ぺスノート ~このノートに名前を書かれた人間はペス~
どらねこ
第1話 ぺスノート
俺は食料が入った袋を抱えながら家へと走っていた。
ふと前を見ると、人影がこちらに近づいてきている。
くそっ、面倒だな。
俺はいらだちのあまり舌打ちを鳴らす。
「やあ、僕は――」
「邪魔だ」
話しかけてくる人影を肩で払い、俺は家へと急ぐ。
「やあ、僕――」
「うるさい」
先ほどとは別の人影。その呼びかけにも俺は応じない。
「やあ、――」
「俺に話しかけるな!」
俺は話しかけてくるやつらを引き離すため、全速力で走った。
「やあ、僕は――」
「やあ、僕は――」
「やあ、僕は――」
人影とすれ違うごとに、追ってくる数は増えていっている。
そしてなにより厄介なことに、こいつらは足が尋常じゃなく速いのだ。
取り囲まれながらもなんとか家に辿り着いた俺は、やつらを家に入れてしまわないように注意しながら玄関の戸を素早く開け、そして閉める。
「やあ、僕はペスだよ」
扉が閉まる直前、やつらの一人がそう言った。
「はぁ……災難だった」
見つからずに行けると思ったが、見通しが甘かったらしい。以前に夜外出した2か月前よりもペスはその数を増していた。
これならターゲットが分散する昼に外出した方が良かったな、と俺は反省する。
「……あ、僕は……」
「……あ、僕は……」
「……あ、僕は……」
玄関の向こう側からは相変わらずペスたちの元気な声が聞こえてきていた。
「どいつもこいつも……」
ペスペスペスペス……。
この世の中はペスだらけだ。
数年から全世界で観測されるようになった奇病。それがペス病だ。
原因はわからない。道理もわからない。ただひとつわかっていることは、ある日突然ペスになってしまうということだけだ。
ペスになった者はその外見も性格も、全てがペスになる。
そして話す言葉は「やあ、僕はペスだよ」だけだ。ペスの習性として周囲でその声が聞こえると引き寄せられるというものがあるようで、一人に見つかると大勢に追いかけられることになる。
だが、ペスたちは物を壊したり暴力をふるったりすることはない。ただただ「やあ、僕はペスだよ」と繰り返すだけだ。
今回の外出で2か月分の食料を買い込んだ俺は、スナックの袋を開けて気晴らしにテレビをつける。
「引き続きペス病のニュースをお送りします。ついにペス病感染者が日本の人口の6割を突破しました。厚生労働省が発表したデータによりますと、ペス病感染者は先月の一か月間でおよそ6万人に上ったということです。これは以前の月からほぼ横ばいの数値ですが――」
俺はチャンネルを変える。ペスの声を聴きたくないからテレビをつけたと言うのに、そのテレビでペスの話をされちゃたまったもんじゃない。
「『夜にペスの声がうるさくて眠れない』ということ、ありませんか? そんなときはこれ、シルク耳栓! このシルクの独特の質感が周囲の雑音を全てカットしてくれるんですよ! 実際に購入した主婦の方の意見を――」
再びチャンネルを変える。こんな番組を見たって仕方ない。俺はテレビショッピングがしたいわけではないのだ。
「ペスの原因は未だに見つかっていないと言うことですが、何か予防策というのはないんでしょうか」
「いやー。なにぶん原因がわからないことにはなんとも……。とりあえず今のところ空気感染という説が一番有力なので、手洗いうがいはきちんと行うべきですね」
耐えきれず、テレビの電源を落とす。
途端に部屋の中は静寂で包まれた。どうやらペスたちは次の獲物をみつけて移動したようだ。
「……ハッ」
俺はコメンテーターの男が言った言葉を鼻で笑った。
空気感染だって? そんなまともなもんじゃない。
――あれは、人間の醜さが産み出した哀れな存在だ。
机の中にしまったショッキングピンクのノートを取り出す。
長いことしまったままにしていたせいか、ノートには埃が被っていた。
俺は埃を息で吹き飛ばし、表紙をパンパンと叩く。
そして水色の文字で書かれた文言を口に出した。
「ぺスノート……か」
表紙を開け、裏表紙に書かれたルールにも目を通す。
数年前に読んだものだが、もう内容はうろ覚えになっていた。
一つ。このノートに名前を書かれた人間はペス。
一つ。ノートを持っていない者にノートのことを伝えようとした人間もペス。
一つ。ノートの持ち主がペス、もしくは死ぬと、このノートは消滅する。
「まったく、何度読んでも馬鹿らしいな」
俺はノートを元の場所に仕舞い、ベッドにダイブする。
「どいつもこいつも、なんでぺスノートなんて使うんだか」
俺はそれが不思議で仕方がなかった。
数年前。普通の大学生だった俺が夢から覚めると、枕の下にぺスノートがあった。
最初は大学の誰かのいたずらかと思った。きっと俺が酔いつぶれたときに鍵を複製していたんだろうと。
誰かに勝手に部屋に入られたのは少し気味悪かったが、特に盗られたものもない。
ならば問題はないだろうと、能天気な俺は遅れて大学へと向かったのだった。
教室に入ると案の定授業は始まっており、俺は教室の後ろの方に腰掛けた。
教授は俺に一切の視線を送ることなく、慣れた様子で授業を続けている。
もう一眠りしようか。そう考えたときだった。
教授が突如、見慣れぬ若者の姿になった。
すっかり弛緩していた教室内に動揺が走る。
若者は二十歳前後で、茶色がかった短髪にピチピチの体操着を着ていた。
ざわつく俺たちを一通り見回し、若者は無表情で言い放った。
「やあ、僕はペスだよ」――と。
その言葉によって俺はノートが本物であることと、俺の他にもノートを持っている人間がいることを知ったのだ。
その日以来、ペスは世界中で増え続けている。
最初は政府も躍起になって隔離政策をとっていたが、どこからともなく現れるペスに人手が足りなくなった結果、今は放置されている。
ペスになった者は決して人に危害を加えない。そして食事や休息も必要としないようだった。
ペス病に罹った者はすでに世界の6割を超えている。人間の抱える心の闇がこれほど深いものだとは、このノートを与えた存在も想像していなかったのではなかろうか。
「ペスにする」というのは間違いなく殺人と同等の罪であると俺は感じていた。
それを行っている人間が、世界中に腐るほどいると言う事実。俺にはそれが信じられなかった。
ぺスノートを使うようなやつこそペスになっちまえばいいんだ。
俺はそんなことを考えながら眠りについた。
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