第7話本能と理性

 ユカリと過ごして三日目の朝になる。

 ぼくは学校に行った。朝起きてからユカリの様子を見ていない。おそらく、ユカリの様子を見なくても心配ないだろう。

 これは自身の慢心ではない。

 自分はもう退屈の日々に戻りつつあるのだろう。そう感じた。


 教室に入って、自分の席に座る。

 後は朝のホームルームが始まるのを待つだけ。なんとも勿体ない時間だ。

 することもなく、僕は机に突っ伏して寝る。

 目を閉じていれば次第に眠れると思っていたが、周りの声がやたらと大きく聞こえる。教室には既にグループがあり、グループ同士の会話がやけにうるさかった。

 誰かが笑っている。声の主はわからない。声の主がわからないほど、様々な言葉が飛び交っている。ぼくは、海底に沈んでしまったかのような衝動に駆られた。だけど海底はこんなにうるさくはない。

 ではなぜこんな表現が出てくるのだろうか。ぼくにはその正体を掴む術はない。


「〇〇〇〇。〇〇〇ー。〇〇〇〇〇〇〇〇めます」


 担任の先生が教室に入ってくる。同時にぼくは顔を上げた。

 担任の声とともにグループはバラバラになる。クラスメイト達はそれぞれ自分の席に着く。


「今日も一日頑張りましょう。点呼を取ります」


 先生は出席を取り、無難に連絡事項を伝えていく。

 ぼくは軽く聞き流しながら話を聞いていた。内容は特に耳に入ってはいない。正確にいうなら、聞いても無駄といったほうがいいかもしれない。ノイズだらけの声に、内容が頭に入るわけがなかった。


「〇〇さん? あ〇〇さん!」


「え? は、はい」


 いきなり担任の先生から呼ばれ、どもりながら返事をする。

 どこか先生は悲しげで、哀愁を漂わせていた。


「今からお話は大丈夫ですか?」


「わ、わかりました」


 小さな声で呟く。先生の耳に届いているかは定かではない。

 いつの間にかホームルームは終わっていたらしい。

 クラスメイトは一人、また一人席を離れていっていつものグループと話をしていた。


「あのー、先生。要件は何でしょうか?」


 先生は僕の顔を見るなり、


「先生? ……あー、えーっと。その」


「? なんでしょう?」


 なぜだか先生は挙動不審だ。

 ぼくが首を傾げていると、日岡さんがこちらに近づいてきた。おそらく、日岡さんも先生に呼ばれているのであろう。ぼくは、そう解釈する。

 ぼくの隣に立ち、先生の話に耳を傾けていた。

 先生は日岡さんを見てから、一つ咳払いをする。


「今日はお二人方に相談しにきました」


 相談? なんだろう?

 基本的には日岡さんが聞いていて、ぼくは隣にいただけだった。先生の言うことはノイズだらけで、ぼくにはさっぱりだ。

 日岡さんが要約するに、ぼくが帰宅部であることを心配して呼んだらしい。それでどうにかこうにかして、ぼくを部活動に入れたいということだった。


「まあ、いいよ。入っても」


 ぼくは、即答した。

 正直、部活動に入ること自体が嫌ではない。


「本当に?」


 日岡さんの問いに頷く。

 ぼくははっきりとそう言うと、先生は腕を組み、頭を捻らせる。

 ぼくの姿勢が気に入らないのだろうか。

 そう思ったが、先生はフッと頬を緩ませた。


「わかりました」


 先生の意図していることがわからない。


「それではいろいろと手続きがありますので、日岡さんは残ってください」


 先生は日岡さんに一枚の紙を差し出す。入部届だった。

 日岡さんは受け取る。


「規約の方をもう一度読んでいただき、自分の名前を書いてください。〇〇〇〇~」


 先生と日岡さんは、ぼくを置いて話し始めてしまった。

 まるでぼくは除け者ではないか。ぼくは、溜息を吐く。


 先生は言うだけ言って満足したのか、教室を後にする。日岡さんはぼくに「大丈夫だから」と声をかけて、同じく教室を後にした。

 話が終わり、いつもの日常がぼくを迎えてくれる。相変わらずの教室。最近のテレビを話題にして語るクラスメイト、勉強道具を手に次の授業のため教えを乞うクラスメイト。はたまたゲームを片手に一緒にプレイする共々。

 ぼくは、ただ一人読書をして過ごした。


 放課後になった。

 ぼくは急いで教室から出る。

 この教室にいたくない。その気持ちが強くあったためだ。

 自身の日常はここではなく、別の場所にある。言うまでもなく、ぼくの自宅に自らの日常があった。

 ぼくはあの日常に依存しすぎているのかもしれない。それでも構わない。ぼくには退屈な日々を望んでいないからだ。

 躍起になって走っていた。あっという間に自宅のドアの前にいる。今の自分の息遣いは荒くなっているのがわかる。


「た、ただいま……」


 ぼくはできるだけ平静を装って鍵を開ける。

 ユカリからの返事がない。まさか彼女は死んでいるのではないかという考えが脳裏に横切る。ダッシュして玄関を上がった。

 ユカリは生きていた。こちらを薄目で見つめていた。


「おかえり」


 ユカリはぼくの耳に聞こえないぐらいに、小さく呟く。

 その声はとても弱々しく、今にも消えていきそうな雰囲気だった。その様子を見て、ぼくは最悪の事態にならなくて済んだと胸を撫で下ろす。


「なんで、あなたはホッとしたような顔をしているの?」


 ユカリが聞いてくる。

 そんなの聞くまでもない。


「奴隷が死んだら、僕の駒が減るからだよ」


「それは、嘘ですね」


 は? ウソ。嘘?

 何を言っているのだろうか。ぼくが嘘をついていることなんてない。


「嘘ってなんだよ」


「そのままの、意味です……。奴隷は死んでも、また見つければいい。奴隷は、おもちゃなんですよね? そういうのって普通はガッカリするものではないんですか? なぜあなたは安堵の表情を浮かべられたのでしょうか?」


「安堵ってなんだよ。ぼくは心配なんかしてない」


「心配なんて一言も言ってません……。心配、してくれたんですか?」


「はっ!! 誰が奴隷の心配をするかよっ!」


 いちいちぼくの言葉に揚げ足を取っているので、イライラしてきた。

 ユカリの腹部を一発殴っておくか。

 身体は弱っている感じなので、いつもより力を抑えて殴りつける。


「ッが!? ……やっぱりあなたはどこか理性があってきちんと分別がついている」


「言っておくけどな、お前なんかただの退屈しのぎさ。ぼくはただ退屈な日々を過ごすのが嫌で、お前をいたぶっているのに過ぎない」


「……あなたにとって、退屈な日々って何ですか?」


 何? ぼくにとって退屈な日々。だと。

 そんなものは決まっている。


 ……。

 …………。

 ………………。


 あれ。ぼくにとって退屈な日々とはなんだろう。

 ぼくはユカリの問いに即答で答えられなかった。一瞬、考え込んでしまう。

 そもそもぼくはどこから退屈な日々になったと思っていたのだろうか。少なくとも、母親といた頃はそんな想いはなかった。母親が死んでから、徐々に蓄積されていったものだ。

 今はその気持ちはとても強くて、クラスメイトを見ているとそんな気持ちになってしまう。今では見たくなくても、聞きたくなくても、ついつい目に入っている。

 この感情の正体はなんなのだろうか。

 嫉妬、とは違う気がする。憤怒、でもない。クラスメイトに対して、そこまでの愛着がぼくにはない。

 だったら、これは……。


「憧れ、ですか?」


 ぼくは我に返る。

 ユカリの一言で。


「あなたは寂しかったんです」


「な、なんだ。いきなり」


「あなたは退屈な日々が嫌だったわけじゃない。一人で過ごす退屈な日々が嫌なだけだったんです」


 ぼくは黙る。反論しようと思ったが、否定することができなかった。


「……黙れ」


 ようやく出てきた言葉はユカリの口を閉ざすだけのものだった。


「寂しいからこそ、私と会話をしている。今思えば、あなたの方からしか話しかけていませんでしたね」


「黙れと言っている」


「だからこそ、あなたはさっきみたいに安堵した。殺してしまったら、あなたはまた独りになる。独りになる辛さと、独りになってしまった辛さはあなた自身が知っているから」


「黙れ!!!!」


「あなたには理性と先を見通す力があった。自分がどう動いたら、どうなるのかと。その結果が私に痣がない理由の一つで……」


「黙れえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッッッッ!!!!!!」


 ユカリの身体に覆いかぶさる。当の本人は抵抗する様子はない。手錠と鎖で逃げられないと判断しているのかじっとぼくを見ていた。


 馬鹿にしているのかその目は。

 そんな達観した視線で僕を見るな。

 今すぐにでも楽にしてやる。


 自分の両腕に力を加え、ユカリの首を押さえつけた。


「うぐっ…………ぐ………………」


 ユカリは苦しそうに呻く。僕は構いやしない。腕力を弱めることなく、少しずつ首に負荷をかけていく。指一本一本を意識して、ユカリの皮膚にめり込ませる。

 今ここで、ユカリを殺す。それが唯一、ぼくができるユカリへの反逆だ。


「お前なんかに……」


 気がつけば声が漏れていた。


「お前なんかに僕の何がわかるっていうんだ!!!!!!」


「………………ア……ェェ……」


 ユカリはもがきながら必死に呻いている。

 口をパクパクさせながら何かを訴えているようにも思えた。謝罪をしてももう遅い。ぼくはユカリを殺すことを決めた。その意志は揺らがない。

 だが、最後にユカリの言葉を聞いておくのもいいなと考える。

 ぼくは寛大なのだ。辞世の句ぐらい読ませてあげるというのも、主人の務めというもの。


「おい。もうお前を消すことが確定したが、最期に言い残したことはあるか?」


 力を少しだけ緩め、声を発するように促す。

 ユカリは呟く。その声は僕に届かない。


「あ? なんだって?」


「……せない」


「は?」


「あなたは私を殺せない」


 今度は一語一句絶やさず聞こえた。

 時が止まる。

 数秒、静寂に包まれた。


 ぼくの思考は、ただ一点のみ。


 ぶっ殺すという意志。

 純粋な殺意。


「もういいよ、お前」


 吐き捨てるように言った。

 あとは感情の赴くままに行動する。再び腕に力を込めて、ユカリの首を絞めた。ユカリは歯をくいしばり、顔をゆがませる。


 なにがぼくに殺せない、だ。

 今すぐ消してやる。


 消してやる。


 消してやる。消してやる。消してやる。消してや、


る。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。消してやる。


 そして、ぼくは。


 ぼくは、ユカリを。











 ユカリを殺せなかった。

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