第2話 転換
「ふぁーあ」
昼と言っても良い時間帯。そんな時間に起きた俺は、ゆっくりと支度を整え家を出る。
「やあ、僕はペスだよ」
そう話しかけられるが、昨日の夜ほどの嫌悪感はない。なぜなら昼は出歩く人が多く、ターゲットが分散されるからだ。
街ゆく主婦やサラリーマン。彼らが隠れ蓑になってくれるおかげで、俺の周りにはペスは2人しかいなかった。
大学へとついた俺は教室へ入る。
毎度のことながら、授業はすでに始まっているようだ。
あいつはどこかな……っと。
俺はキョロキョロと辺りを見回して目的の人物を探す。
「あ、いたいた」
俺はお目当ての人物の元に近づく。
「ヤマト、今日も遅刻じゃん」
「悪い、カエデ。朝苦手なんだよ」
俺は手で謝罪のポーズをつくり、カエデの隣の席に座った。
「そんなんだと就職してから苦労するよー?」
カエデは俺と同じ大学4年生。いわゆる彼女というやつだ。
カエデは茶色の長髪に痩せた体型、それにほどほどの胸をしている。丁度いい大きさ、と言い換えても良い。
「ちょっと、今ヤマト私の胸見てたでしょ。やーらーしーいー」
「み、みみみみ見てないわ!」
「わざとらし過ぎだよ、もう」
大げさに動揺した演技をした俺に、カエデは優しく笑いかけてくれる。
その優しさといつでも明るい性格は俺の心を癒してくれた。
正直言って、俺はかなりカエデにぞっこんだった。
翌日も、その翌日も。俺とカエデは大学で顔を合わせた。就職活動で大学に来れないこともあったが、そういう時は携帯で連絡を取り合った。
こんな終焉のような状況でも、世界は廻っている。学生は学校に通うし、社会人は働くし、主婦は子育てをする。人間の強さというものも案外侮ってはいけないものだ。
ある日。俺たちはデートに行くことにした。行き先は動物園である。
「楽しみだね、ヤマト!」
動物が大好きなカエデは興奮が抑えきれないようだ。子供の様にスキップなんかをしている。
「ヤマトはどんなどんな動物が好き?」
「俺はカエデが好きだよ」
「……むー。そう言うことじゃないし。てか私のこと動物扱いすんな!」
カエデは拗ねたように唇を尖らせる。
その動作も惚れている俺には可愛く思えてしまう。
しばらく喚いた後、俯いたカエデは顔を赤くして呟いた。
「でも、私もヤマトが好き……だよ?」
「カエデ……!」
そういうことには恥ずかしがりなカエデが面と向かって「好き」と言ってくれたことに、俺の心は跳ね上がる。
俺はカエデの顎に触れる。
カエデは察したように黙って目を閉じて唇を閉じた。
俺はカエデと唇を――
「やあ、僕はペスだよ」
折角の良い雰囲気を邪魔する声が耳に入る。ペスに害はないが、こういう時には本当に邪魔な存在だ。
「うるさいな……。あっちいこう、カエデ」
俺は目の前のカエデの手を取る。しかし、そこにいたのはペスだった。
「……カエデ?」
「やあ、僕はペスだよ」
俺は周りを見回すが、カエデの姿はどこにも見当たらない。
「おい……カエデ? 冗談やめろよ、心臓に悪いぞ」
「やあ、僕はペスだよ」
どこかにいるはずのカエデに向かって大きな声で叫ぶが、誰も返事を返してくれない。
「どうなってんだよ、一体……」
「やあ、僕はペスだよ」
これじゃ……これじゃまるで。
背中に冷たい汗が流れる。
ありえない。そんなことはありえない。
だが、状況的にはその可能性しか残っていなかった。
「…………お前、カエデなのか?」
俺は震える声で目の前のペスに尋ねる。
ペスは無表情で俺を見つめ、そして口を開いた。
「やあ、僕はペスだよ」
「うわあああああ!」
俺は半狂乱でカエデだったもの・・・・・から逃げ出した。
あれはカエデじゃないあれはカエデじゃないあれはカエデじゃない!
頭の中でそう念じるが、状況的にはすでにわかりきっていることだった。
カエデがペスになってしまったのだ。
俺の彼女はペスになってしまったのだ。
「やあ、僕はペスだよ」
ペスは全力で逃げる俺にも容易く追いついてくる。
その顔にも、声にも、仕草にも。俺は追ってくるペスのどこにもカエデの残滓を見つけることができない。
「お前は……お前はカエデじゃない! カエデ、どこにいるんだ、返事をしてくれ! カエデ!」
俺は大声を上げながら住宅街を駆けまわる。
すれ違う人たちは「またか」というように、俺にさして興味も湧かない様子だった。
「やあ、僕はペスだよ」
俺に興味を抱いているのはずっと追い続けてくるこのペスだけだった。
「違う、お前はカエデじゃない!」
俺はペスを力の限り吹っ飛ばした。
突然体を押されたペスは道の真ん中に飛び出す形になる。
丁度その時、トラックが道を横切った。
「やあ、僕はペス――」
グシャッという音がして。
グシャッという音がしてペスはトラックに轢かれた。
トラックの運転手は慌てて車を降りてきたが、引いた相手がペスだとわかって安心したように再びトラックに乗り込む。そして何食わぬ顔で発進していった。
ペスに人権は存在しない。正確に言うと、法の適用が認められていなかった。
「お、おい……」
俺は自分が押してしまった罪悪感からか、無残に轢かれたペスに近寄る。
その身体を抱きかかえ、車の通らない歩道に担ぎ入れた。
「や、あ、ぼ……だよ」
ペスはぼろぼろになりながらお決まりのフレーズを口にする。
「……悪かった! こんなことをするつもりじゃなかったんだ」
俺は傷だらけのペスに土下座した。周囲の人間が奇異の目で俺を見てくるが、そんなことは関係ない。
相手がペスだとかペスでないとか関係なく、取り返しのつかない最悪の行為をしてしまった。
その悔いからの土下座であった。
息も絶え絶えなペスはそんな俺を見て、わずかににこりと笑った。
「……あ」
その笑顔は紛れもなくカエデのものだった。
「カエデ、カエデなのか!?」
俺はペスの身体を抱き揺するが、何の反応も帰っては来ない。
腕の中のペスはすでに事切れていた。
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