この間なんて徘徊してたなんて聞くし」
「えっ? 本当?」
「こないだ家に帰らずに、つい先日に潰れた商店街にいたらしいわ。穴田さんの娘さんがようやく見つけたらしいけれど、その時の本人は発狂して逃げ出したらしいんだけどね」
「ええー。それで?」
「それでね。穴田さんの娘さんが懸命に追って、辿り着いたのがとある廃墟だったらしいわ。どうやら、穴田さんはその廃墟が自分の家だと思い込んでいたみたい」
「それは、災難ね……。ところで穴田の娘さんって、いつも穴田さんの隣にいた若い女性の方? すごい可愛い? あの子がいつもお世話してるのね」
「そうよ。いつもいつも施設に送り迎えに来てくれる彼女。穴田さんの父親の隠し子。まあ、その父親も母親ももう死んでるらしいから二人暮らしらしいけどね」
「災難が重なるわよね。同情しちゃうわ。他に親族のかたはいないの?」
「いないらしいわ。穴田さんの母親も亡くなってるらしいし」
「それじゃあ、本当に穴田さんが亡くなったら天涯孤独じゃない。あんなに気立てが良くて、いい子なのに」
「いや、……彼女はもう天涯孤独なのかもしれないよ」
「え? なに? どういうこと?」
「穴田さんの認知症が結構やばくなってきたらしくて、彼女のことを忘れているみたいなんだよ」
「えええええ!? でも穴田さん、いつもわたしたちには無関心だけど、彼女と話すときはすごい和やかで……。てっきり、わたしはまだ覚えてるものかと……」
「どうにもそうじゃないらしいんだよね。そもそも、穴田さんが見ている世界と私たちが見てる世界が異なっているんだよ」
「異なっている……。視覚的な意味でってことかい?」
「認識的な意味で、かな。あんた、ここはどこか分かるだろ?」
「そ、そりゃあ。具体的なことまでは息子に任せてるから、よくは知らないけど老人施設でしょ」
「そうさね。ここは老人施設。でもね、彼は違うんだよ。ここをどうやら学校と思ってるらしいんだよねえ……」
「え」
「自分はまだ学生で、ここは学校。わたしらはクラスメイト。この施設のスタッフは先生。穴田さんにとってはそういう認識さ。それ以外でも以下でもない。認識が誤解され、妄想と設定が入り混じっているんだろうね。わたしらでは到底理解ができないところにいるのさ」
「じゃ、じゃあ、彼女も?」
「ああ、おそらくクラスメイトとして認識されていることが濃厚だとわたしは思うよ。聞き耳を立ててたからほとんど間違いはないね。ただ……」
「ただ?」
「詳しいことまではわたしも知らないんだけどさ。彼女はまた別枠の認識だと思ってるんだよ。うまくは言えないんだけどさ。そう、まるで昔に好意を抱いてた相手? あるいは友達だった人に見立ててるように感じてるんだ。なぜだかね」
「……もしかすると、学生時代に恋してたのかね?」
「あははははははっっ!! そうかもしれないね。あるいは心のどこかで自分に接してくれる人を望んでいたのかもしれない」
「なんか、悲しいというか寂しい気持ちになるねえ……」
「さてね。なにが真実なんて本人にしかわかりゃしないさ。まあ、そういうわけだから彼女だけは笑顔で接していたわけだよ。それ以外はそうだね。自分と彼女以外が敵、という認識よりも興味がないと言った方がいいかもしれない。だからわたしらに対して、特に目立った行動はなかった……予想だけどね」
「……」
「わたしは、興味がないということに怖さを感じてしまうよ」
「怖さ? そういう感情がないということに怖さを感じるってこと?」
「感情はある。あるにはあるんだ。笑ったりしてはいるんだからね。そういうわけじゃなくて、もっと、こう。うまくいえないんだけだけどさ。本能が曖昧、忘れてるって感じ。本能と理性がうまくかみあってないというか……なんというか」
「何言ってるかよくわからないよ」
「ほら、認知症の人って怒りっぽくなるっていうじゃない。どんどん自分の理性では抑えられなくなって、本能が爆発して止まらなくなって」
「テレビとかでよく言っているわよね。なんでかはわからないけど」
「それでね。逆に理性の方が縛られて、本能の方が強くなって。それで本能も本能で行動していくんだけど最終的には自分すらわからなくなってさ。自分は本能に従って行動しているから、その本能も縛られていって。何もかも忘れていって、待っているのはただの無。まあ、それはわたしの認知症のイメージでしかないけどね」
「それで?」
「理性も縛られて、本能も縛られて、そこには何が残ってると思う? おそらくは無関心。その無関心こそがわたしらに興味がない理由かもしれない」
「それにどこに怖さを感じるの?」
「わたしにとっては、怖いさ。理性も本能も縛られて、今度は何を縛られるのか。未来のことを考えたら、恐れずにはいられないよ」
「そう、なのかね。あんまりわからないけど」
「大変だよ、今後の彼女はね」
「そういえば、彼女はわかっているんですか? 自分が忘れられていることに」
「ああ、大分前に気づいていたみたいだよ。穴田さんはなにやら彼女のことを『日岡さん』だとか『橋本さん』だとか呼んでいたよ。この前、そう呼ばれてるのを見たよ」
「橋本さんはわたしも聞きました。それでてっきり、わたしは彼女のことを橋本さんって名前なのかと」
「そう思うのが自然だね」
「彼女の名前はなんて言うんですか?」
「
「そう、まだ若いのに本当に偉いわねー」
「本当にねー。もうここに来ないのが残念よー」
「え? もうここに来ないの? どうして?」
「ほら、穴田さんの病状が大分悪化してきたじゃない。これ以上は他人に迷惑をかけてしまう可能性があるからって別の施設に移動したのよ。だから、今日は穴田さん来てないでしょ?」
「そういえば、今日見てないわ。今日からもう別の施設に?」
「ええ。施設の手続きも済まして、さきほどありがとうございましたって施設のスタッフに挨拶してたわよ」
「そうなの!? 全く気がつかなかったわ。わたしも頑張ってねの一言ぐらいいいたかったわー」
「ホント、何度も言うけどこの先が大変よ。彼女も勿論だけど、穴田さん本人も」
「いずれ、全部忘れてしまうのかしら。自らの認識も妄想も設定すらも」
「そうね。でも、あるいはもしかしたら……」
「?」
「それ以上の辛いことが待っているのかもしれないわ……」
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